レースカーテン。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 9月11日(金)

 同じ部屋、同じ光景の中にずっといるといつのまにかいろいろなことに盲目になっているようで、とっくにお役ごめんになっているべきの昔むかしの置き物を何も気にせず置いたままにしていたり、たくさんあるから別にいいやと何年も前から止まったままの時計をそのままにしていたり、月めくりカレンダーをまだ前月からめくらずにいてもつい先ほどまで気がつかないままでいたりする(これはまた別の問題かもしれない)。壁紙やカーテンだってそうである。

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 昨日、おもむろにボクの部屋にやってきた母はカーテンに目を留めるやいなや「きたないなぁ」とボクに言うでもなくひとりごち、踵を返して慌ただしく家を飛び出したかと思えば数十分後新しいカーテンと、掃除機を抱えて戻ってきた。「これと替えなさい」。やぶからぼうになんだと思いながらも渋々、古くなって汚くなった(ボクは別にそうは思わない)レースカーテンと今しがた買ってきてくれたばかりの新品のそれを付け替えることに。前にも増してものぐさになり果てたボクは面倒くさそうだなぁと憂鬱気味に取りかかったのだが、意外にもその作業は簡単なもので、ものの数分でカーテンの付け替えは完了した。やはり前のはずいぶんと年季の入ったものだったようで、それは古いものを取り外すときに舞って落ちた大量の埃によって実感した。あんなに大量の埃が広がってしまったとなるとさすがに掃除にまで手を広げなくてはならないと感じ、あぁ面倒くさいと声に出しながら下におりようとしたら、ほどなく部屋の出口で所望の掃除機につまずいた。我が家の掃除機は世界初、需要を察知して階段を上ってまで駆けつけてくれるものだったのか! とうっとりしたところで、母の再登場シーンがフラッシュバック。そういえば新しいカーテンと共に掃除機を持ってきてくれていたのだっけ。さすれば母にはこうなることが予め見えていたということになり、なんだか手のひらの上で転がされているようで癪(しゃく)な気分と、どこまで先が見えているのだろうかという畏怖の念が複雑に混ざり合っていた。

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 そんな複雑な心情と掃除機にぶつけてじんじん痛む右足小指の痛みが一段落つくと掃除に取りかかったわけだが、あらかた吸い込み終わって顔を上げると、驚くほどにまっ白な美しいレースカーテンが目に飛び込んできた。そこでようやく気がついた、前のは相当汚くなっていたのだということに。その衝撃たるやかなりのもので、一気に部屋が明るくなったと感じるほど。無論昼間の太陽の光量に変わりはなく、それはひとえにカーテンがまっ白になったことによる。ただこれだけのことなのに、なんだか日常がたのしくなったような気さえした。

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 しかしそんな気分は長続きせず、ひとつだけ新品になったレースカーテンは皮肉にもその他の物の汚れを際立たせる存在になったのだ。ブルーの遮光カーテンや白い壁紙、天井、蛍光灯、それらがまるで玉手箱を開いたみたいに年老いて見え、結果、「時間」がつくりあげた壮大なコンセプトの均衡を壊してしまうことになったのだ。遮光カーテンや蛍光灯ならばすぐにでも新品に替えられるが、壁紙や天井となるとなかなか手軽にできるものではない。

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 これをもっと、例えば世界のどこかに当てはめて考えてみれば、迂闊に一か所だけを良くしようとすることは却って逆効果になるということで、これだから格差をなくすことなどは短期間で簡単にはできない難しい課題なのだということを知った。

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 まぁそれとこれとはどうしてもちがう話であって、こんなことを言いつつも自分の部屋に入ると、レースカーテンの白さにおもわず頬をゆるめてしまうボクなのであります。