永遠の日曜日 〜『キッドナップ・ブルース』について〜 | 七色祐太の七色日日新聞

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怪奇、戦前文化、ジャズ。
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現代社会に疲れたあなた、どうぞ遊びにいらっしゃい。

10年以上前のある夜。

 

当時まだお茶の水に残っていた中古ビデオ屋で棚を漁っていた私はふと、気になる1本を片隅に見つけました。

 

 

 

「キッドナップ・ブルース 主演・タモリ一義」

 

なんとも時代を感じる人名表記。ジャケットには、ジャンパー姿のタモリが無表情の少女を自転車の後ろに乗せて海辺を走る、シュールなイラスト。そして裏には「孤独な中年男と、少女のせつなく、ちょっとトボけた“誘拐旅行”」との説明。どうにもイメージが湧きませんが、タイトルからして、変態タモリが、純真無垢な少女をキッドナッピング(=誘拐)てことだろうから、単なる軽めのコメディ映画なんだろう。その時の私にはそんな、若き日のタモリが主演した貴重な珍品映画という認識しかなく、その他のビデオとまとめてカゴに入れ、レジに向かったのです。

 

粗大ゴミ直前のところをギリギリで私にキッドナップされたそのビデオは、それから数日後、昼夜逆転生活を極めていた我が家にて、朝の5時からひっそりと再生されました。

 

まさかそれが、一生の記憶に残るほどの映画体験になろうとは、鑑賞前の私は夢にも思っていなかったのです。

 

 

何も起こらない物語

 

この作品のストーリーを簡単に記すと……。

 

売れないミュージシャンのタモリは、近所に住む鍵っ子の少女と仲良しで、よく一緒に遊んでいましたが、ある時少女がポツリ「海が見たい」と言います。近所の波止場で2人並んで海を眺めたのをきっかけに、彼らはそのまま、少女の友達であるゴリラのぬいぐるみも一緒に、なんとなく自転車に乗り、あてのない旅へと出発。地方で様々な人々ととりとめもない会話をしながら、徐々に北の地へ向かっていきます。一方、少女の母親はこれを誘拐だと騒いで通報し、多額の身代金の要求までされたと噓をつき、事件は全国ニュースに。ついに片田舎の町にまでタモリの指名手配書が貼られるようになり、2人の静かな旅にも徐々に終わりが近づいてくるのですが……。

 

 

 

 

私は現在この映画のDVDも持っていますが、付属の解説リーフレットですら、主演のタモリや監督の浅井慎平の経歴を語るばかりで、作品自体についてはほんのオマケ程度にしか触れておらず、書き手の本作への思い入れの無さがよく伝わってきます。

 

 

      DVD版

 

今まで何人かの友人にもこの映画を見せましたが、「最後まで何も起きなくて笑った」「牧歌的で癒される」などの月並みな感想をもらっただけでした。しかし自分にとってこれは、そんな薄っぺらいものでなく、おそらく一生を通じて自分の心に残り続けるであろう、とても大切な存在です。ただ、その理由を人に伝えようとすると、とても難しいのです。

 

 

日曜日の切なさ

 

突然ですが、みなさんは日曜日が好きですか。

 

この場合、日曜日というのは「休日」と同じ意味で考えてもらってよいのですが、私も含め、多くの方は好きだと思います。日々の仕事から解放されて自由に動き回れる時間、楽しいと感じるのが当然でしょう。

 

しかし、その楽しさは、本当に心の底からのものでしょうか。

 

どんなにはしゃいでいても、あと少しでこの時間も終わってしまう、この楽しさはほんの一瞬のごまかしに過ぎない、そして近い将来「絶望」がやってくるという無視できない自覚が、いくら抑えようと頑張っても、心の奥から嫌でも頭をもたげてくるのではないでしょうか。

 

その絶望とは……言うまでもなく「月曜日の到来」です。日曜日の平穏は常に、終末の予感と裏表の関係にあるのです。最近は週休2日の方が多いと思いますが、それが土日だとすると、一番気分が軽いのは金曜の夜であり、時間が進むごとに、何かとてつもなく恐ろしいものの迫ってくる感覚が確実に増してきて、日曜の朝目覚めた頃には、嫌でも常に意識せざるを得なくなる。そしてそれは現実に到来し、また新たな1週間が始まるのですが、1年はこの繰り返しであり、休みが始まった瞬間にはもう終局への予感に怯え始めなくてはならないわけですから、たとえそれがどんなに素晴らしく充実していようとも、休日にはいつだって、拭いきれない切なさが含まれているわけですね。

