山頂に向かう道に沿う、いまも歓声が残る場所 - 大子町 旧黒沢中学校、近津神社-上野宮
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大子町から八溝山頂に向かう道に沿って、”旧上野宮小学校” ”旧黒沢中学校” ”近津神社 -上野宮”がある。
旧上野宮小学校は創立が明治8年(西暦1875年)、閉校が昭和58年(西暦1983年)。
旧黒沢中学校の創立が昭和22年(西暦1947年)、閉校が平成25年(西暦2013年)だが、いずれもいまも校舎が残されている。
創立年を見て気がつくのは、創立されたのが「旧上野宮小学校が明治維新のすぐ後」、「旧黒沢中学校が第二次世界大戦のすぐ後」だということだ。
いずれもが、日本が傷だらけになっていた時期なのだが、「学校の創立」には、未来に向けてふたたび立ち上がろうとする時代の意志があるだろう。
そうしてそこに、慈しむ者と慈しまれる者とがいる。
今回、旧上野宮小学校と旧黒沢中学校の写真を、一つの記事中でシャッフルさせたくなかった。そのため、二つの学校を包括する位置にある”近津神社”の写真とそれぞれをシャッフルすることにした。
この記事は「旧黒沢中学校と近津神社」をシャッフルした記事だ。
旧黒沢中学校の閉校後、10年以上が経つが、校門のボードには閉校時の日程表がそのまま残されている。
なお、「旧上野宮小学校と近津神社」をシャッフルした記事はこちらだ。
近津神社は棚倉町にある”馬場都都古和気神社””八槻都都古和気神社”と合わせて近津三社を形成し、しかも近津神社自体が、”上野宮” ”中宮(町付け)” ”下野宮”の三社に分けられ、八溝山頂に向かう道に配置されている。
八溝山麓の巨大な結界を形成する位置付けにあると考えても良いのだろうと思う。
”近津神社-上野宮”は、二つの学校の間、旧上野宮小学校寄りに位置する。
強大な結界として、傷だらけの状態から立ち上がろうとしている、慈しみ慈しまれる者たちを見守って来たのが近津神社なのであり、そこに子どもたちの歓声の残像はいまも響いている。
J.S.Bach Chaconne Lute version - Bronzino