Rainbow farm -2ページ目

Rainbow farm

nanaがたまに思いついたことを
忘れないようにするために
綴っていくblog。

うっそ!!

ヤダわ、アタシったら。

もしかして、もしかしてだけど、

2020年最初のブログなの??!

 

前回の投稿から半年以上が経っているその間に、

世界は新型コロナウィルスという

目に見えない恐怖と戦っているというのに!!

 

人類の歴史に一線を引くような

世界的大ニュースが起こっているというのに!!

なんと浦島太郎みたいなことか。。。

 

そんなコロナ禍の渦中でも、

種子島での私の日常は相変わらず養鶏のお仕事をしている。

 

今日も鶏の飼料の調達に、コイン精米機を訪れた時のこと。

 

大量の米糠を車いっぱいに積んでいると、

精米中のおじさんが「そんなに何に使うと~?」と話しかけてきた。

 

「養鶏やってるんです!」と答えると、

おじさんは「あぁ、もしかして!」と、私に気づいたらしい。

 

私も一度会っていたことを思い出した。

以前家の庭に迷い込んだ犬を保護したことがあり、

保健所に連絡すると、すぐにそのおじさんは引き取りに来てくれた

「迷子犬のおじさん」だった。

 

ワンちゃんは相変わらずよく迷子のような家出をするらしく、

そんなことを笑って話してくれた。

 

米糠を積み終えた私が車を走らせようとすると、

おじさんが「ちょっと待って!」と

精米したてのお米を差し出し、

「今年の新米よ!持っていきな!」と

満面の笑みで渡してくれた。

 

真っ黒に焼けた自信たっぷりの笑顔が最高だった。

 

種子島は今、米の収穫がピークを迎えている。

おじさんはきっと今日も田んぼで真っ黒に日焼けしながら、

たわわに実った稲を刈り取るのだろう。

 

自分の手で育て、幾日も幾日も世話をして、

やがて実り、収穫の時を迎える喜びは、

ほかのどの作物だって養鶏だって同じだ。

 

無条件においしい。

 

実るまでの道のりは長く、大変じゃないと言えば嘘になる。

でも、おじさんのあの最高の笑顔は、

作り手としての自信と誇りとリスペクトをありありと感じたのだ。

 

* * *

 

私たち夫婦が移住してまだ間もなかった頃、

「農家になりたいんです!」と言ったら、鼻で笑った人達がいた。

 

農家は大変だ、稼げない、と言ったその人の目が寂しかった。

 

息子娘は町に出て、後継ぎはいないし、

難儀して難儀して、楽じゃないよ、

あんたらも町に出て稼ぎに行った方が楽だと言う。

 

まだ駆け出しの移住生活の矢先に言われた

その言葉は突き刺さったし、

農家って、みんなそうなの?

この仕事に自信や誇りや楽しみを感じていないの?

そんなことを思った。

 

あれからたくさんの農家と出会い、

自分自身も農家となって、私を突き刺した言葉は覆されたけど、

あの寂しげな目は今でも忘れられない。

 

農家に限らず、様々な職種にはそれぞれの大変さがあって、

いわゆる“ラク”な仕事はないと思うのだ。

 

別に私は、“ラク”な仕事がしたいわけじゃない。

“楽”しい仕事がしたいんだ。

 

大変な作業をパートナーとこなし、

収穫に向けて一歩一歩近づいて行く足音を

楽しんで行きたいのだ。

 

 

「迷子犬のおじさん」の満面の笑みは、

そんな足音を楽しんでいるように思えて、

農家であることへの誇りを感じた。

 

農家だからと言って、

大変さを押し殺して我慢してやってる人ばかりではないんだと、

胸を撫でおろした。

 

* * *

 

早速頂いたお米を炊いて、

卵かけご飯にして食べる。

 

作り手の顔が見える食卓は、

安心、安全というよりも、

温かい気持ちになる。

 

心が見える。

 

一時、安心、安全を求めて走った時もあったけど、

頭で食べていたように思う。

 

作り手の顔が浮かんで、

温かい気持ちになるときは、

心で頂いている、

そんな風に思う。

 

たぶん、心から頂くことが最強の隠し味。

 

高いから美味い、

こだわって作っているから美味い、

無農薬だから美味い、

そんな表面的なものじゃなくて、

食べるときの心が、きっと美味しくさせるのかもしれない。

 

だから、「おばあちゃんの野菜」は

いつだって格別に美味い。

 

素材一つひとつに

作った人の顔が浮かぶ食卓って、

かなり贅沢で、とっても幸せなこと。

 

 

ちょっと話は逸れたけど、

日本の食卓を支えてくれている農家に、

敬意を捧げたい。

 

 

 

この暑い真夏にも、汗びっしょりになりながら

草刈りや収穫、作付の準備、

市場に出す為に検品、出荷作業、、、

本当に大変だけど、

誇りを持って、楽しんで最高の笑顔でお仕事しましょう!!

