9月13日(日)
ボクは探しものをしている。それが見つからなくてここ二、三日頭を悩ませている。自分のことだ、捨てたなどということはまず考えられなく、例えば「もう不要だろう」と予想して勝手に捨てるような家族でもない。だからどこかに眠っているはずなのだ。だけど、ない。自分のことだ、「しばらく使いそうにないから」としまったあのとき、次にまた必要となったときにすぐに思い出せるようにきちんと脳のファイルに分類して納めるイメージを何度もくり返したはずだ。どこにしまったのかを何かメモに書き留めたことだって十分に考えられる。だとしたら、そのメモは? 探しものはもうひとつ増えることになる。あるいは、次にまた必要となるであろう頃の自分に宛てて、その頃にうまく届くように在りかを記した手紙を自分へ投函したことだってあり得ないとも言い切れない。だとしても、こんなに悩んでいる今現在、それが明日ポストに届くなどという予感はくすりともない。
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結局は不発に終わったのだから何の価値もないのだけど、「まぁ大抵あそこかあそこにあるだろう」というだいたいの目ぼしはついていた。しかし楽勝ムードでその引き出しを開けてみたら、そこにあるはずのものは、なかった。「ない」という状態にもいろいろな「ない状態」があると思うのだが、今回の件の「なかった」はその中でも最上級に振り分けられるほどの「なかった」ぶり。目ぼしいところは二つあると言ったが、もうひとつの箱の中も同じ状態だった。ちょっと信じられないことだ。
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保身のために言うわけではないが、それでも自分の記憶は正しかったと思う。結果としてそこには所望のものがなかったのならば素直に自分の非を認めるのがほんとうなのだろうが、それでも、自分の記憶は正しかったと言う。ならば、「ソレが勝手に移動したというのか」と問われれば、「半分そのとおりだ」と答えたい。
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昔から自分は、人間の持つ「忘れる」という性質を憎んできたふしがある。忘れられたくないし、それ以上に自分が忘れてしまうことが、人一倍いやなのだ。だから、このせまい室内、家の中だとしても大した広さではない、そんな中でどこにしまい忘れたのか分からないなどという状況はあってはならない事態だ。年齢期ごとに部屋の大規模な整理はやってきた。生まれもってのそんな性質であるボクは、だから毎回きちんと、しまったものは頭のファイルに分類し直しているはず。だけれど人間はいつもいつでも同じではない。ときには心がふつうでないときだってある。そんなときに部屋の整理をしてしまったことがおそらくあって、平常ではないばかりに仕上げの「分類リストのアップデート」を怠ってしまったことだって考えられる。今回見つからない原因はおそらくそれだと睨んでいる。「ほんとうの自分の知らないうちに移動したのだ」と――。
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……などというようなことをつらつらと熱弁したところで保身になるとも思えないし、なにより探しものの状況は何も変わらない。とにかく慣れない緊急事態であるために、どう動けばよいのかが分からない。
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ところで、なんだか今日は文体(と言うのだろうか?)がいつもと少しちがうように思えている。それというのはおそらく、今日の待ち時間、ある劇作家さんのブログを何日ぶんも一気にまとめて読んだために、その人の文体に多分の影響を受けているから。ふだんの自分のそれが思い出せないままここまで書いてきた。これはこれで貴重な経験だからこのまま更新するのだが、ものすごく違和感がある。自分の文体――これも目下の探しもののひとつであるわけで、そう考えれば気づいていないだけで身の回りには「探すべきもの」は実はたくさんあるのではないだろうか。探さなくてはならないものがたくさんあるのだけど、そこにまだ気づいていないということであって、人間は「探しものすること」を探さなくてはならないというふうに思われる。ボクは探しものをしている。