年末年始になると、クリスマスや大晦日、正月などさまざまな行事が続く。
それらはそれぞれ単独で扱われるように思うが、すべてが一連の関連を持っていることをまとめたい。
一連の関連の、最初に位置するのが”冬至”だ。
冬至はもちろん、北半球において日照時間が最も短い日であり、つまり「この世を覆う闇が最大化する日」とも言える。
ここでは一連の関連の起点に位置するのが”冬至”と考えたいのだ。
冬至の後にクリスマスが来る。もっとも闇が最大化した時期に、聖なる者が出現するのだ。闇の中に呻吟する者たちを救う者として、死した後に復活を遂げることになる者が。
そしてこの時期、圧倒的な夜闇の中に光がともされ、そこに人の笑顔が行き交う。
クリスマスが過ぎて”大晦日”がやってくる。除夜の鐘が、大晦日から年始にかけて鳴らされる。
除夜の鐘は百八の煩悩を払う儀式とされるが、シンプルに言うなら”リセット”だ。
除夜の鐘によって人はリセットされ、「新しい者」として復活し、新たな年へと踏み出してゆく。
個人的には、除夜の鐘にはさらにもう一つの意味があるように思う。
「新たな年への巨大な扉が開かれることの宣言」でもあると思うのだ。つまり巨大な闇の終焉の宣言だ。
もちろん、クリスマスの後に、ただ除夜の鐘が鳴らされるわけではない。
キリスト教と仏教の行事の間に、年末恒例の行事として、人の側からなされるものがある。
それは二つの「捧げるための歌」だ。人によって二つの歌がそこで捧げられるのだ。
一つはベートーヴェンの通称”第九”。
これは長い闇の中で、新たな年に向けての「宣誓」の意味を持つと思う。
そしてもう一つが”紅白歌合戦”だ。
これは新たに生まれ変る者たちによる「祭り」が象徴化されたものと考える。
いつの間にか”権威ある歌謡ショー”に堕してしまった紅白歌合戦だが、メッキなど不要なのであり、別次元のものとしてとらえるべきものなのだと考える。
そして新年がやってきて、「あけましておめでとうございます」の挨拶が交わされる。
年末年始のわずか十日余りの中に、キリスト教、仏教、神道が関わってくるわけだが、それらはそれぞれ単独で存在するものではない。
構造的には「最大化した闇の中からの復活」という、巨大な神話であるかのような一連の流れが成り立つのだ。そしてその神話は、循環して毎年繰り返される。
神話は過去のものではなく、いまも存在し続けるものなのであり、人はそこに生きていると考えた方が分かりやすい。
「いろんな行事は、しょせんは商売目的さ」というシニカルな受け止め方もあるが、商売目的なだけなら、一過性のブームで終わるだろう。
それらが神話の一要素として民族レベルで受け入れられたからこそ、民族の中に定着したのだ。
