ブンショーズハイ。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 5月12日(火)

 小説家や劇作家のインタビューで、「ここの部分は、書いているうちに自分の知らないところで勝手に登場人物が話して、それでどんどん物語がすすんでいったのです」というエピソードを目にすることがある。すべて書いているのは自分でまちがいはないのだが、ひとつの言葉が次の言葉を導き、それが高次元で連続するとまるで、自分が書いているというよりかは、書かされている、否、ただ記録していっているだけになると。

 その感覚がいまひとつ理解できないのだが、なんだかそれはとってもたのしそうだ。自分で生み出しているはずなのに次の展開にわくわくするなんて一体どんな気分なのだろう。こちらもまた、はっきりと理解はできかねているのだが、それはランナーズハイと近いものなのだろうか。いずれにせよそれは、ある程度の長時間、しっかりと集中して取り組んだ末にあるであろうもの。長時間がんばって集中して取り組む人にだけ、その先にそんな夢みたいな状態があるなんて、やはり神様はがんばる人の味方なのかもしれない。

 同じものだとはさらさら思っていないが、このブログを書いている際に、そういうことが起こるときがある。知らないうち(と言っても過言ではないほど)にどんどん展開していっていることが。目的地が曖昧であったのか、舵取りが下手くそであったのか原因はもっと他のものなのか定かではないが、第4楽章半ばでふと気づいたら、当初書こうと思っていたテーマからずいぶん離れてしまっていることがしばしばある。だけどこれは、小説家や劇作家の人たちと同じようなものだと信じている。だって、比較できないくらいではあるが、自分なりに一生懸命書いている先にいつもそうなっているのだから。

 ボクがその状態になるときは、だいたいが「どうしよう、何も書くことがない」と気弱になっている日。それでも自分との取り決め、毎日書くことは守らないといけないからキーボードに手を乗せるのだが、何もテーマが浮かばずただキー「F」と「J」上の凸を弄(いら)って時間が過ぎる。それにも飽きるとようやく本気で唸って考えて、恐る恐る書きはじめるのだが、その歩みたるや牛のごとし。それでも必死で一文字一文字を紡いでいるうちに、本当に突然そのブンショーズハイ(文章ズハイ:造語)は降ってくる。

 だいたい思ったこと考えていること中心に毎日綴っているのだが、テーマがない日に書きはじめたものそれは、正直に言うとそこまで真剣に考えたことがないようなことなのかもしれない。それゆえ牛歩は当然なのだが、そこにブンショーズハイが降ってきたら、ほとんど知らないうちに書き終わっていて、そのテーマについての自分なりの考えがまとまっていたりする。そこではじめて、自分のした業、自分の考えていることを知る。

 そう思うと、ブンショーズハイとは潜在している自分が顔を出すことなのかもしれない。潜在している自分はめちゃくちゃ強く、だけど滅多なことでは姿を現さない。それが、顕在の自分がいよいよピンチのときやとてもたのしんでいるときに、助けに駆けつけてくれたり、自分もちょっとやらせてくれと寄ってきたりという形で現れるのかも。だからきっとそれは、がんばっている人に手を貸す「神様」なんかじゃない。そこに神様なんかいなくて、潜在している自分がいるだけなんだ。神様と思っていたのは実は自分だった。なんとも健全な考え。なんだか照れくさい。

 たのしくてノッているときは別にいい。もしもやっていて、苦しいときや辛いときでも、投げずに一心に続けていれば――それもふつうに考えれば下心があってはいけないのだろう、きっと潜在する自分がぶっちぎりの力でもって加勢に来てくれるはず。それがなくとも、やめずに続けて粘っていれば、運だって転がってくる確率が高まる。やめさえしなければ、あらゆる形で光ある場所へ突き抜けることができるのだ。以上、知らないうちに展開していた「粘りのススメ」でした。