 

私は学校が嫌いだったので、子供時代からこうした感覚を強く持っていました。そこで、いつも週末の自由時間の総量を計算して、それをいくつかの時点に分割していました。金曜日の午後4時に学校が終わると、次は月曜日の朝7時に登校のため起きるので、それまでの63時間は静かな生活を送れます。そして63時間の半分は31.5時間。そうすると、土曜日の午後11時半が、ちょうど私の自由時間の真ん中だということ。私はその時刻を迎えるまで「まだ、まだ半分も来ちゃいないんだ」と心を励まし、折り返し点を過ぎても「まだ四分の一は残ってる」「まだ六分の一は……」と自らを慰め続けました。絶望到来までの距離を物理的に摑み、それとの精神的対面を少しでも先延ばしにしたいがためのモラトリアム行為。そうすることで、気を抜くと一瞬で過ぎ去ってしまう週末の時間の大切さをいっそう嚙みしめることもできたのです。(ちなみにこの習慣は今でも続いています)

 

このように、たとえ楽しい休日の最中でも、心が完全に安らいでいる瞬間というものは、ほぼ無いものです。

 

 

人生の日曜日

 

ではここで、もう少しスケールの大きなことを考えてみましょう。

 

今までは普通の意味での日曜日を見てきましたが、それでは、上述のような学校や仕事に縛られる生活と無縁な、いわゆる「人生の日曜日」と言ってもよい日々を送っている時には、真の心の平静が得られるのでしょうか。分かりやすい例を挙げると、無職の人の場合はどうでしょう。

 

これは、土日がどうこういうレベルより、さらなる絶望を感じさせる袋小路である点で、いっそう恐ろしいものです。私もずいぶん長い無職生活を経験した人間ですが、別に法に背くことなどしていないのに、晴れた昼間にぶらぶらしているだけで、たまらなく後ろめたい気持ちになってきて、いずれどうにかせねばならないことは分かっているけれど、具体的な計画も勇気も何もなく、結局全てを先延ばしにしながら、漠然とした焦りだけはいつも心の中にあるという、今思い出しても、心の平穏などとはかけ離れた状態でした。

 

ある意味学生時代なども、社会生活の準備期間という点で人生の休日期と言えるかもしれません。私はのどかな田舎の大学に通いながらも「なぜ自分は自分なんだろう」「未来はその都度どこから湧き出してくるのだろう」といったことに悩み、精神を病んで病院に通っていたので、これも頭の中は暴風雨だった記憶がありますが、これは特殊なケースなのであまり一般の参考にはならないでしょう。しかし多くの学生の方々も、それなりに楽しく過ごしながら、ほんの数年後には確実にやってくる就職やら人生行路やらの問題をふと思い出すとき、なんとも重苦しい気持ちになっているのではないでしょうか。

 

こうした「人生の日曜日」は、どうせその後に「何とかしなきゃならないすごく大きなこと」、それによって今後の自分の生活が全く別世界のものになる大問題が控えており、現在はまさに嵐の前の表面的な静けさで、将来をチラリとでも意識した際の内面の大嵐との落差は毎週の日曜日などよりはるかに大きく、絶望の段階を通り越し、身も心も破滅しそうな恐怖と裏表の状態と言ってさえいいように思われます。

 

 

そして人生自体

 

この考えをさらに進めて、もっと規模を大きくしてみましょう。

 

普通の日曜日も人生の日曜日も、心の平穏からは程遠いことが分かりました。では仮に、現在ちゃんと仕事をして、しかもそれに心からの生き甲斐を感じており、平日の労働が楽しくて仕方なく、社会的にも十分認められているといった、まさに考えられる限りの完璧な人(いるとして)ならばどうでしょう。こういった生き方こそが、もはや一ミリの不安もない明鏡止水の理想の境地、真の精神の安定を達成しているとみなしてよいでしょうか。

