日本の魅力? | エハン・デラヴィのブログ

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私は旅人で, 魂の偉大な旅を時間と空間を通じて読者と共有します

僕はいま神戸の市街地から車で北に30分の兵庫県三田市に住んでいる。有名な有馬温泉にもほど近いこの地には温泉も湧き、高原の風が緑のなかを渡ってくる気持ちのいい場所だ。三田温泉の露天風呂につかりながら、あらためて人生の不思議を思わざるを得ない。スコットランドの寒く暗い海辺の町で生まれた僕が、なんで日本の温泉に入っているのだろう? いったい僕は何を求め、何を捜し続けて、日本という国を発見したのだろう。日本に住むのは、これで2度目になる。1974年、22歳のとき初めて日本に来た。それから15年間、京都や神戸で暮らした。大阪の女性と結婚もし、子供も生まれた。ちょうど高度成長期からバブルにかけて日本経済は上り調子だったし、仕事がぐんぐん増えた。当時は日本語ができるガイジンは珍しかったから、朝7時から夜11時まで働いていた。ホントおかしなくらい忙しかった。週七日間休みなし、朝7時に家を出て、夜11時に帰ってくる。神戸女学院や関西大学で英語の講師を務め、全日空のパイロット相手に英語を教え、東洋医学を勉強し、鍼灸クリニックを開き、弓道の稽古を重ね、座禅を組んだ。

 

千九百七十四年に八瀬大原で友人の茅葺農家で寛ぐエハンは右

 

だけどビジネスが成功するにつれて、僕は「何か違う、これがホントじゃないでしょ」と感じ始めていた。忙しいだけで真の意味で面白くなかった。日本人の友だちもできなかった。日本人のサラリーマンは残業ばかりで、一緒に居酒屋に行っても仕事の話と上司の悪口ばっかり。これはつまらないでしょ、なんで日本人はこんな話ばっかりするんやと思った。同世代の若者は東洋医学のことなんか全然知らない。「陰陽五行?何それ?」って感じだった。

 

でも、僕も子供3人育てるのに働かなくちゃいけない。金は必要だった。僕は縛られていた。ガイジンを物珍しそうに見る日本人の視線にも嫌気がさしていた。「そんなにガイジンが珍しいか、何か用があるんか、じろじろ見るんじゃねえ」。電車の中で日本語で怒鳴ったこともある。夜、帰宅すると、飲まずにいられなかった。ものすごく飲んだね。「こんな金、金、金ばっかりの生活。あほらしー」晩酌しながら吼えていた。日本のサラリーマンの疑似体験だった。だから僕には、日本の男たちのことがよくわかる。こんな状態でみんなよく生きてると思う。余裕がないということだ。

 

そのうち本当に、この国で働いてることが馬鹿馬鹿しくなってきた。常識とかルールとかにがんじがらめになっている気がした。

ある日、愛犬を山で散歩させていたときのこと。リードをつけずに遊ばせていたら、しかめ面のオジサンがやってきて、「放し飼いは法律で禁じられている」と言い出した。何それ、あほらし。ここは山の中でしょ? で、僕はわかった。これが日本という国だ。なんでもルールばっかり。そして即決した。「もうやってられない、こんなところにいたらだめじゃ」と宣言した。1989年、バブルの真っ只中で、僕はすべてのビジネスをクローズして、妻と3人の子供を連れて日本を出ることにした。行く先はカナダ。そこでずっと暮らすつもりで。二度と日本になんか戻らないと決意して……。

 

*   *   *

 

いつも求め続けていた、自分が人生を生きている意味を。なんでこの世にいるのかということを。その答えを探すことが一番大事なことだった。そのためなら、住む国を変えることなんか、大したことじゃないでしょ? 違いまっか?僕は旅行とは言わない。旅行と旅とは違うものだ。事前に計画を立て、お金を準備し、計画に従ってAからB、BからCと移動するのが旅行なら、旅はまったく違う。僕の旅は目的はあるかもしれないが、毎日のスケジュールは一切組まないというやり方だ。毎日が未定、どこまで行けるか、どこに行くか、どうやって辿り着くかが重要なんだ。そのためには、お金は持たないほうがいい。まあ、これは旅というより、正確に言えば放浪ね。放浪者なんだ僕は。意図的に放浪する――これは信条だ。このやり方は、16歳の初めての旅から変わっていない。以後、世界中を歩いて四国のお遍路にいたるまで、基本的に同じやり方を貫いてきた。こう言うと、みんな「どうしてそんな辛くて大変なことするの? 危険じゃないの?」って訊いてくるね。その問いに対する答えは簡単だ。「僕は冒険をしたい」ということなんだ。いやそんな上品な言い方は当たっていないかもしれない。妻に言わせれば、「クレージーな大冒険野郎」だそうだ。

 

ともあれ、僕の人生観も生きることの意味も、この旅と冒険がもたらしてくれた。人生には、冒険と旅がふさわしい。今日一日だって人生のうちでしょ、毎日ホントは未定でしょ? 旅しなくてどうするの、冒険しなくてどうする?って思う。僕は、歩きながら考えてきたことすべてを、これから語ろうと思う.

