気仙沼の民宿で暖かいおもてなしを堪能し、ご主人と奥様にお礼を言って広島のお土産を手渡した。「いつもありがとうございます。また来て下さいね」と奥様から地元産の海苔を頂いた。個人的にはまだまだ民宿を続けて欲しいのだが、今年の始めにご主人が体調を崩されたそうだし奥様もウチのお母んより少し若いくらいの年齢なのでまずは御身を大切にして欲しいと思った。
気仙沼からは国道45号線を下り、歌津経由で南三陸町のさんさん商店街に立ち寄った。グッズ等を買い求めてから次に向かったのは旧戸倉中学校で現在は公民館として利用されている。こちらの道路は現在旧道になり、今日は語り部ツアーもないようなので周囲には誰もいなかった(公民館の職員はいたかも知れない)。
↑校舎の時計は2:46を過ぎた辺りで止まったままになっている。戸倉中学校は海面からかなりの高さがあるにも関わらず津波は1階の窓上辺あたりまで到達していた。
敷地の端、海を見下ろす場所に追悼のモニュメントが建てられていた。犠牲になった方々を悼み、海に向かって合掌。
今回も往路では大川小学校に行かなかったので帰りに寄ることにした。駐車場はパッと見で7割くらい埋まっており、大型バスで来たどこかの学生、その教員と思われる団体がガイドの佐藤さんの説明を熱心に耳を傾けていた。周囲を見学していると佐藤さんの説明も自然と聞こえてくるのだが、その中で「何かが起きた時にその場で瞬時に判断し、行動に移せる人はまずいない。パニックになった子供たちがいればなおさらで、こうしたことは自然と身体が動けるよう日頃から訓練しておかなければできません」という意味のことを話していた。釜石市の学校や門脇小学校は普段から防災学習に取り組み、実戦的な訓練を繰り返していた結果であり、決して「奇跡」ではないという意見が出るのも頷ける。
自分が初めてこの場所を訪れたのは2011年8月11日だったが、グランドに積み上げられた瓦礫や集中捜索を行う機動隊、三角地帯の祭壇などの風景は今もはっきりと覚えており、その後何度も三陸を訪れるきっかけになった出来事の1つだと思っている。
三角地帯には地元の人たちが植えたと思われるひまわりが風でゆらゆら揺れていた。
この後雄勝町で乾物などを仕入れ、ホテルのチェックインが迫っていたので名取市まで移動した。明日はいよいよ現地行動の最終日、浪江町や相馬市方面を回って仙台にレンタカーを返却すれば終了である。