 

残念ながら、そうではありません。

 

人間が人間である限り、どうあがいても絶対に逃れられない、忘れることができない最大最強の問題があるからです。

 

それは「死」です。

 

どんなに環境的にも精神的にも波風一つない境地を実現しようとも、生きている限り、次の瞬間に世界が何もかも崩れ落ち、永遠の闇に引きずり込まれてしまう可能性からは、決して逃げることができません。そうした奈落の可能性が常にまとわりついている、我々の人生。そうした人生そのものが、ある意味もっとも大きな日曜日、ごまかしと現実逃避の永遠世界に過ぎないとも言えるのではないでしょうか。

 

こう考えてくると、たとえどのような状況にいようとも、生きている限りは完全なる心の平穏など絶対に得られない。息をしている間中、我々はいつだって、何らかの「先延ばし」を実行し、いろんな意味、いろんなスケールでの、崩壊の不安と紙一重の「日曜日」を常に生き続けていると言っていいように思います。

 

 

永遠の日曜日

 

私はなぜこんなに気持ち悪い話を続けてきたのでしょう。

 

それはこの『キッドナップ・ブルース』が、表面の平穏と、そのすぐ裏に顔を隠す様々な破滅の予感が極めて複雑に絡み合う、まさに「日曜日」という観念そのものを描いた作品に思えて仕方ないからです。

 

この映画には、きれいな場面しか出てきません。タモリと少女が旅をする田舎の風景は、派手さは全くないものの、監督が写真家であることもあり、どれもじんわり心に染み込んで、無言で自転車にまたがった2人は、それらの景色の中をそよ風のように通り過ぎてゆきます。休憩中にはタモリが草原でトランペットを吹き、晴れた空の下、日の光で輝く海をバックに砂浜をぐるぐると回り続けたり、誰もいない湖で2人ボートに乗ることも。まさにこの社会の全てから切り離された、2人だけの世界。

 

 

 

 

 

 

しかし忘れてはなりません。この旅は、やがて破滅を迎えるしかないということを。地方の銭湯の番台にまでさりげなく貼られた少女の捜索ビラ、たまたま入った床屋で何も知らない店主から聞く自分たちの噂話などは、だんだん北の地へ向かっていく2人を取り囲む包囲網が、ゆっくりと、しかし確実に狭まりつつあることを示しています。

 

 

 

 

彼ら2人は、もう普通の意味での日曜日、つまり、曜日や日付という概念などとっくに超えた世界の住人です。そうすると、人生の日曜日を過ごしていると言えるのか。しかし彼らの場合、この人生の休日に終わりが訪れることは、一体何を意味するでしょうか。犯罪者として全国津々浦々にまで顔を知られてしまった、友もいない孤独な中年男性。そして彼と永遠に引き離され、育児放棄のろくでもない母親のもとに引き戻されていくであろう少女。この穏やかな時間が消え去ったその先、もはや彼らの人生には「何もない」ように思えます。

 

この作品は、そんなギリギリの地点、奈落の一歩手前で必死に踏ん張っている2人が、迫り来る破滅の予感など微塵も感じさせずに極限まで穏やかに過ごした、まさに人生最後の日々の記録です。彼らの場合、人生の日曜日の終わりが人生そのものの終了と直結しているからこそ、見ているこちらには、何気ない光景の隅々までが輝いて感じられ、世界の見え方全てを、まるで自殺直前の人間の目で眺めたように恐ろしく濃密にしてくれます。全編通して異常なまでに何も起こらないことは、戦前の一般家庭で撮られた平和なホーム・ムービーのように、その後確実に起きる破滅とのコントラストをいっそう強調し、間もなく消えてしまうこの時間を、喜ぶでも悲しむでもなく、ひたすら淡々と過ごすその姿に、私は言いようのない感動、そして悲しみを覚えるのです。

 