 

650CCのカワサキを無免許で乗る悪い外人!

 

2001年、僕は再び日本に戻ってきた。そして発見した。この国には人間に対する「基本的信頼」というものがまだ残っている。もっとも最近はずいぶん低くなっちゃったけど、西欧に残念に、それは皆無と感じたのだ。おいおい語っていくけれど、日本は宇宙一素晴らしい国だと思うようになった!ホントのことですよ、これは。大げさな比喩じゃない。だけど日本人が、自分の国のすごい部分を分かっていないんだ。僕はそれを常に残念だと思う。そして先月、四国のお遍路八十八ヵ所をやり遂げて気づいた。「お遍路は人生や。すべての人々は巡礼しとる」ってね。巡礼と言っても、別に宗教じゃない。仏教徒とかキリスト教徒とか関係ない。旅すること、動くこと、歩きながら考えること、それが巡礼の意味だ。

 

第86番札所、志度寺で再会したアキさん

 

通勤するのも巡礼になるし、スーパーに行くのも巡礼になる。「巡礼は宗教」というのは思い込みだ。旅をし続け、世界を放浪してきた僕は、お遍路をやって「巡礼」という言葉の真実の意味に出会った。歩いていると、想像もできないことが起きる。毎日未定の旅のなかで、祈るということが湧いてくる。同時に、常識やルールに囚われている世界への怒りも噴き出る。そして、本当の自由、独立した個人とは何かに気づかされ、魂が清らかになっていく。古代から現代まで、人間は巡礼し続けてきた。なぜか。魂を浄化するためでしょ? 僕もあなたも、この星に住むすべての人々が巡礼者になる時が来ていると思う。

 

伝えたい一番重要なことは、「パッション=情熱」ということ。誰をも恐れず、何が起きても怖がらず、人生を意味あるものとして生きるために必要なのは、独立個人としてのパッションですよ。そのためなら、何でもやる、いかなる冒険も引き受けるのが僕のやり方だ。カナダから日本に単身赴任していた1995年の5月。その頃僕は超貧乏な生活を送っていた。ホントにアンパンとオロナミンCだけの生活。まことに辛かったね。妻の実家のサポートを受けて、講演活動だけで生活していたのだ。まともに食えるわけがなかった。

 

そんなある日、阪急電車に乗っていたときのことだ。頭上で何か二人の声がしてきた。〝もう準備は整ってるみたいだ

そうだね、脳神経系の状態も大丈夫だろう

 

なんじゃこりゃ? 僕はあたりを見回した。乗客は別に変わった様子はない。阪急電車もいつもどおり混んでいた。そのときだ。〝エハンデラヴィ、エハンデラヴィ……〟って呪文のような呟きが聞こえてきた。この奇妙な声は、かれこれ1年半も前から聞こえていたけれど、さっぱり意味がわからなかった。僕はさすがに、おかしくなったと思った。自分にしか聞こえない声。でもその瞬間、100パーセント閃いた。これって、もしかすると僕の名前じゃないか?新しい人生のための?

 

直後、僕は予定変更を選択した。行く先は決まりでしょ、こうなったら。「改名したいんですけど」イギリス大使館に直行して、改名の手続きを始めた。親が付けてくれた名前のジョン・クレイドは処分。今日から僕の名前は、エハン・デラヴィ。そういうことになったからと、妻にも子供にも、宣言した。相談なんかしなかった。だって、これは許しを得て行うべきことですか?ホントの意味で。妻に言ったら、アゴ外れるほど驚愕して怒ったね、「勝手に決めるな!、だったら私も実家の姓に戻させてもらう」って。結局、二人とも名前が変わった。親につけてもらった名前を変える――これには真にスピリチュアルな意味がある。すごい変化があの阪急電車のなかで起きたってこと。確かにクレージーかもしれない、ヘンな男かもしれない。けれど、極端な冒険ほど、豊饒でエネルギッシュな瞬間をもたらしてくれるのは確かなことだ。ハンパなく生きてみようってこと。それだけだ。

 

日本人の魂の奥に眠っているパッションに火がつけば、凄いことになると信じている。みなさん、毎日が旅、毎日が巡礼、必要なのはパッションだ。私はこれから●●に行ってまいります。読み終えてくださったならば、またどこかでお会いできるでしょう。では、お元気で!

二〇〇七年             エハン・デラヴィ Echan Deravy