時間なくはないやろ、right? | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 5月13日(水)

 誓いにするにはまだまだ難しすぎるけれど、やめなくてはいけないことが「時間がない」と思うこと。それひとつで色々なことにブレーキをかけてしまい、つまり色々な可能性をつぶしてしまう。ほんの少しでもそう思ってはいけない。そういう入り口の広くて逃げ込みやすいものほど、いったん入ってしまうと抜け出すことには何倍も余計なエネルギーが必要になるから。

 そうは言っても自分には、他の人に比べるとずいぶん時間はある方だ。だけど、この場合の「時間がない」とは、単純に人同士で比べるものではない。5時間あろうが「時間がない」と思う人だっているし、15分だけしかなかろうが「時間あるじゃん」と思う人だっている。問題は、多かろうが少なかろうが自分にある時間をどういうふうに捉えるかだ。二十歳もそろそろ越えるともう、必要とするときに何かをやるためだけのまとまった時間を確保することはほとんど不可能だ。いや、きっとそんなのは世俗を離れてどこか山奥にでもこもらない限りはいつだってありえないことだろう。人と関わりあう以上、程度は大なり小なりあれど、絶えず時間には制限がかかる。まとまった時間を待っていたらあっというまに死期がもうすぐそこまでやって来ていたなんてことになりかねない。そんなの悲しすぎる。ペーソスすぎる。

 だから、「寸暇を惜しんで…」とは大げさになるが、わずかな時間でも「時間がある」というふうに捉えて、積極的に何かをやっていく必要がある。それが時間を有効に使うということになる。そうなれると、何もせずにぼうっとする時間は減り、常に何かをしていて活性化される。ふと生まれた寸暇に色々なことをするもよし、こつこつとひとつのことに取り組むもよし、やはり「何かをやっている」ということこそが重要なのかもしれない。近頃「すべてはつながっている」という考えが自分の中に徐々に広がりつつある。何かをやれば、その歯車は他の何かを刺激し動かすものになる、という。それは自分の中のもの同士でそうであるし、人と人同士でもそうであると考える。自分が頑張れば、その姿は他の誰かを刺激して、上手くいけばそれは連続されていくものである、と。良い面ばかりではなく当然、それには悪い面だってあるのだろうが、そこに目を向けすぎたって仕方がない。少し夢見眼なくらいがちょうどいい視界を保てる。

 言わんこっちゃない、時間の使い方が下手なのは他でもない自分なのだ。だからこそ、それを由々しきことと考え何とかせねばと思っていて、今日こういうブログを書いたのだ。これは良い転機だ。意識していこう、寸暇を惜しんで色々しよう。

 とは言え、ぼうっとする時間、これはなくしたくない。その無の時間があることによって、そこで気分の調整ができているのだから。どうせ一日のどこかで必ずぼうっとする時間を持つのならば、常にそれを二番手にするように癖づけられるようにしよう。今は無理、だけどいつか誓いにしよう、語気強く高らかに。