気付けば師走。
すごいわ、すごい速さで年月が過ぎてゆく…
地球の自転速度が上がったよね?ってくらい早いわ。
大袈裟だけど、昨日正月だったじゃない!ってくらい早いわ。
やっぱ大袈裟だった、昨日元号変わったじゃん!てとこにしとこ。
* * *
2019年、駆け足で過ぎて行った日々を、今振り返ってみる。
2月初旬、4番目ちゃんを連れて、4泊5日の東京出張。
私の帰島に便乗し、実母も種子島へ。
実母が帰って数日経った2月中旬、3番目ちゃんが急性虫垂炎(盲腸)になり、ドクターヘリで鹿児島市の病院へ救急搬送され、緊急手術&入院となる。
旦那の母が入院の看病に来てくれて、私は一足先に種子島へ戻り、滞った業務に追われる…
無事退院した3番目ちゃんを、義母は種子島まで送り届けてくれました。
義母は戻るが、数日後、再び義姉家族と共に、また種子島に来島。
もともと遊びに来る計画で、楽しみにしてたんだよね〜
義母と義姉家族が帰るのに便乗し、1番目くんと2番目ちゃんも富山へ旅立ち、しばらく4人家族で暮らします。
そして3番目ちゃんの卒園。(父母会の会計役で、退院してから会計監査やら卒園準備でてんやわんや…)
1番目くんと2番目ちゃんは、義母が送り届けてくれて、無事帰島。
1ヶ月と経たない間に、お義母さん3往復(富山↔︎種子島)しとる‼️‼️
4月になり、3番目ちゃんと4番目ちゃんの入学&入園。
密かに着物の着付けを習い、いい練習になりました。
4月下旬、高校の大親友の結婚式の為、再び水戸の実家へ。
卒園式、入学式、入園式と、スパルタ着付け練習の成果が発揮されました!(笑)
友人代表挨拶も無事完遂し、親友の幸せな姿から自分の結婚式を思い出し、いつも支えてくれている家族みんなの顔が浮かんできました。
5月、6月と、学校&保育園行事が並び、7月からは1番目くんと2番目ちゃんが習い事を始め、生活リズムが少し変わり、夏休みの2週間は1番目くんと2番目ちゃんと3番目ちゃんが、保護者無しで飛行機に乗り富山の祖父母の許へ。
4番目ちゃんは微塵も寂しがらず、1人っ子生活堪能してました。(笑)
3番目ちゃんの緊急手術から、自宅と職場が離れていることに不安を覚え、職場の母屋をリフォームすることにし、9月入ってすぐ着工、3週間で仕上げてくれました!
学校&保育園の運動会が続き、10月は引越し準備に追われ、有志の方々に引越し協力を頂き、無事新居に移り住んだわけであります。
11月は荷ほどき、収納、棚の取り付け等々、住まいを整えて行くうちに、あっという間に12月ですよ!
まだ開けてない段ボールがあるってのに、どーすんだ?ブログ書いてる場合じゃねぇぞ‼️‼️(笑)
* * *
2019年、振り返ってみると、家族の絆、家族の愛を、本当に本当に感じるどころか、骨身に染みる年となりました。
3番目ちゃんが嘔吐し、お腹が痛いと言った時、いつもなら感染症か何かかな?少し様子を見てからと、仕事を済ませて小児科へと連れて行ったことでしょうが、その時の私は妙な胸騒ぎを覚え、取り返しの付かないことになるような気がして、仕事そっちのけで朝イチで病院へ走りました。
“母親の勘”だと、その時は思いました。
母親歴10年で身に付いた、いつもと違う何かに気付けたスキルの様にも思いました。
案の定、急性虫垂炎の疑いがあるとして、採血、レントゲン、MRI、全ての検査結果から、腸閉塞と腹膜炎を起こしているので、緊急オペが必要であり、種子島の病院では小児外科手術が出来ず、ドクターヘリで鹿児島市の病院へ搬送、そこで緊急手術となる旨を宣告されたのでした。
お昼を過ぎた頃の事でした。
1時間後にヘリを要請します、入院の準備をしてください、と言われ、旦那に荷物のリストアップをメールし、急いで持ってきてもらい、事の説明をし、仕事の業務連絡もままならないまま、私と3番目ちゃんは救急車に乗り込みました。
たまたま学校をお休みしていた1番目くんも連れ添って来てくれて、妹の重篤な容態を見て、かなりショックだったようでした。
娘と私を乗せた救急車は、港にある公園の芝生広場の上に止まりました。
