2月25日(水)
自分の時間というのは、つくづく大事だと思う。自分は、似たような人たちに比べて、いろんな意味でずいぶん自分の時間がある方だと思うが、なおそう思う。
「自分の時間」とは何なのかとなれば、人それぞれ捉え方があると思うのだが、最近のボクの場合は、「何もしなくてもいい時間」というのがほとんどそれと同義なのかもしれない。そしてそれは、「何かをした後」である必要がある、とも思う。
昨年の夏ごろから夜中にちょろちょろとジョギングをしているのだが、たいした距離を、たいした速度で走っているわけでもないのだが、それでもかなりしんどい。気を紛らわすために音楽の他に、落語やラジオドラマを聴きながら走るのだが、それらを聞いているときは、ほんの少しでも気を抜けば呼吸で頭が精一杯になる。そのため展開を聞き逃さぬように、常に神経をぴりぴりさせておかなくてはならない。最近ではかえってそれがしんどさを増幅させているのではないかという本末転倒な疑念も生まれている。経路はだいたい適当に走る。それでも最終的には行き着く場所があり、そこは決して物騒ではなく、でも人通りのない小高い場所。適度に汗ばんでかっかしている体を冷気にさらして、好きな音楽や話を聞きながら心ばかりの星空やため池を眺めるのが、それはつかの間だが、最近ではいちばん好きな「自分の時間」なのだ。
そこでは「たったいましんどいことをしてきた」という達成感から、「何をしてもいい」という開放感が生まれ、前半はそこであえて何もせず過ごすという贅沢感を演出し、後半はそこから頭をフル回転させて色々と考えごとをして「それでもまだ休まない自分」を演出して、まぁ何をするにもたのしい時間なのだ。
これはつまり緊張と緩和だ。ここ数年、自分のキーワードとなりつつある言葉だが、緊張が長い時間あるからこそ、少しの緩和に色々と爆発させることができるのだろう。現に、そこで考えごとをすると、短時間のくせにいくつも重要なひらめきが生まれたりするのだから。
そうなると、まだまだ机上の域は脱していないが、メカニズムはだいたい理解した。ならばそれを実践すればいいだけの話なのだが……。理解していても頭で描くようにいかないことが多々あるのが嘆かわしい。ビリヤードがまさにそれ。だけど、そんな嘆きをも凌駕できるほどの気概を身につけなくてはならないと、頭で理解した。だから、今日は寝不足でコンディション不良のためジョギングを控えようと思っていたところだが、走ることにする。そういうことではないのかもしれないが、こんな時間からできることなどこれくらいしか思いつかなかった。だからとりあえず、それをすることに。幻であったはずの「自分の時間」を堪能できるのかと思えば気分も軽い。
しかしどうも近頃の自分はメカニズム・コレクターのきらいがある気がする。要するに頭でっかち。そんなのまっぴらだ。不恰好だ。
いってきます。