断崖のある海辺の街に高まる熱 - 北茨城市 大津港、五浦海岸

 

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夏風の吹く海辺の道を歩こうかと思った。北茨城市の大津漁港と五浦海岸だ。

大津港では、ペリー来航より30年も前に、イギリス船の乗員11名が鉄砲で武装して上陸するという事件があった。
 
村は大騒ぎになり、なんとか彼らを捕らえたのだが、それでも逃走を企てたため洞窟に押し込んだのだ。
それに対し複数のイギリス艦船が、仲間を返せと沖合から大砲で威嚇してきたため、ついに水戸藩が兵を出した。
 
ところが捕らえられている者たちを詰問したところ、船内は病気が発生するなど状況が悪く、ともかく野菜などの食料を調達するために上陸したことがわかった。
水戸藩はイギリス艦船に水や食料、薪などを供与し、乗員たちを帰してやったのだ。
普通に事情を説明すればいいのに、いきなり鉄砲やら大砲やらを持ち出すから話がややこしくなる。
 
もっとも、イギリス船の乗員たちは拘束されている間、絵を描いたり、村人と相撲を取ったりしていたようだから、特にひどい目にあわされていたわけでもなかったようだ。
しかしなにしろ、拘束されていたのが漁港だ。
生魚であるサシミや、デビルフィッシュであるタコ料理などの豪華料理をふるまわれた日には、彼らは拷問を受けている気分になっていたかもしれない。
 
ペリー以前にすでに予兆はあったのだ。
それまで見たこともなかった大型船団を見て水戸藩は大きな衝撃を受け、海岸線に位置する日立市に海防城を築いた。
 
そうして時代は大きく揺れ動いてゆく。幕末の水戸藩では水戸天狗党の乱が勃発した。
明治の大画家、横山大観の母は竹やぶの中に難を逃れていた。横山大観は竹やぶの中で産まれたのだ。
 
 
激動を経て、時代は明治になる。東京美術学校(現・東京芸術大学)から排斥された岡倉天心や横山大観は、大津港の北部に隣接する五浦に日本美術院を構えた。
 
五浦には天心の分骨された墓がある。この後の写真の説明になるのだが、墓標もない土饅頭の墓だ。
天心は自分の墓に墓標など不要と考えたのだろうか。

 

天心に、高麗(こま)という娘がいた。

父である天心をすでに喪い、五浦の地で夫をも喪った彼女は、父の墓の近くにやはり墓標のない土饅頭の墓を作り、夫を埋葬した。この二つの墓は形も大きさもそっくりなのだ。

 

五浦の地は、そもそも彼女にとっては第二次世界大戦中の疎開先だった。

しかし彼女は、夫を喪ってからも五浦の「天心漁荘」に、可愛がっていた猫とともに暮らし続けた。天心漁荘はすでに雨漏りをするほどに痛んでいたにも関わらず、彼女はそこから離れようとしなかったのだ。

そうしていま、彼女も夫とともに墓標のない墓に眠っている。

 

生前の天心は彼女を「こまちー」と呼んで可愛がっていたそうだ。

高麗は幼いころから、岡倉天心の魂を守り続けていたのだろうと思ってしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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