名取市閖上は東日本大震災による津波で800名以上の地域住民が犠牲となる大惨事に見舞われ、現在は震災前の街並みを想像することが困難なほど付近は激変している。昨年5月に閖上を訪れて伝承館などを見学したがこの近くに昭和8年の津波記念碑があったことは全く知らず、帰ってから資料を調べていた時その存在を知った。という訳で今回改めて閖上を訪れ、昭和8年の津波記念碑を調べてみることにした。





 現在日和山付近は震災メモリアル公園として整備されているが、駐車場の近くには石碑がまとめて設置し直されている。大戦で犠牲になった地元出身兵士の慰霊碑などが並ぶその中に昭和8年の津波記念碑もあった。
 正面は「震嘯記念」「地震があったら津浪の用心」という例の文言が刻まれている。他には地震発生から40分あまりで付近に第1波が到達したことや浸水家屋の状況、流出した船舶の被害数などが記載されている。末尾には自然災害に対して「日頃から準備を怠らぬよう気を引き締めよ」と警告しているが、仙台南部は明治29年や昭和8年の津波でも大きな人的被害を受けなかったので津波に対する危機感がなかったのだろうか?(※チリ地震津波では異常な引き潮の時も海岸に降りて魚を拾っていた人がいたという)。昨年福島県と境を接する山元町の旧中浜小学校を見学した時、ガイドの方が「この辺りはこれまで甚大な被害を受けた津波の記憶がない」と言われたが、震災クラスの巨大津波が起きたとされている1611年の「慶長津波」もその後記録や記憶が殆ど伝わらなかったのかも知れない(※慶長津波では伊達藩内の領民5000人あまりが溺死したと言われている)。

 この石碑は昭和8年11月3日に建之とあり、当時の閖上村長や書者などの氏名も併記されている。また、津波記念碑の多くは石巻市や陸前稲井の業者(石工)が製作しているがこの石碑は志津川(現南三陸町)の石工が製作しており、これは初見だった気がする。



 閖上には名取川沿いにも昭和8年の津波記念碑が現存している。角柱の津波記念碑はこれまで陸前高田市の広田半島(※旧廣田村)でしか見なかったが、閖上にもこのような津波記念碑が製作されていたのは初めて知った。説明文によるとこのタイプは閖上の4ヶ所に設置され、これはその中の第4号にあたる。第3号柱は津波で流されながらも2016年に貞山堀の宮下橋付近で発見されたが1号と2号柱は行方不明になっているようだ。柱の4面には刻字がされており、以下に記す。

・地震があったら津浪の用心
・本標の位置は津波来襲の終点です
・標柱四個の内第四号
・昭和八年三月三日震嘯記念

 とあるように石碑は津波の到達地点に設置されたことが分かる。こうした津波記念碑は津波が到達した場所に設置されることが多いが、震災後神社の近くや漁港など目に付きやすい場所に移動しているケースも少なくない。

↑第4号標柱の位置。震災後は傾いたままになっていたがその後据え直され、説明板もその時併設されたようだ。とはいえ土手沿いの道(※車輌は通行禁止)は地元の人がウォーキングでたまに通るくらいであまり目にとめる人はいないのではないかという印象を受けた。