読書の視点。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 2月26日(木)

 今ちょうど読んでいるのは川端康成の「雪国」だ。ふだん本を読まない人でも、作家名と作品名を一度は聞いたことがあると思われる文豪による名作だ。そして次に読もうと思っているのは、まだ決めてはいないがおそらく夏目漱石か太宰治か永井荷風。「文豪」と呼ばれる人の本というのだけは決めている。

 巷でブームになっているわけでもないのになぜ最近になって文豪作品を読んでいこうと思ったのかは自分でもよくわからない。ただ、お世辞にも読書家とは言えないものの、本を読むのがそこそこ好きなくせに、それらを読んだことがないというのはいかがなものか、という後ろめたさは常々感じていて、たまたまこのタイミングでその種が春を待たずに芽を出したというところか。

 ボクがふだん好んで読むのは圧倒的に、現役ばりばりで新作を発表している作家さんの作品が多い。だから自然と、パラダイムというのだろうか、今の時代に合った文章を違和感なく読んでいる。それが古い、文豪の作品となると、時代を飛び越えて当時の文章を読むことになるため、はじめは違和感との戦いだった。そのため、作品世界に溶け込むのにずいぶん時間がかかり、半ば意地で読み進める形になり、物語を完璧に吟味できているとは言いがたい。だから、はじめから読み重ねたからこそ理解できる特別な言い回しなどを理解できていないことがあり、「一体何のために読んでいるんだろう」というあるまじき自問が浮かんだときもあった。

 だけど最近は、本を読むときにもうひとつの視点を持つようになり、それは、そんな「あるまじき自問」が生じたときにこそ重要な目となる。もうひとつの視点とは「文章の書き方を見る」というもの。だから、物語がおもしろくなくとも、そしてわからなくなっても、この視点のおかげで別のおもしろさを持って読むことができる。そして文豪と呼ばれる作家さんには、おもわずため息が漏れてしまうような見事な描写が随所にある。たとえ二行でも、切り取って額にでも入れて飾っておきたくなるような文章が多く、それを見つけたときはそこばかりを何度も読み返している自分がいる。そして文豪が文豪たる理由をそこに見つけ、ひとりでうむうむと頷いている。

 これはこれで十分たのしいのだが、ボクは罪悪感でいっぱいだ。話の展開をろくに理解もせずにおかしなたのしみ方をされて、書き手は果たして不本意に思わないだろうか。徐々に昔の文章に慣れていって、まずは話の展開をしっかりたのしみつつ、書き方を研究できるように精進する所存であります。だから「伊豆の踊子」はもう少し後に取っておきます。

 いくつかの視点を持つことは重要だと、改めて感じた。