現地行動最終日、今日は双葉町まで行く予定なので常磐道で浪江町まで行くつもりだったがよりによって事故のため相馬インターから南相馬インターまでが通行止めになり、新地インターで下りて6号線をひたすら南下することに…。
まずは以前ブロ友さんが紹介していた双葉町の原子力災害伝承館を訪れてみた。ちなみに調べてみたら自分が前回福島を訪れたのは2015年5月以来今回が二度目となり、その時は南相馬までしか行ってなかった。当時は昼間のみ立ち入りが可能だったが浪江町や双葉町はまだ立ち入り許可が出てなかったような気がする。
屋外には津波で無残に変形した消防団の小型ポンプ車や例の看板が展示されている。福島といえば原発事故がクローズアップされるが、津波の被害は宮城県や岩手県のそれらと何ら変わらない甚大なものだった。
館内には様々なものが展示されているが、見ているとそれまで普通に生活していた人たちが突然日常を絶ち切られて避難するしかなかったことを思い知らされる。スーパーのチラシは3月11日が特売日、となっているがあの日を境に住み慣れた場所を離れなければならないことになろうとは夢想だにしなかっただろう。
震災直後こうした惨状を目の当たりにして「危険な原発はいらない」という思いが強くなっていたが、現実的なことを考えると反対するならそれに替わるエネルギーがあるのか?という問題や地元の雇用、産業などを解決しなければならない。以前女川の漁師さんと話をしている時、「女川みてェなちっちぇ町は原発がなければとっくに(合併されて)終わってた」と言われてハッ、となったことがある。次第に「原発推進」と「反原発」についてモヤモヤするようになったが、ブロ友さんが記事の中で「原発問題には正解も間違いもない」と書かれていているのを読んで「そういう考え方もあるのか」と上手く言い表せないものを代弁してもらえたような気がしたのを覚えている。
いずれにせよこの伝承館は一度見学しただけで理解できるとは思えないので改めて見学する必要があると思う。
次に訪れたのは少し離れた場所にある浪江町の旧請戸小学校である。ここは立地条件や被災状況が山元町の旧中浜小学校と似ており、内部を見学していると当時の様子が想像できる(※津波は二階の床付近まで到達)。ただ、中浜小学校の児童、教員らが校舎の天井裏に避難したのに対し請戸小学校では全員が走って近くの大平山(約1.5km先)に全員避難している。
当時の物と思われるノートパソコン。どのような人が使っていたのだろうか?
給食室の機器は津波で1方向に押し込められたようになっており、津波が来た方向が推測できる。
↑津波の到達高さを示すプレート
教室の黒板にはその後訪れた生徒や復旧作業に携わった人たちが書いたメッセージが残されている。また、写真を撮れなかったが体育館には「卒業証書授与式」と書かれた幕がそのままになっており、あの日から時が止まったようになっていた。
請戸小学校の児童、教員らは幸い津波に巻き込まれることなく無事に避難することができたが、普段はどのような避難訓練をしていたのか気になる所ではある。しかし津波からは無事逃れたもののその後原発事故からの避難という受難が待っていたと思うと本当に何と言ってよいのか言葉がない。
施設等の見学はこれで終了して仙台方面に戻ることにしたが、途中で小高駅に寄ってみることにした。2015年5月に来た時は常磐線も復旧の目処が立っておらず、沿線の住民も昼間しかいないこともあり駅舎は板で塞がれ人の気配が感じられなかった。駅前の駐輪場や自販機も3月11日からそのままになっており、国道沿いのホームセンターも駐車場が草ぼうぼうになるなどここも時間が止まったようになっていた。小高駅は現在内部もきちんとリフォームされ、駅員さんも常駐しているようで「よくぞここまで」と思わずにはいられなかった。
小高から仙台へ帰る途中にもう1ヵ所、常磐山元自動車学校で犠牲になった人たちの慰霊碑に合掌してからレンタカーを営業所へ返却し今回の行程を終えた。北は大槌町、南は双葉町と東北三県を移動し、走行距離は900kmあまりの長丁場となった。それだけに駆け足であちこち見るような慌ただしさになってしまった感は否定できない。やはりもう少し余裕を持ってスケジュールを組むべきだったと反省している。明日朝の新幹線で広島へ帰れば今年のオペレーションは終了、再訪は来年のゴールデンウィークまでお預けである。
↑常磐山元自動車学校の跡地に建つ慰霊碑