10月7日(水)
朝起きると今日も両親はすでに出かけており、食卓に一枚の書き置きがあった。なんだろうと思い手に取ると、「出かけています。晩ごはんつくっておいてください。カレーです」。おかげですっかり目が覚めた。しかしそれでもうまく事情が判然としない。うちで家族の食事を賄うのはいつも母だ。その母が不在とあらば当然代わりの誰かがその役割を担う必要があり、そうなるとそれをするのに時間的余裕のあるボクに白羽の矢が立てられるのは理解できる。だからこれは、よく考えるまでもなくちっとも「判然としない」というようなことではなく、要するにボクは、この唐突さに面食らっただけなのだ。
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朝ごはんをもぐもぐと食べながら考える、その段取りを。たかがカレーだ、よほど奇をてらったことでもしない限り(例えばよく聞かれる隠し味にコーヒーを入れるだの、砂糖を入れるだのチャツネ的なものを入れるだの)、失敗することはないメニューだ。ふだん気まぐれ以外に台所に立つことなどない自分は、そのような玄人気取りなマネをするつもりはさらさらない。若くしてすでに「慎重」というスーツを着こなしているのだ。それにも関わらず朝食の席では段取りのイメージングに必死で、食べたコロッケがふつうのそれであったか、クリーム系のそれであったかすらも記憶にない。いや、コロッケであったかすらも今となっては定かではなく、口の横に着いている衣片でかろうじて何かそれらしき揚げ物を食べたのだということが分かる程度だ。それくらいボクは、慣れないことに向かうときは人一倍構えてしまう気の毒な青年なのだ。とにかくそのようにして、平日真っ只中の時刻はブランチタイム、男二十二のカレーづくりがはじまった。余談だけど、「ブランチ」とは「ブレイクファスト(朝食)」と「ランチ(昼食)」を組み合わせた言葉だそうだ。
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そういえば、と台所に立って思い出した。ここは自分にとってそれほど馴染みの薄い場所ではないぞ。思い返せば最近でこそ少しご無沙汰にはなっているものの、以前ボクはたまご焼き(だしまき)づくりにはまっていたことがあり、そのブームはある日突然、オリーブオイルのうまさを発見したことに端を発し、パスタづくりに取って代わられ、それは細々と今も続いているのだ。「台所はご無沙汰」とは先に述べたが実はそうではないかもしれない。最後に台所に立って料理をしたのはほんの数週間前で、これはおそらく実家暮らしの男に限ればそれほどご無沙汰なものではないと言えそう。にも関わらず「たかが」のカレーづくりに慎重になるとはなんとも情けない。
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これは謙遜などではなく、包丁使いはお粗末だ。ベテラン主婦の域に達した母のそれをふだん見てい、それがふつうだと認識してしまっているから余計に、自分のそのお粗末加減に腹立たしくなる。じゃがいもの皮むきに、あれほど手こずるとは予定外だった。
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使ったのは小ぶりのじゃがいも、それを6個ほど。そうは言いながらも5個目6個目くらいになると少しずつ慣れてき、はじめに比べるとその程度でもずいぶんと上達が感じられ、すっかりじゃがいもの皮むきがたのしくなった。そう思えはじめた頃に終わってしまうだなんてまさに、「サヨナラだけが人生さ」なのかもしれない。
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自分でつくるなら自由だ。すべての権限はこの手の中にある。だからボクはひとつだけその権利を行使し、苦手なにんじんはかわいそうなくらい小さく切った。徐々に興に入ってきたボクは煮込みの段になると台所の隅っこに見つけたローリエなんかを入れたりして、予想以上となる一時間くらいかけ、ようやく一鍋のカレーを完成させたのだった。お昼ごはんは不要となるほどの味見をくり返し、やはりカレーはカレー、誰がつくっても失敗なんてないんだと、充足感とそしてめでたくも少しの「張り合いのなさ」を感じたのだった。煮込みすぎたのか、じゃがいもがほとんど溶けてしまったのは失敗のうちに入るだろうか。
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晩ごはんに食べるカレー、ボクがつくるのはここまでで、あとは「時間」にバトンを渡す。そう、「寝かせる」という工程。この言葉もまた敷居の高い言葉であって、そうめったに使えるチャンスがない。だからボクはここぞとばかりに「今、自分はカレーを寝かせているのだ」「さあ、たっぷりと寝かされてくれよ」と多用してひとりたのしんでいる。
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まったく、総じていったい何をやっているのだか。