少し話を逸らすと、文学の世界でも破滅と紙一重の異常な美しさを追求した人々がおり、「心折れた時に読む文学」とも言われる永井荷風などもそうしたタイプのように思いますが、私はノヴァーリスという人の作品に、この映画と極めて近い雰囲気を感じます。彼の代表作『青い花』は、青い花の中にいる美しい女性の姿を夢で見たのをきっかけに、1人の青年が故郷を離れ、新しい世界へ旅に出る話です。出てくる人々は両親からお供の商人、年老いた坑夫に至るまでみな異常に優しく、青年に心からの助言や自身の哲学を与え、青年はそれらの話や自らの体験を基にして大いなる精神的深化を遂げるとともに、ついには夢で見たあの女性と現実世界で出会って結ばれるところまでいきますが、結局物語は未完に終わります。作者が28歳で病没したからでした。彼はその数年前に若い恋人を亡くして以来、自らの精神世界のみを全宇宙と考える「魔術的観念論」を日々エスカレートさせていましたが、その究極の結晶がこの、夢と現実の境目を超越し、優しさ以外の一切を排除した完全無菌室的作品であるのを思うと、ゾッとしてしまいます。私はこの人の死因を、病気ではなくてっきり自殺だと勘違いしていたのですが、たとえ生き延びていたとしても、遅かれ早かれ自ら命を絶ったように思われてなりません。

 

これに比べると『キッドナップ・ブルース』からは、作り手自体の気持ち悪さは特に伝わってきません。ひたすらきれいなだけの風景映画として鑑賞を終えることも可能です。というより、多くの人はそうした見方しかできないから、この作品から受ける印象など何も無く、公開当時に酷評の嵐だったというのも理解できるのです。

 

ここまで書いてきたことは全て、あくまで私がこの作品そのものから感じる個人的な印象であり、作り手が実際どういうつもりでこれを手がけたのかは知りませんが、劇中で特に必然性なく、2人が田舎の田んぼのほとりに腰かけ、目の前をゆく葬式行列を眺めながら語り合う場面があります。

 

 

 

「私たち死なないよね?」

「誰でもみんな死ぬよ」

「ママも?」

「誰でもみんなバイバイ……」

 

 

こうした、平和すぎる時間の中にぽつりぽつりと挟まれる底知れぬ虚無感を漂わせる会話や、少女がふと「大人になりたい」と口にするものの、その後の声が船の汽笛でかき消されて聞こえない演出、映像が美しくなればなるほどにいっそう切なさを増してゆく山下洋輔の音楽などを考えるとき、私の感覚と作り手の感覚はそれほどずれていないのではないか、とも感じます。

 

 

生と死のバロメーターとして

 

私は無職時代、いろんな会社の面接を受けましたが、面接の前夜によくこの映画を見ていました。それは、あと一歩で静かな世界が崩れ落ちてしまう2人を、明日には人生の日曜日が終わってしまう自分自身に重ね合わせ、この最後の穏やかなひと時を、彼らと静かに共有したいと考えてのことでした。しかし結局、終わってしまうのはいつも彼らの世界だけで、私自身が夢の世界から抜け出ることはなかったのです。全ての面接に落ちたからでした。

 

その後色々あって、現在ではどうにかそれなりに生きているものの、自分はいまだに彼らと同じ空気を吸っていることを、いつも実感しています。そうでなければ見るたびにこんなに感情移入せず、もっと健康的で前向きな、普通の意味で面白い映画を選んでいるはずでしょう。しかし私は今後も、死ぬまでこの映画を見続け、この映画と同じ世界に生きる気がしてなりません。

 

それは一生、何か激烈で恐ろしい問題に蓋をして、ひたすら見ないように先延ばしにしつつ、ずるずる生きていくということでしょう。でも考えれば、人生自体が結局、いずれ死ぬことの先延ばしなのだし、それなら、この映画のもろく儚い2人の世界に何かを感じ、楽しさと切なさが極端に揺れ動く不安定な感覚を日々飼い慣らして生きていくのも、それでしか発見できない何かがあるんじゃないか、こんな人間なんだから、それはそれで一つの生き方として仕方ないんじゃないかと、最近は開き直ってきました。

 

もしもいつの日か、この映画を見ても何も感じず、何でこんなの見てたんだろうと思うようになれば、それはある意味人生が、普通の意味でとても上手くいっている証拠なのでしょうが、その時には私自身の人生はもう終わっているし、死んでいるのだと思うからです。