【相双地区の3.11】バリケードの前で、仮設住宅で…。汚染解消せぬまま4年目の春へ
今年もまた「3.11」を迎えた。津波や原発事故で故郷を追われた人々が、それぞれの場所で捧げた鎮魂の祈り。その背後にある怒りや哀しみ。そして解消されぬ汚染。飯舘村や中通りの仮設住宅を訪れ、それぞれの「3.11」を取材した。美辞麗句では語り尽くせない現実がそこにはあった。原発事故は終わらない。これからも続く。〝収束〟などとは程遠い福島の実情から目を背けてはいけない。
【あふれる「除染」とフレコンバッグ】
いわき市在住の男性警備員は、いつものように淡々と業務をこなしながら「3.11」を迎えた。
福島県飯舘村。放射線量が高く「帰宅困難区域」に指定されている長泥地区は、村の許可証を提示しないと立ち入ることができない。男性は午前9時から午後5時まで、同僚とともに人の出入りをチェックしている。陽射しはあっても、氷点下の寒風は肌に突き刺さるようだ。道路の両脇には依然として多くの残雪があるが、それでも手元の線量計は1.2-1.5μSv/hを示した。南相馬市の警備会社から派遣されている男性は、高線量下で働きながら、家族を養っている。
「今は雪がこれだけあるから低いもんだよ。ここの斜面なんか15μSv/hあるんだ。バリケードの内側に入りたい?自己責任ですよ」
福島第一原発から約30km。村内は除染作業のダンプカーが行き交い、汚染土を入れた真っ黒いフレコンバッグが至る所に仮置きされている。飯舘中学校に隣接するスポーツ公園の一角には除染作業の拠点が設けられ、作業員の乗用車が数多く駐車されている。一面雪で覆われた水田に、うず高く積み上げられたフレコンバッグは増えて行く一方。設置された看板には「仮仮置き場」と書かれているが、搬出先など全く決まっていない。「仮仮」どころか永久置き場になりかねないのが実情だ。
隣町の川俣町・山木屋地区は、町内でも汚染度がとりわけ高く、除染作業が続いている。幹線道路の両脇に設置されたのぼりが風にはためく。除染業者でつくる組合が、こんな言葉を綴っている。
「帰れる日 思い願って除染作業」
「がんばろう山木屋地区 がんばります除染作業」
を提示しないと立ち入りできない。バリケード近くの地
表真上では、6.4μSv/hを超した
【仮眠とる車中は1-3μSv/h】
村内を案内してくれた男性(41)は、母校である相馬農業高校飯舘校に設置されたモニタリングポストを複雑な表情で眺めていた。靴が埋まってしまうほど降り積もった雪が一帯を覆い尽くしているにも関わらず、放射線量は1μSv/hを上回っている。ここで畜産を学び、生徒会活動にも参加した。高校生活を懐かしそうに話す男性は福島市内のアパートに暮らしながら、村の治安維持に協力する「全村見守り隊」の隊員として、汚染が解消されぬ故郷を見つめ続けてきた。夜勤の際は、車中で仮眠をとるが、持参する線量計の数値は1-3μSv/hに達するという。「累積被曝線量は相当だろうなあ」。
本宮市を拠点とする物流トラックの運転手をしていた男性は、配送先の埼玉県春日部市で原発事故を知った。カーラジオが次々と事故の情報を流す。荷台が空のトラックを運転して会社へ戻り、自宅待機。やがて村内を役場の広報車が廻り、「屋外へ出ないように」と呼びかけ始めた。しかし、男性を含め村民が避難出来たのは、7月になってからだった。なぜいち早く避難を促さなかったのか、当時の村長らの動きには、未だに忸怩たる思いが消えない。
「数百万円の賠償金は、5年もすれば無くなってしまう。早く、村外で安定した生活ができるようにしてほしい」
高齢者の多かった村。癌を患っても比較的元気に暮らしていたお年寄りが、避難生活を始めた途端に体調を崩すようになり、ついには亡くなってしまったという話を耳にした。被曝だけでなく、避難生活による有形無形のストレスが村人たちを少しずつ蝕んでいることも、肌で実感する毎日。先の見えない避難生活。増え続けるフレコンバッグ…。男性は苦笑交じりに言った。
「何でも報道で知るんだから。何がどうなっているのやら…」
残雪をかき分けるようにして除染作業が続けられてい
る飯舘村。村内の田畑には汚染土を入れた真っ黒い
フレコンバッグが仮置きされ、スポーツ公園の駐車場
は作業員たちのマイカーばかり
【国は「帰還は不可能」と宣言を】
祈り。
午後2時46分、白河市内にも黙祷の合図を知らせるサイレンが鳴り響く。小峰城近くにある双葉町の仮設住宅では、寒風の中、町民たちが頭を下げ、手を合わせた。住み慣れた故郷から遠く離れて迎える、3度目の「3.11」。町民たちは「来年の3.11は、仮住まいでは無く復興住宅で迎えたい」と口を揃えた。
50代の男性は、妻や大学生になる2人の子どもを埼玉県戸田市に移住させて、単身、仮設住宅での生活を続けている。「福島では育て上げられない。私はいい。でも、子どもたちは安全な場所へ移したかった。戻すつもりはないし、本人たちも戻らないと言っている」。
男性は終始「許せない」という言葉を口にした。自宅は福島第一原発から約3km。揺れによる損傷はない。あるのは放射性物質による汚染だけ。自宅周辺の放射線量は比較的低いというが「周辺をホットスポットに囲まれているから八方ふさがりさ」
東電からの財物賠償は、減価償却を差し引いた残存価値を基に算出された。建築に5500万円を要した70坪の自宅。東電からの賠償金は4000万円だった。首都圏で同規模の住宅を得ようとすると、1億円は必要だと分かった。「0点に近いな。賠償は矛盾だらけ。馬鹿にされているんだよ、俺たちは」。
男性の怒りは止まらない。国は帰還を目指すと言いながら、町内に除染汚染土の中間貯蔵施設を建設しようと進める。町民には受け入れを容認する声もあるが「こちらから持ちかける話ではない。帰還は不可能と国が宣言し、補償を決めるのが筋だ」と話す。
「いろいろと考えていると、こんな国には住みたくなくなるよ。今すぐにでも海外に行きたい。やろうと思えばできるが、それはそれで悔しいでしょ?」
男性は力なく笑った。美辞麗句では語れない「3.11」が、ここにもあった。
午後2時46分、黙祷を捧げる仮設住宅の双葉町民たち。
〝仮住まい〟が続くまま、避難生活は4年目に突入した
=白河市郭内
(了)