複雑な心をシンプルに!
自分の専門家になれば対話はできる
しなやか自分軸研究所@所長川西未来子です。
元気になって行くと忘れそうなので備忘録です。
気になる言葉が過去にいくつかあるとき
その気になることを一つ一つ検討すると
その言葉が消えたり、、、
違う捉え方になったり
次の学びのステップになったり
自信になったりする
消えたり現れたりする母との会話や言葉がある
記憶の中の母は宗教の教えに忠実で
家族は置いてけぼり
信者さんにばかり尽くす
自分をあまり持たない人のイメージ
介護中の会話
「なんでも言ってくれたらするからね」と私
「みこの好きにしてくれたらいいよ」
「いや~それが一番困るから希望を言って欲しい、、、」
「そんなこと言われても分からない、、、」
と言われるので試行錯誤の介護だった。
そして母が死の間際で言った言葉
「みこ、、、もう頑張れへんわ、ありがとう」と
この二つの場面。
母を楽にさせてあげよう
痛みも苦しみも最小限になるように
あわよくば回復も望み、、、
自然の流れの死なら受け入れよう
ガン以外の病気にはさせない!
(ガンになってガンで亡くなることは実際には少なく、
心不全や腎不全、敗血症など
ガン以外で亡くなるパターンが多い、
これを医療看護の怠慢だと思っていたので、、、
でもこの頃の医療システムだとしょうがないんですよね)
と思って介護していたけれど、、、、
それがもしかしたら、、、
母に「もっと頑張れ」と
思わせてしまったのではないだろうか?
母を追い込んだのではないだろうか?
母は苦しかったのだろうか?
じゃあ、私はどうしたらよかったのだろうか?
あれ以上私にできることは何があったのか?
どうしようもないことなのに、、、
たま~~に気になる。
そして、、、
やっぱり欲求は明確じゃないと介護側が困るよな
人の世話ばかりして自分を置き去りにして
欲求が分からなくなっていたのかな~と思っていた。
先日、たまたま就活で帰ってきた娘が
お粥を作ってbedまで持ってきてくれた
発熱して6日目、初めての固形物
結婚して以来初めて人に作って貰ったお粥
作ってくれただけで有り難かった。
と言ってもお椀いっぱいは食べられないので
上記の量に減らした。
そうか!!
母は私が世話をしただけで嬉しかったのかもしれない
欲求がなかったのではなく
気持ちでいっぱいいっぱいだったんだ。
人にして貰うことが申し訳ないような
有り難いような、、、複雑な気持ちだったのだろう。
嬉しかったけれど、
それに応える(元気になる)ことができなくてごめんね。
か、、、。
余命3ヶ月が8ヶ月の闘病だった。
充分じゃないか
色々な話もした
母は欲求が不明確な人ではない!
ただ自分の中の贅沢を禁止していただけだ
と思うと、こんな言葉が思い出された。
「なんでで出来てる餃子買わないの~」と私
「子どもには何が入っているのか
分からないものは食べさせられない
そんなものを買うことがイヤなの」
と、なんでも手作りだった。
医者からもらった薬も
薬を飲むと長引くような気がするから
飲まない方がいいかもね。
と言って飲まなかった。
子ども二人が流行っていてね。
みこは4人目だから医者から
「堕しますよね」と言われて
「産みます!」って言ってやったんだよね。笑
世の中は抱き癖がつくからと
泣いているのに放置しろと言う。
そんなことより
自分が抱きたいと思うのだから
気持ちに反することはできなかった。
な~~~んだ、
ちゃんと自分軸で生きていたんじゃん。
ただガンになった時の心の備えや
ガンの自然治癒に関する知識がなかっただけなんだよな~と。
身体も気持ちも落ちてみないと
見えない世界があるのかもしれませんね。
しなやかにね( ̄ー☆
========追記=======
病気が見つかった時、
肺がんは全身のリンパに転移していました。
肺がんなのに咳はなく
息苦しさも痛みを訴えることもなく
酸素吸入も最期のひと月に
酸素1〜2ℓぐらいで楽だと言っていました。
最期の3日前まで食べれていました。
ただ手の痺れだけありました。
母はガンで老衰のように息を引き取りました。
最期を看取って
清拭をして死化粧も私がしました。
3歳と1歳を抱えての介護でしたが
色々考えた期間でもありました。