 

※写真はイメージです。(笑)

気付けば師走。

すごいわ、すごい速さで年月が過ぎてゆく…

地球の自転速度が上がったよね?ってくらい早いわ。

大袈裟だけど、昨日正月だったじゃない!ってくらい早いわ。

やっぱ大袈裟だった、昨日元号変わったじゃん!てとこにしとこ。

 

 *  *  *

 

2019年、駆け足で過ぎて行った日々を、今振り返ってみる。

 

 

2月初旬、4番目ちゃんを連れて、4泊5日の東京出張。

私の帰島に便乗し、実母も種子島へ。

 

実母が帰って数日経った2月中旬、3番目ちゃんが急性虫垂炎(盲腸)になり、ドクターヘリで鹿児島市の病院へ救急搬送され、緊急手術&入院となる。

 

旦那の母が入院の看病に来てくれて、私は一足先に種子島へ戻り、滞った業務に追われる…

 

無事退院した3番目ちゃんを、義母は種子島まで送り届けてくれました。

 

義母は戻るが、数日後、再び義姉家族と共に、また種子島に来島。

もともと遊びに来る計画で、楽しみにしてたんだよね〜

 

義母と義姉家族が帰るのに便乗し、1番目くんと2番目ちゃんも富山へ旅立ち、しばらく4人家族で暮らします。

 

そして3番目ちゃんの卒園。(父母会の会計役で、退院してから会計監査やら卒園準備でてんやわんや…)

 

1番目くんと2番目ちゃんは、義母が送り届けてくれて、無事帰島。

 

1ヶ月と経たない間に、お義母さん3往復(富山↔︎種子島)しとる‼️‼️ポーン

 

 

4月になり、3番目ちゃんと4番目ちゃんの入学&入園。

密かに着物の着付けを習い、いい練習になりました。

 

4月下旬、高校の大親友の結婚式の為、再び水戸の実家へ。

卒園式、入学式、入園式と、スパルタ着付け練習の成果が発揮されました!(笑)

友人代表挨拶も無事完遂し、親友の幸せな姿から自分の結婚式を思い出し、いつも支えてくれている家族みんなの顔が浮かんできました。

 

5月、6月と、学校&保育園行事が並び、7月からは1番目くんと2番目ちゃんが習い事を始め、生活リズムが少し変わり、夏休みの2週間は1番目くんと2番目ちゃんと3番目ちゃんが、保護者無しで飛行機に乗り富山の祖父母の許へ。

4番目ちゃんは微塵も寂しがらず、1人っ子生活堪能してました。(笑)

 

3番目ちゃんの緊急手術から、自宅と職場が離れていることに不安を覚え、職場の母屋をリフォームすることにし、9月入ってすぐ着工、3週間で仕上げてくれました!

 

学校&保育園の運動会が続き、10月は引越し準備に追われ、有志の方々に引越し協力を頂き、無事新居に移り住んだわけであります。

 

11月は荷ほどき、収納、棚の取り付け等々、住まいを整えて行くうちに、あっという間に12月ですよ!

 

まだ開けてない段ボールがあるってのに、どーすんだ?ブログ書いてる場合じゃねぇぞ‼️‼️(笑)

 

 

 

*  *  *

 

2019年、振り返ってみると、家族の絆、家族の愛を、本当に本当に感じるどころか、骨身に染みる年となりました。

 

 

3番目ちゃんが嘔吐し、お腹が痛いと言った時、いつもなら感染症か何かかな?少し様子を見てからと、仕事を済ませて小児科へと連れて行ったことでしょうが、その時の私は妙な胸騒ぎを覚え、取り返しの付かないことになるような気がして、仕事そっちのけで朝イチで病院へ走りました。

 

“母親の勘”だと、その時は思いました。

母親歴10年で身に付いた、いつもと違う何かに気付けたスキルの様にも思いました。

 

案の定、急性虫垂炎の疑いがあるとして、採血、レントゲン、MRI、全ての検査結果から、腸閉塞と腹膜炎を起こしているので、緊急オペが必要であり、種子島の病院では小児外科手術が出来ず、ドクターヘリで鹿児島市の病院へ搬送、そこで緊急手術となる旨を宣告されたのでした。

 

お昼を過ぎた頃の事でした。

 

1時間後にヘリを要請します、入院の準備をしてください、と言われ、旦那に荷物のリストアップをメールし、急いで持ってきてもらい、事の説明をし、仕事の業務連絡もままならないまま、私と3番目ちゃんは救急車に乗り込みました。

