昭和48年の「細雪」。 | デュアンの夜更かし

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日記のようなことはあまり書かないつもり。

 9月12日(土)

 谷崎潤一郎の小説「細雪」を昨夜(あれは明け方か?)、ようやく読了した。上・中・下巻となかなかのボリュームで、かつ一ページに細かな見づらい文字がびっしりと詰まっており、また、これはもともと父の本棚に所蔵されていた本であり、最初にまめにも父自身が読みはじめた日づけが書き込まれているのを見ると「昭和48年」とあり、それから36年という歳月は紙自体にもなかなかの経年変化を起こさせており、それら諸々の理由を一まとめに感想を言えば「かなり読みにくかった」。

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 一冊の本(厳密に言えば三冊で、正確に言うなら「ひとつの小説」)をこんなにゆっくりと読んだのはきっとはじめてだ。例えば今手もとにある下巻、まったく信憑性のある記憶ではないけれど、ボクはこれ一冊読むのに2か月ほどを要した。一方、まめな父は当然読み終わった日づけも書き込んであり、それを見ればいっとう分厚い下巻でも読むのに要した日数はわずか8日であり、息子に比べて父はずいぶんと熱心な読書家だった、と言ってしまうのはもしかしたら早計なのかもしれない。というのはやはり時代がちがうからと言えそうで、36年前と比べたらおそらく現代人の周りにはいろいろと娯楽が溢れかえっている。選択肢の幅がちがいすぎており、確率的に言っても、現代人はある時間を読書に充てる機会はうんと少ないのではないかと思われる。だけれど時代を問わず好きな人ならば何をおいても本を読むもので、自分のお粗末な読書量を時代のせいにするのはあまりにも浅はかなことだ。父は8日で読み、息子は3か月(一体ほんとうはどのくらいなのだ? わからない!)かかったのは紛れもない事実であって、――大切なのは読むスピードでないのは承知しているが、そんなのんきな調子ではいけないぞという声が聞こえた気がした。

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 それはそうと、時代を超えて親子が同じ小説を、同じ文庫分で読んだというのはなかなか良い話の種になりそうだ。この文庫本には、人の手による傍線が施されている文章が数か所あったのだが、ボクにはそれがどういう意図なのかがさっぱり分からなかった。そしてそれがどうにも気になるのはほんとうのこと。これはひとつ、今晩にでも父に尋ねてみよう。

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 これとほとんど同じようなことが以前、母の本棚から拝借した中原中也の詩集にも見られ、その真意を知ったときは、――それ自体は別段おもしろくもない理由だったのだが、自分が読み飛ばすような言葉の裏に、母には何かしらの物語があったのだと思えばなんだか心が言い知れぬわくわくに包まれたものだった。

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 話は文庫本「細雪」に戻って……、今ふと気づいたことなのだが、36年前といえば父はおそらく今の自分と同じくらいの歳だ。今回自分が「細雪」を読もうと思ったことに特に理由はなく、あるとしてもそれは今年が「文豪に捧げる一年」というふうに設定していたことくらいで、それならば数ある中から選んだものが「細雪」でなくてもよかったはず。ならばそれは巡り合わせと思えてき、36年前の父が自分にかけた何か魔法のようなものにも思えてくる。だとしたら、父と同じことを自分もやらなくてはいけないような気がしてき、そのために父からこの文庫本を譲り受けなくてはならない。ただ、22歳そこらの自分に置き換えて考えると、再び読む・読まない関わらず愛読した本というのは自分の本棚に置いておきたいものだ。いくら息子と言えど譲渡はなかなか無理な注文かと、それはいつの時代でもそうだろう。しかし、これでもし父が「いいぞ」などあっさり言ってくれるとしたら、36年の年月がそう変えさせたものであって、その重みに、父に対して頭は上がらなくなってしまうだろう。

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 なにはともあれふだんあまりかみ合わない父と、今晩だけは珍しくたのしい話ができそうだ。