そこには十何人もの大人が、一人の子どもの命を救う為に、召集されていました。
緊急ヘリポートとなった公園内に、誰も立ち入りできないように配備された救急隊員、ヘリコプターの操縦士、ヘリドクター、看護師と、ヘリコプターの乗員でさえ4~5人、救急車の車両にも、運転手、主治医、看護師で3~4人。
一人の命の為に、こんなにも動いてくれる日本の医療体制に、本当に、本当に感謝しかありませんでした。
白波のない穏やかな大隅海峡が広い広い太平洋に思えて、どこまでも続いているように感じた15分でした。
主治医からの説明で、「このまま放っておけば、確実に死にます」の一言で、私の虫垂炎に対する“たかだか盲腸”の意識は一瞬で崩壊されました。
6歳以下の虫垂炎自体稀であり、その場合1日で急速に進行することもある。
明日では遅かったかもしれない。
朝イチで病院に駆けつけたこと、そのお陰でヘリが出動可能な日没前に要請できた。
この日はたまたま強い風も吹いておらず、また他にドクヘリ出動もなく、要請して間もなくヘリは到着したこと。
幸運が重なり、今日中の手術が叶ったのは、本当に私の“母親の勘”が冴えていたからだろうか…?
事が収束し、平穏が戻った頃、ふと、思い出した。
手術の日辺り、父方のじいちゃんの命日だった気がする。
気になって父に確認すると、2、3日差はあるものの、やはりそうだった。
何かに突き動かされるかのように病院へ走ったのは、じいちゃんがさせてくれたことだったと、私は確信を得たのだ。
やっぱりそうだよね。
こうやって、ちゃんと見守っていてくれているんだよね、ご先祖さま達は。
* * *
そう言えば、不思議な出来事があった。
十数年前、パプアニューギニアを訪れた時のこと。
最後の観光巡りで訪れたのは、博物館だった。
首都ポートモレスビーにあるその博物館は、何か少し空気が違っていた。
屋外に、一機の戦闘機が展示されていた。
第二次世界大戦のときのものだった。
そういえば、(父方の)じいちゃんは、戦争に行ったって言ってたなー。
パラオだっけ?サイパンだっけ?
ここニューギニアも日本兵が来たんだっけ・・・。
なんて思っているうちに、私は何故かその日本兵の方たちに無性に黙祷を捧げたくなった。
一人で、その戦闘機の前で、静かに黙祷を捧げた。
心の中で、ずっと “ありがとう” と繰り返していた。
パプアニューギニアから日本に帰国するやいなや、携帯電話の電源を入れると、父から着信があった。
じいちゃんがつい2日前に亡くなった、今日通夜だから、そのまま新幹線に乗って(福島に)来い、とのことだった。
新幹線の中で、私は考えていた。
あの黙祷は、虫の報せってやつだったのかもしれない。
きっとじいちゃんは、私に会いに来てくれたんやと思う。
なんだか信じられなかったけど、呪術や妖怪が信じられているパプアニューギニアでは珍しいことでもなかったから、目には見えないものの力があることを、その時覚えたように思う。
* * *
3番目ちゃんの急性虫垂炎によって、
亡くなったじいちゃんの愛と、
義母の応援、義母を送り出してくれた義父、心配してくれた義姉や私の両親と、
そして、私と娘が留守する中、種子島で子ども3人を見ながら休むことなく鶏のお世話をし、私の業務も請け負って、夜な夜な仕事をしてくれた旦那と、
自分にできる家事を引き受け、自分の身の回りのことをしっかりやってくれた3人の子ども達の協力と、
家族、親族みんなが同じ方向を見て築かれた絆を、強く強く感じるのでした。
ネイティブアメリカンの言葉に、
“家族のあいだに調和が保てれば 人生は成功だ”
とあるように、
家族という一番身近な社会をまぁるく満たせたら、
それだけで十分なのかもしれない。
そんなことを、骨身に染みるほど強く感じた2019年でした。
でも、ま、2019年の、極々一部です。
一瞬の出来事でしたよ。
やっぱり地球の自転速度が上がったとしか思えないほど、
日々は駆け足で過ぎてゆくのです。。。
ちなみに、地球の自転速度は赤道付近で約1700kmだそうです。
それではみなさま、よいお年を♪