たまたま学校をお休みしていた1番目くんも連れ添って来てくれて、妹の重篤な容態を見て、かなりショックだったようでした。

 

娘と私を乗せた救急車は、港にある公園の芝生広場の上に止まりました。

 

そこには十何人もの大人が、一人の子どもの命を救う為に、召集されていました。

 

緊急ヘリポートとなった公園内に、誰も立ち入りできないように配備された救急隊員、ヘリコプターの操縦士、ヘリドクター、看護師と、ヘリコプターの乗員でさえ4~5人、救急車の車両にも、運転手、主治医、看護師で3~4人。

一人の命の為に、こんなにも動いてくれる日本の医療体制に、本当に、本当に感謝しかありませんでした。

 

白波のない穏やかな大隅海峡が広い広い太平洋に思えて、どこまでも続いているように感じた15分でした。

 

主治医からの説明で、「このまま放っておけば、確実に死にます」の一言で、私の虫垂炎に対する“たかだか盲腸”の意識は一瞬で崩壊されました。

 

6歳以下の虫垂炎自体稀であり、その場合1日で急速に進行することもある。

明日では遅かったかもしれない。

朝イチで病院に駆けつけたこと、そのお陰でヘリが出動可能な日没前に要請できた。

この日はたまたま強い風も吹いておらず、また他にドクヘリ出動もなく、要請して間もなくヘリは到着したこと。

幸運が重なり、今日中の手術が叶ったのは、本当に私の“母親の勘”が冴えていたからだろうか…?

 

 

事が収束し、平穏が戻った頃、ふと、思い出した。

 

手術の日辺り、父方のじいちゃんの命日だった気がする。

気になって父に確認すると、2、3日差はあるものの、やはりそうだった。

 

何かに突き動かされるかのように病院へ走ったのは、じいちゃんがさせてくれたことだったと、私は確信を得たのだ。

 

やっぱりそうだよね。

 

こうやって、ちゃんと見守っていてくれているんだよね、ご先祖さま達は。

 

* * *

 

 

そう言えば、不思議な出来事があった。

 

十数年前、パプアニューギニアを訪れた時のこと。

 

最後の観光巡りで訪れたのは、博物館だった。

首都ポートモレスビーにあるその博物館は、何か少し空気が違っていた。

 

屋外に、一機の戦闘機が展示されていた。

第二次世界大戦のときのものだった。

 

そういえば、(父方の)じいちゃんは、戦争に行ったって言ってたなー。

パラオだっけ?サイパンだっけ?

ここニューギニアも日本兵が来たんだっけ・・・。

なんて思っているうちに、私は何故かその日本兵の方たちに無性に黙祷を捧げたくなった。

 

一人で、その戦闘機の前で、静かに黙祷を捧げた。

心の中で、ずっと “ありがとう” と繰り返していた。

 

パプアニューギニアから日本に帰国するやいなや、携帯電話の電源を入れると、父から着信があった。

 

じいちゃんがつい2日前に亡くなった、今日通夜だから、そのまま新幹線に乗って(福島に)来い、とのことだった。

 

新幹線の中で、私は考えていた。

 

あの黙祷は、虫の報せってやつだったのかもしれない。

きっとじいちゃんは、私に会いに来てくれたんやと思う。

 

なんだか信じられなかったけど、呪術や妖怪が信じられているパプアニューギニアでは珍しいことでもなかったから、目には見えないものの力があることを、その時覚えたように思う。

 

 

* * *

 

3番目ちゃんの急性虫垂炎によって、

亡くなったじいちゃんの愛と、

義母の応援、義母を送り出してくれた義父、心配してくれた義姉や私の両親と、

そして、私と娘が留守する中、種子島で子ども3人を見ながら休むことなく鶏のお世話をし、私の業務も請け負って、夜な夜な仕事をしてくれた旦那と、

自分にできる家事を引き受け、自分の身の回りのことをしっかりやってくれた3人の子ども達の協力と、

家族、親族みんなが同じ方向を見て築かれた絆を、強く強く感じるのでした。

 

 

ネイティブアメリカンの言葉に、

“家族のあいだに調和が保てれば 人生は成功だ”

とあるように、

家族という一番身近な社会をまぁるく満たせたら、

それだけで十分なのかもしれない。

 

そんなことを、骨身に染みるほど強く感じた2019年でした。

 

 

 

でも、ま、2019年の、極々一部です。

一瞬の出来事でしたよ。

やっぱり地球の自転速度が上がったとしか思えないほど、

日々は駆け足で過ぎてゆくのです。。。

 

ちなみに、地球の自転速度は赤道付近で約1700kmだそうです。

 

 

