後編
こんにちは、レインボビットです。
ちょうど、震災発生の時間になりました。
被災地である東北の岩手・宮城・福島、そして千葉、東京。
さらには、海外。
みなさんとともに一分間の黙祷(もくとう)。
大震災によって、亡くなられた方にご冥福を祈ります。
さて、今回は後編に入りますが前編で書き込みしたこと。
これは実際に自分が感じたことをそのまま綴った内容です。
私と同じような人がいるか?でも一人か数人くらいでしょう。
「そこまで歩けるか」の違いだけだと思うのです。
自転車で通勤している人はそれで帰宅する人、オートバイで通勤している人は
中には渋滞の四輪の脇に通って、行く人。
ほかに、向かう人もそれぞれ。
津波に遭った地方に除き、自宅や会社に向かう人、親戚や実家、親友の家に向かう人。
あるいは、避難所(学校・病院・開放した建造物)に向かう人、ホテルや病院に向かう人。
みなそれぞれです。
私は帰宅してから、起きたことを話し合いました。
両親は当時は自宅にいましたが、大きな揺れでは必死に「テレビ」と箪笥だけは
おさえていたそうでした。
もちろん、大停電に遭い冷蔵庫と洋式トイレは使えません。
ただ、不幸中の幸いだったのはガスボンベ式のガスが使えることでした。
(通常、ホースなど切れている場合は使えませんが安全を確認した上で使いました。
一方マンションなど共同では不可・使用禁止です)
残っていた食料で一週間ほど飢えをしのぐようにしました。
また、出社についても二日か三日間あいてからにしました。
さて、自宅の被害状況ですがすでに述べた冷蔵庫と洋式トイレの外観には支障ありませんが
大きな被害があったのが浴槽でした。
内壁に大きな破損があり、あと一歩で半壊よりもその上に至るレベルでした。
(以後、半壊レベルとして申請し、罹災(りさい)証明を受けました)
一方、外観では壁にペンキがはがれるくらいのレベルでした。
(これも専門業者によって改修していただきました。)
話は前にもどりますが、不幸中の幸いはガスボンベの話だけではありません。
大津波についても抑制してくれました。
それは、近くにある防潮堤の高さくらいの東北のルートとなる高速道路でした。
その高速道路には東北にまたがっており、北と南、それによって東から来る津波が
西にある住宅地の前までさえぎってくれたのです。
ぎりぎりだった、と私は改めて感じたと思った。
もう、あれがないと両親はどうなったのか、ぞっとした。
あれから出社できる日の前日になったが、問題点があった。
それは交通面でもマヒしており、仙台市交通局での無線が使えないためだ。
それに伴い、乗り場が3キロほど遠いところだった。
翌朝午前4時半くらいに起床し、簡単な食事を済ませて家から出発したのが午前5時ごろ。
そこからまた徒歩が始まる。普段は歩いて3分だけの乗り場だったはずが、まさか遠くなるとは
思いもしなかった。
歩いてからやっと乗り場についたのが50分ほど。やはり、乗り場に行列する人が見えていた。
それから乗り場が復活するまではおよひ三ヶ月かかった。
またつづく。