今月10日に仙台入りしてから全く天気がすぐれなかったが、今日は朝から快晴となった。自分は良いが豪雨災害に見舞われた九州や能登の方々を思うとお見舞い申し上げますとしか言えないのは内心忸怩たるものがある。


 震災から14年以上が経ち、当時の痕跡を探すのも困難になったが大船渡市郊外にある旧商工会議所ビル↑は2階まで津波で抜かれたままになっている。これからどうなるのか不明だが、何かしら説明の看板があればと思う。



↑赤崎駅の近くにも被災した民家があり、こちらは津波の被害を伝える遺構として保存されている。地元の建築士であった三浦賢吉氏(故人)はチリ地震津波を経験し、木造家屋が津波に対してあまりに脆弱なため安価で丈夫な補強コンクリートブロック住宅の建設を推奨したという(実際にこの付近はそうした建物が目に付いた)。この建物は三浦氏の自宅だったそうで、震災当日は妻の千花野さんが暮らしていたが津波は二階の天井部分まで達したとのこと。この建物は津波記念館として保存されているようだった。



 ゴールデンウィークに訪れた吉浜地区には明治29年の津波記念碑があったことを見のがしており、再チェックのため再び訪れた。そしてもう1つ、「日本一小さな書店カドベッカ」の絵本も買いもらしたものがあったのでこちらも再び挨拶がてら顔を出してみた。


 この日は著者の小松さんも在宅で、改めて前回のお礼を述べると突然の訪問にも関わらず「よろしければこれからいくつかご案内しますよ」と言われたのでこちらは願ったり叶ったりである。


 国道から少し下った場所に昭和8年の津波記念碑があり、ここは全くノーマークだった。また、これまで見た稲井石とは全く違うタイプの石碑で周囲もかなり凝った作りになっている。碑文も地震があったら津波の用心、の他に潮が引いたら半鐘を鳴らせとか高台に一時間以上とどまれ、など具体的な警告が刻まれているのが宮城県の津波記念碑と違う特徴がある。これは海を見下ろす場所に設置されたそうだが現在は竹が伸びて視界は悪くなってしまった。


 他にも何ヵ所か案内して頂き、最後に例の津波石を訪れた(左が小松さん)。小松さんによると津波石はまだ半分くらい埋まっており、全て掘り出すとかなりの大きさになるという。これは昭和30年代に道路工事で埋められたというが、その頃は土木工事などの事業が優先されたため今のように津波防災への取り組みという感覚がなかったのだろうと話していた。また、最近は学校などが防災学習に訪れるくらいで自分のように自発的に来る人は殆どいないとのこと(だからジャーナリストやルポライターと間違えられたのだろう)。ww   
 小松さんにお礼を言ってお土産を手渡し、買いもらした絵本を購入してお暇した。



 釜石市では書店で震災関連の書籍を購入するくらいしか時間が取れず、イッキに大槌町へ向かった。市内にあるショッピングタウン「マスト」内の書店でも震災関連書籍を購入したのち郊外にある東日本大震災の「木碑」をチェックした。


 石碑そのものは長く残る反面その存在意義が忘れられることも多く、記憶の伝承を絶やさないためここでは敢えて木碑にして定期的に建てかえるらしい。その時これが建てられた経緯を周囲に伝えるのだろう。今の段階ではどのような効果をもたらすか未知数だが、形式的に建てられた石碑に対し一石を投じる可能性はあると思う。


 木碑のある場所は津波の避難経路になっており、設置された場所は津波の到達地点だったのだろうか。

 今日は気仙沼の民宿を予約しているので長居はできず、三陸道でイッキに陸前高田まで戻って市内で給油ののち気仙沼市内まで戻った(三陸道はガススタが全くないので早めの給油を)。明日は名取市まで戻りながらあちこち立ち寄ることになりそう。


※ちなみに今日の夕食はご覧の通り逆兵糧攻めに。これを見越して昼飯抜きにしていたため何とか完食できた。マグロのカマ煮とサンマのつみれ汁は味付けが絶妙でご飯がススム君。※マンボウの刺身は昨日の夕食にも出てきたけど今が旬なのだろうか?