バブル、厄年、異次元体験 | エハン・デラヴィのブログ

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私は旅人で, 魂の偉大な旅を時間と空間を通じて読者と共有します

Vancouver Island

 

カナダはイギリスの植民地だったから、スコットランド人の僕なら、簡単に仕事を見つけられると思い込んでいた。例によって、事前に調べるということをしない性格だから、仕事なんていくらでもあるさ、という感じだった。しかし、一般の常識では違うみたいね。イギリス人であろうが、中国人であろうが、みんな移民が社会で仕事を得るには決まりきった制度がある。いわゆるグリーンカードだ。何にも考えてなかった僕は、とにかく住む家を借りて弁護士に相談した。すると、弁護士はクールに言った。

「グリーンカードを取得するには、いくつか方法があるが、あなたの場合は自分で会社を起業するしかありません。何かビジネスプランを提案してください。そのプランをカナダ大使館に提出しますから」そして呆れたような顔をして付け加えた。

 

「普通は、カナダに来る前に移民計画をするもんですよ」

 

確かに、その通り。東京で生活設計を建ててから移住するのが常識かもね。考えた結果、僕は、2つの計画を提案した。一つは東洋医学の治療所。日本でやめたけれど、仕方ない。もう一つは、カナダ人に日本の情報を提供するコンサルティング会社。この二つの計画が認められるかどうか。グリーンカード取得まで、観光ビザで生活しなければならなくなった。旅行ビザって、結構、社会のハードルが高いね。遅まきながら気づいたのは、子供の学校を決めるときだった。よく考えれば当然なんだが、旅行ビザじゃ子供を学校に通わせられない。何も知らずに、学校に相談しに行ったら、校長先生が出てきて難しい顔で言った。

 

「あなたたちはカナダ人じゃないので、就学を認めることはできませんね」

 

困った。隣の学区に行くしかない。即、行ってみた。で、やっぱりすべては人ですね。本来の学区じゃないのに、校長先生がにこやかに言ったものだ。

 

「日本で15年も生活したんですか。子供たちも日本語できるなら、面白くなります。国際的な存在になるので、ぜひ通学してください」

「あの、まだ移民権取得できてないんですが……」

「大丈夫でしょう。事務的なことは後からやればいいんですよ」

 

この柔軟な校長先生のおかげで、子供たちは何とか学校に通い始めた。しかし、経済問題は解決しない。家賃はめちゃめちゃ高かった。1200ドルだ。(1989年)収入はゼロ。僕は秘密で「ワンルーム治療所」を開くことにした。クチコミで広がることを期待していた。神戸での実績があったから、何とかなると思っていた。

 

客は、一向に来なかった。どういうことだ? 僕はカナダ社会の情報を集めた。すると、驚いたことに、カナダ人はお金を払って治療を受けるという考えを持っていないらしい。福祉重視の国だから、健康に対してはきわめてケチなのだ。おかしなことに、車の修理には、いくらでも金を出す国柄で、修理工の時給は125ドルだという。僕の1時間の治療代は、わずか40ドル。それを高いというのだから、儲かるわけがなかった。もう一つの情報コンサルティング業のほうも、さっぱりだった。カナダ人は情報にお金を払うという意識がないのだ。当時、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われ、世界経済のトップに躍り出た日本の情報に、全然興味を持たないのだ。150ドルのコンサルティング料。アメリカ人なら行列するのに……。当てが外れた僕は、〝しまった、何とかせねば〟と内心焦り始めた。

 

1回40ドルで1200ドルの家賃を払う。これは不可能、ありえない。大都市バンクーバーに行かないと仕事はないと言われたけれど、住み始めたヴィクトリアの自然や環境はとても気に入っていた。グリーンカードがない人間ができる仕事は何か。答えはすぐ出た。「ドカタしかないでしょ。もうそれしかない」

 

 

若い頃に庭師の手伝いをしていたから、仕事の中身はだいたいわかる。即行で調べて、その日のうちに仕事先が決まった。時給は6ドル。毎月の家賃払うのに240時間。もう笑うしかないね。だが、庭木や石や土に触れながら、僕の日本での15年間のストレスが解放された。「ガーデンシティ」とも呼ばれるほど、美しい庭で有名なヴィクトリア。その美しい景色、森、そして海。日本とは対極の環境で、僕は身体を使って目一杯働いた。