それではみなさま、よいお年を♪

「食育観」なんて言葉が存在しないことはわかっているのだけど、
食育について自分の中で確立したことがあったので、

ここにつぶやいてみる。


遡ること12年前。
新婚のころは、とにかく手料理だ!と意気込み、

丁寧に出汁を取るところから始まる。
私を育てたお袋の味と、夫を育てたお袋の味とを

見様見真似で再現したり、

料理本片手に2人前の晩御飯を2時間かけて作っていた。


一人目の妊娠から離乳食が始まるまでは、

自分が食べたものがダイレクトに赤ちゃんに影響するので、

何を食べたら良いか、何を食べたら良くないか、

飲む水までもこだわっていた。

初めての離乳食だったけど、ズボラな私は気負うことなく、

こう見えてマメに出汁は取っていたのだ。(笑)

飲む水にも気を付けていたおかげか、母乳の心配は一切なし。
一度だけ軽い乳腺炎になったけど、

たぶん出先で飲んだ水道水で淹れたコーヒーが原因だったのだろう。
そんな感じで、けっこう神経使ってた。

二人目が生まれた頃、東日本大震災の影響で、

食の安全最優先で動く母親達が増え、

食べたら良くないものや解毒する食べ物の情報が飛び交っていた。

一人目の子のおやつと言えば、昆布や煮干しやスルメか芋。(笑)
今思うと、スパルタだわ!(笑)
でもたまに、ばぁば達から与えられる甘いおやつを断るのも

なんだかなぁーと思っていたので、このくらいで丁度いいのだ。

しっかりいい水飲んでいれば、アミノ酸なんて怖くない‼️(笑)
ちゃんと流す術を持っているかが大事なのだ。

身体に入れるものばかり気を付けるのは性に合ってなかったし、

良くないものを入れても出してしまえばいい、

出す力を備えることが大事だと思う方が気が楽だった。


だから、「何を食べるか」より、「誰と食べるか」を大事にしてきた。

身体を気遣って、減塩だと叫んだところで、
美味しくなければ意味がないのだ。

(使うお塩を考えれば、腎臓はちゃんと働いてくれるのよ。)


3人目が生まれた辺りで、色々手が回らなくなり、

おやつは手軽にサクッと作れるホットケーキが主流になる。
でもミックスは使わずに、重曹で膨らませます。(笑)

たまに粘土遊び感覚で、クッキーやお団子もよく作っていたなー。
かりん糖はちょっと大変やったわ!(笑)

専業主婦だったし、

ちゃんと出汁を取った手料理を頑張ってましたねー。
 

あと、「薄味」もしない。

ただでさえ、大人に比べて食べる量の少ない子どもにとって、

“塩”から摂取するミネラルは必須だと考えている。

台所に立っていると、チョロチョロと寄ってきて、

お味噌や塩を舐めにくる。

解毒もしてくれるし、ミネラルも補給できるし、

お薬みたいなもの。

お熱の時は、氷枕とお塩でだいぶ解熱できます。
でも、“食塩”はあかんよ。

本物のお塩ね。

(食塩は下処理に使っときー)

 

 

4人目が生まれ、種子島へ移住したことで環境がガラリと変わり、

あれよあれよと養鶏業が始まり、怒濤の毎日となり、

すっかり「食育」なんて忘れかけた生活の中で、

ふと、私が大事にしてきたことを思い出しました。



「何を食べるか」を大事にしてきた時も、
「誰と食べるか」を大事にしてきた時も、
結局、一番大事にしてきたことは、
「どんな顔で食べているか」でした。


家族で囲む食卓の中に、誰か一人泣いていたり、
病気で寝込んでいたり、不機嫌だったりしたら、
どんなに美味しい食事も美味しいと思えなくて、
身体はちっとも喜んではくれない。




晩御飯の時間をとうに越えて帰宅したとき、
息子が腹を空かせた妹達に、

具のない塩むすびを作って食べさせていた光景を目にしたときは、
立派に育ってくれたもんだな、と感心してしまった。


口や頭で考えて食べる食事ではなくて、

心からいただく食事。
そして、食事を通して心が育っていくこと。


それが、私の中の「食育」だと、一つ確信しました。

 

 

 

***

 

いちおー、上の子3人は、専業主婦だったこともあり、

手間暇かけた、世間で言う「食育」がそこそこ出来て、

何でも残さず綺麗に食べてくれるし、

おやつに昆布でも喜んで食べるのだけど、

何も手をかけていない4番目の子と言ったら…

偏食&おやつ大好き&一番ジャンキー(笑)

口癖は「おなかすいた」

 

明日からおやつは、昆布か煮干しかスルメか芋だーーー!!!

 

手をかけなさすぎて反省中ですなり。。。

 

 

 

 

 

2番目ちゃんは、とにかくお米大好き。

よく手と口のまわりに、たくさんのお米をファッションのようにつけていました。(笑)

てか、頬張りすぎだろ!!(笑)