こんにちは、レインボビットです。
さきほど、つづく、と書いたタイミングというのはちょうど「黙祷の時間」でした。
もちろんのこと、私も黙祷とともに亡くなられた方にご冥福を祈りました。
さて、後編のパート2になりますが、出社したはじめの日からその三か月間の間は何していたか?
それはそうと、私たちの部内にいた社員がいろんな事情で出社できないこともあり、代わりに私がやらねばならなくなった作業が増えました。
しかし、お客様などのためにもその人倍以上頑張るしかありませんでした。
(※その努力したことの成果として謝礼をいただきました。ありがとうございました。)
(書き込み途中でありますが、ヨコで放映されているテレビには
私一人で現地に行った南三陸町の旧防災対策庁舎が生放送で流れていました。
キャスターがこれまで振り返りをお伝えしているところです)
それから、会社での昼食ですが社員食堂の方から手造りのおむすびが提供されました。
もちろん、出社した社員全員いただきました。
仕事ながらの整理整頓の繰り返しする日々でした。
あれから一年、二年そして
三年目になった今。
あれから何が変わったのか
私が今思い浮かぶキーワード・・・
・安否確認: 家族、会社員、親戚消息状況
・避難場所: 国の指定場所にとらわれない判断、周辺住民の判断最優先
・食糧確保: 非常食への確保、買いだめしない工夫
・電源供給: 太陽電池パネルや充電できる手ごろな蓄電池などの導入検討など
・電波通信確保: 震災時には衛星通信に切り替えて避難呼びかけなど誘導できる工夫など
・住民との協力・絆: 自然災害通報があっても障がい者が不動な場合、周辺住民からよびかけなど
・減災と防災
・震災遺構と震災アーカイブ、風化防止
・再興と復興
忘れたくても減災・防災のためのキーワード
・福島原発
・大津波
・巨大地震
・大震災
・南海トラフ
あげだしたらキリがないと思うがこれが課題として全国的に世界的には
おわかりいただけると思う、いやもう特訓・教訓だろう。
さて、今も復興が進んでないのはどうしてるのかは言うまでもない。
原発事故から遠ざかるために県外移住してる人もいるし(戻りたくても
放射線の心配で一生もどれない人がたくさんいる)。
また、沿岸近くにもともと住んでいた人も公営住宅の問題もでている。
さらには、最近テレビで聞いた復旧できた工場が、土台かさあげのため一旦
取り壊さなければならない問題もある。
それから、人がいなくても防潮堤を建築するといった無駄遣いの話が
最近聞いたばかり。
こういった問題はなるべく住民の声を傾けてきちんとした検討をすべきだと思う。
三年目の振り返りとしての感想・今後の課題の締めくくりになると思うが、
絶対に風化させてはいけない。
そのことをみんなわかっていただければと。
さて、少し話は変わりますが
被災地として訪問したことがあるのは
・三井アウトレットパーク 仙台港
・旧防災対策庁舎
・石巻のサンファン館
石の森漫画館近く
でした。
それぞれも当時から一・二年後として訪問してきました。
仙台港には当時は近くにガスセンターから大震災による大事故、大きな炎が燃えあげるとともに黒煙でした。
あれからすっかりなくなって、周辺の道路・建物などおちついた状態でした。
なぜ、そこに行ったかというと、あるイベントがきっかけで訪問していました。
そのあるイベントはもちろん、震災復興のため、海外から来た有名な画家のひとりでした。(ここではあえて名前は示しませんが)
次に、南三陸町については震災遺構での問題でもうすぐ解体するとのタイミングで私はその前に行くと決断した。
それでやってきた。やはり、行ってみないとわからないのがたくさんありました。
交通の不便さ。そして、建物との周辺の重い空気。
そして、目の前にあった花束線香。
もちろん、祈りをささげた。
最後に石巻。
漫画館は言うまでもないでしょうが、最近復活オープンしたそうだ。
やはり、目的地のサンファン館までの交通も不便でした。
ほとんどが電車代行バス(BRT)でした。
そして、会場に到着し船など見てきました。
船のコーナーの入り口前には下り坂のような
長いエスカレーターになっていました。
と、エスカレーターと到着のちょうど間の下に津波到達点と
書かれてあった板を見ました。
ここまできてたんだなと思いました。
船の被害状況について詳しいことはここは述べませんが
だいたい二割程度といいますかその程度で壊れていたそうでした。
現在は専門・専業の関係らにより修復完了してました。
そして、目当ての公園ですが残念ながら時間がないため、
次の機会にまた行こうと思う。
最後までよんでいただきありがとうございました。
今後の五年目・十年目もよろしくお願いします。