「参議院選挙(2016年7月10日」)が終わりました。

  結果を、一言でいえば、「与党(自民党+公明党)の大(?)勝利。」と言えそうです。 
 
    ただ、最終投票率が「54.7%」との事で、(前回参院選よりは高かったけれど、)

    相変わらず「半分ちょっと」の「低め安定」なのが、ちょっと残念でした。

    (↑…「投票しなかった(できなかった)人」も含め、この選挙の
          「結果」は、国民全員に降りかかってくるというのに…。)


 ところで、

  与野党の「勝敗を分けた」とも言われる「一人区(=定員1人の選挙区)」では、

 全国32ヶ所のうち、  「与党 21勝」「野党 11勝」でした。

 ↑…この数字だけを見ると、(ダブルスコアに近いので、)「やっぱり与党の圧勝!?」とも見えます。

 けれども、 この「1人区」32選挙区を「日本地図」に落として、

   「勝敗」の地域的な分布を見ると、

   (ちょうど日本の「真ん中」にある「飛騨山脈」を境にして、)

  「西日本」では与党が強く東日本では野党が強い、  とハッキリわかります。

 その上、与野党の「議席数」こそ「ダブルスコア」に近い差があります」が、

与野党それぞれが「勝った選挙区」の「合計面積(広さ)」の「差」は、議席差ほど大きくは無いようです。

 つまり、「一人区」で「野党が勝った」所は、どちらかといえば、

 「東日本」で、「面積は広いが、人口が少ない選挙区」が多かった、という事になりそうです。


 さらに、その「野党が勝った」選挙区の地理的な分布を、詳しく見てみると、

 不思議なことに、 今から約150年前の、

  幕末から明治維新にかけての官軍(=明治新政府軍)対旧幕府軍の戦いである戊辰戦争の

  「旧幕府軍(佐幕派:会津藩など)」の領域が「野党の勝った選挙区」、

  官軍(薩長土肥の西国諸藩など)」の領域が「与党の勝った選挙区」、

  に、それぞれ良く対応しています。

  具体的には、 例えば、 (以下、「現在の県名=幕末の藩名」で書きます↓):

  「福島県=会津藩」、「宮城県=仙台藩」、「岩手県=南部藩」、「新潟県=長岡藩」、

 「三重県=桑名藩」、などです。  

   ↑以上、(比較的数が少ない)「野党の勝った一人区」を並べてみました。


  思えば、あの「戊辰戦争前後の時代」(1867~1869年)も、

   幕末(江戸時代)から明治時代(近代)への、大きな時代の変革期でした。


 
   もし、  先ほどから長々と書いている、

   「『野党が勝った一人区』は、『戊辰戦争の旧幕府軍側』に対応する」という「仮説

   (というか、「思いつき」?)が当たっているとすれば、

  実は、現在は、「100年、200年に一度」の大きな転換期で、

  今回の参議院選挙の結果も、「予想外に大きな時代の変わり目」として、

   後世、歴史に残るようなものになるかも知れませんね。


   

 この選挙、ぜひ、☆投票☆に行きましょう!


   「たった一票」では、

       何も変わらないかもしれません。



   でも、 もし、


  「それ」積み重なったら?

   もしかしたら… ???


 どこかの国の、誰かのように、

  後になって、
  「こんなはずじゃなかった!」と、後悔しないために。


 今の自分の「今の気持ち」を、「一票」に込めましょう。


  「今はどの候補も、どの党も 信じられない。 だから投票しない!

   という方もいらっしゃるでしょう。

   
  けれど、 ちょっと待ってください。


 「誰にも投票しない」ということは、
  
  その結果として、

  『誰ともわからない、その選挙区で1位になった人』を、

 『無条件で支持した!

  のと同じことになってしまいます。



 「そんなつもりはない!」と仰るかもしれません。

  けれど、今の「選挙の仕組み」から考えると、

 「投票しない」(=「棄権」)とか「白票」を出すということは、

  イコール、

 「1位の候補者に全部任せた」(=白紙委任と同じことになってしまうのです。

      ↑・・・ そのような「意思表示」で、


 「あなたの気持ち」や「思い」は、それでいいのでしょうか???


  だから、

  
 ぜひ、投票に行きましょう!

  



  そういう私は、

   もちろん、「期日前投票」で投票しました。  

 
 この度の「テロ」で

 亡くなられた方、負傷された方、関係者の皆様に、

 謹んでお悔やみ申し上げます。



 さて、その上で…


「テロを許すのか?屈服するのか?」と訊かれれば、

「それはダメ。」と答えるしかありません。



 けれど、

 だからと言って、

「テロと戦え!」と、

 ”テロリスト”を「殲滅」しよう! とすれば、

 その”テロリスト”も、死に物狂いで、

  手段を選ばず、「反撃」するので、

 「攻撃」→「反撃」→「再攻撃」→「再反撃」→ …と際限なく、


「武力と武力の対決」や「憎しみの連鎖」が無限に続き、

 最初は「小さな争い」でも、少しずつ「大きな争い」になるでしょう。


そのような、延々続く「争い」は、しだいに

「戦争」に拡大するかもしれません。


 戦争の拡大が続けば、

 最終的に誰かかが「勝利」できたとしても、

その「犠牲(人的損害)」は、

 取り返しがつかないほど大きなものになるでしょう。



 「テロと戦争は全然違う!」という声が聞こえてきそうですが、

 被害を受ける側から見れば、テロも戦争も、

 「理不尽な暴力」の「一つのカタチ」とも言えそうです。



 いま、「平和で安全な社会」を守るために、

「罪もない多くの人の命を奪ったテロリスト」を

 殲滅するための「戦い」が始まっています。 
 
 そのために、また、多くの命が失われるかもしれません。


 それは、「やむを得ないこと」でしょうか?

 「ほかの手段」は無いのでしょうか?


 ところで、

 そもそも、

 なぜ、「テロリスト」が生まれたのでしょう?

 彼らは、「最初から」、”テロリスト”だったのでしょうか?




 人は、社会の中に生きていますが、

 「人の命を守るため」に作った「仕組み=道具」であるはずの、

「社会(その秩序)」を守るために、

  かえって「人の命が無数に失われる」、

 つまり、

「人間(人権)の保護のための社会」が

「社会の保護のための人間(個人)」に変わる、

という

「本末転倒」が起こっています。



 そんなことを防ぐため、

 ここは、「人の命を守る」という「原点」に戻り、

 全ての人の「共存」「共生」「共栄」という観点から、

もう一度、

「全ての人を優しく、大きく包み込む」ために、

 ☆「話し合いによる融和策」☆を推進してみては?

 と思う私は、「甘い」でしょうか?



 私には、
 
 このような「話し合いによる融和策」こそ、

「自由・平等・友愛(博愛)」を掲げる

「フランス共和国」にふさわしい、と思えます。


 ↑「テロリストは『友愛(博愛)』の対象外だ!」という意見も、当然あるでしょうが、

「テロリスト」といえど、「人間」であることは変わりなく、

「どんな人間も、人間である限り、

『法(または神)の前には平等』のはずです。 


 「法を破る人間は、法の保護は受けられない」という考えも、当然あるでしょうが、

 「法を破る人間」も、「人間である」ことに、変わりはないはずです。



 そんなこんなで、

 心の中も、頭の中も、モヤモヤしたままですが、


 ふと、

 ジョン・レノンの「イマジン」♪のメロディーが、心に浮かんできました。


 そういえば、そのジョン・レノンも、

  1980年の12月8日に、「撃たれて」しまいましたね…。


 以上、長文失礼しました。 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。