 

 

妻は、当然不安だった。でも、よく辛抱してくれた。彼女はヴィクトリアの町に非常に惹かれていた。何も言わずに黙っていてくれた。そうは言っても、庭師手伝いだけでは、せいぜい家賃しか払えない。楽しいけれど限界があるな……そう思いはじめたころ、ナポレオン・ヒルが書いた『Think and grow rich』を読んでひらめいた。彼は、こうアドバイスしていた:

成功するには、他の人の絶対できないことを集中的に想像せよ。僕にしかできないことって何だ? このカナダ人の社会で、何がある?思い当たった。日本語が喋れる読み書き両方できる

 

「これだ! これしかない!」

 

 僕は躍り上がった。発想の転換というのは、すごい解放感を与えてくれるね。つまり、思い込みを外すとハッピーになるという典型だ。つまり、カナダ人に日本の情報を提供するのではなく、日本人にカナダの情報を提供すればいいのだ。どんな情報を提供する? どこの日本人に?当時、日本人は世界中の不動産を買いまくっていた。庭師手伝いのパートナーの兄が、たまたま町で五指に入る不動産仲介業者だった。ちょうどアメリカ人の大金持ちが、ヴィクトリア海浜の最高の物件を40万ドルで買って、1エーカーもあるすごい庭にめちゃめちゃ投資をしていたところだった。僕はその庭で働いていたところだった。そのブラザーは、庭の出来具合をチェックするのに毎日ベンツで乗りつけた。すごい成功者だと思った。彼は物件の紹介手数料は5パーセント。アメリカ人にこの40万ドルの家を紹介するだけで、2万ドルが懐に入る計算だ。これって、僕の年収じゃないの。別に天才でもないのに、こんな旨い仕事があるんか……。これならできるぞ。そう確信した。

 

そうなると、すぐにシンクロニシティが起きた。日本の友だちから電話が入ったのだ。「俺の友人がバンクーバーの物件を買いたがっているんだけど、契約するときの通訳やってくれないか? 100ドルでどう?」もちろんOK。不動産仲介業に詳しいわけでもなく、普段泥まみれで庭仕事している男が、契約のための通訳をやることになったわけだ。相手はバリバリの不動産業者だったけど、無事契約を乗り切った。そこで、僕はその日本人に訊いてみた。「ヴィクトリアにも安くていい物件がありますよ。治安もいいし、自然も豊かだし、よかったら行ってみません?」で、フェリーで行くことになった。僕はすぐに、例のブラザーに電話して日本人客を連れて行くから物件を見せてほしいと言った。で、結果は、見事4つのコンドミニアムの契約に至った。日本人は転売目的だった。手付金だけで物件を押さえておいて、4ヵ月後の決済までに日本人に売りさばく。まだ建設中の物件にもつばをつけた。バブル沸騰の頂点に近づいていたから、ほとんどリスクがなかった。みんな、この方法でかなり儲けたんだね。


僕自身は、バブル経済とか不動産投資ビジネスとか、まったく知らなかった。単純に、〝この日本人すごいなあ、4つも契約して……〟なんて思っていた。一方、例のブラザーは非常に喜んでいた。最終的な契約の段階にきて、僕は、チャンスだと思った。このビジネスは僕が仕切ったものだ。ちゃんともらわなくちゃ……。落ち着くために、トイレに行ったね。とてつもない金額になりそうだった。全部で15千万円の物件。仮に2パーセントならいくらになる? 頭が沸騰しそうだった。3万ドル……一発の仕事で3万ドル。昨日まで時給6ドルだった僕が、たった半日で大金を手にしていた。それから3ヶ月。僕はダウンタウンにオフィスを構えて、名刺を作った。海外不動産投資コンサルタント。広告を兼ねて、妻はヴィクトリアに関する記事を書いて、日本の不動産専門雑誌に載せた。何もかも手探りだったが、不動産ビジネスをスタートさせた。「ジャパンコンサルタンツ」という現地法人も設立した。今から思えば、無知のパワーだった。いくら巨額でも、怯まないこと、「何とかなる」という精神だった。京都で禅や弓道にはまっていたのが、嘘のようだった。約2年間に、10億円弱の不動産を動かした。

 

To be Continued