9月14日(月)
昨晩のことだ、いつものように0時を過ぎてから入浴をし、湯船に浸かってしゃこしゃこと歯みがきにいそしんでいたとき、突然心臓にかなりの違和感が走った。よくアニメや映画などで心臓発作が発生した際に用いられるドクン、というカメラの演出、あれと酷似したものが再現されたのだ。痛みがあったわけではない。だけれどその圧迫される様子から何かものすごく不吉な予感がし、動けないまま“最悪の事態だってあり得る”、そんな不安に駆られたのだった。
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こんなことは自分に限ったことではないとは思うけれど、そういえば――近ごろめっきりご無沙汰だったけれど、自分には似たようなことがこれまでにも度々あったことを思い出した。しかし過去のものたちはいずれも心臓にピキッとした鋭い痛みが走り、本能で察するところ「今ここで少しでも動いたら絶命する…」と、根拠はまるでないまでも確信に近い不安に襲われるようなものだった。
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動くこと即ちそれは死、であるがゆえに、いかなる場でも心臓にそんな痛みが訪れたときは、それが退いてくれるまで(大抵十秒ほど)何をおいても静止するしかなく、授業中や食事中などに突然、周りからしてみれば不可解な体勢のまま謎のポージングを決めているというようなことが何度もあった。
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性質が悪いのが、これもまた寝違え同様に地味だということだ。そのために、今まさに自分の中で生と死を分かつ分岐点でぎりぎりの攻防をくり広げているのであっても、周りにはそんなこと毛穴ほども伝わらず、やむを得ず偶然、室生寺の釈迦如来坐像のような体勢(右手の平を前に出し、左手の平を上に向ける)で静止してそれでようやく一命を取りとめたというような壮絶なドラマがあったとしても、心ないクラスメイトに「なにやっとん?」の一言で一蹴されるという悲しすぎる一場面も踏んできた。生と死の狭間をさまよって無事帰還したのだ、そういう意味ではそんな衆生の心ない問いに対して、「馬鹿者、悟りを開いておったのだ」と返答しても罰は下らないような気がする。
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以前はこんなことがだいたい、一学期に一度くらいはあったものだ。だけれどそれは大学に入学する頃くらいからすっかりなくなった。成長期が完全に終わって、体が安定したからだろうか(それはそれで悲しすぎる!)、理由は分からないがとにかく不意に襲ってくる心臓の痛みとは無縁の日々が訪れ、そんな過去があったことも忘れかけていた矢先の昨夜、という具合。とにかく焦った。家族は二階でそれぞれ早々と寝床についており、万が一のことがあった場合、そのままでは朝まで発見されないことは濃厚で、おそらくそれでは手遅れとなる。なんとかしてこの状況を階上の家族に知らせなくてはと思ったボクは何かをしようと考えたが、今動くことほど寿命を縮めることはなく何もできないでいた。お風呂で死ねたらきれいだからいいかという考が頭を過ぎったが、口からはまだゆすぎを終えていない歯ブラシがだらしなくぶら下がっており、体や頭はまだ洗う前、ちっともちっともきれいではなく、こんなみっともない姿のまま発見となれば遺族も泣くに泣けないと、情けない気持ちになってきた。そういえば読みかけの本の結末も気になるし、たのしみにとっておいたエクレアもあるな、など未練がましいことをたくさん思い出せばほどなく心臓の異変は消えた。
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そうして再度死線をくぐり抜けたボクは、その慰労をこめて夜な夜なエクレア片手に文庫本を開いたのだが、結末のページの上にカスタードクリームをべちょっと落としてしまったとき、この死線越えは必要なかったかもしれないなと舌を出した。