【浪江町ルポ(下)】1.0μSV超す浪江駅周辺と福島原発を見つめる慰霊碑 | 民の声新聞

【浪江町ルポ(下)】1.0μSV超す浪江駅周辺と福島原発を見つめる慰霊碑

半年くらいでは何も変わっていない浪江町。浪江駅前の信号は虚しく赤信号と青信号を繰り返す。1日も早い帰還を進めたい国の思惑とは裏腹に、1.0μSVを下回らない駅周辺の放射線量と激しく倒壊した家屋。そして、福島原発が見える道路沿いに建立された慰霊碑。原発事故から25カ月経ってなお、再建のめどは立たず、進むのは常磐道の除染ばかり。真の日常生活を取り戻せる日は来るのだろうか


【「除染なんかできっこないよ」】

男性が思わず声をあげた。

自宅雨どい真下にある排水口。乾いた土の真上に線量計を近づけると70μSVを超した。

自宅前のアスファルト。ひび割れた間から顔を出す雑草では約28μSV。隣家の雨どい直下では40μSVを超した。自宅周辺は高さ1㍍でも3.0-4.0μSV。依然として放射線量は下がっていない。

「今住んでいる辺りの10倍か…。除染なんかできっこないよ」。男性がため息交じりにつぶやく。

わが家にデジタルカメラを向ける。撮影した写真は何枚になったろう。今では帰ることの無くなったわが家。仕事帰り、これまでは「浪江」の道路標識が目に入るとホッとしたものだが、今では切ない思いが込み上げるようになってしまった。すべては原発事故。原発事故さえなければ。

「こんなことを言ってはいけないことは分かっているけれど、いっそのこと、津波で家が流されてしまった方が良かったのかもしれない。まだあきらめがつく…」

厳しかった冬が過ぎ、雪が解けて再び建設業の仕事が忙しくなってきた。先日はビニールハウス設置のため川内村に出向いた。片道140km。住民が帰還したニュースばかりが流れる小さな村ではしかし、村役場の幹部が個や孫を沖縄に逃がしているとの噂が流れていた。線量計を持参しなかったことを後悔した。「この村で本当に農業などできるのだろうか」。ハウスは3日ほどで完成した。
民の声新聞-70μSV
民の声新聞-27μSV超
民の声新聞-地表真上
(上)男性宅の雨どい直下。乾いた土の真上で

70μSV超。あまりに危険すぎる汚染

(中)(下)自宅前の道路では、アスファルトの切

れ目で27μSVを超した=浪江町川添


【まずは道路から…。だが駅前は1.0μSV超】

廃墟と化した浪江駅。町民の間では「線路を挟んで東側は放射線量が低い」と言われているが、駅前ロータリーで車を降りると軽く1.0μSVを超した。町の再編でJRの社員が少しは片付けに来ているのかと思ったが、駅舎は半年前、いや3.11のままだった。「大地震のため終日、運転を見合わせます」と書かれたホワイトボード。終日どころか、2年以上も運転見合わせのままだ。

ロータリーの一角で、建設会社の作業員が腰をかけていた。福島県の委託を受けている業者だった。

「道路の被害状況をまとめるために写真を撮りに来たんですよ。まずは道路からだね。そうそう、ウシとかイノシシとか見なかった?あそこの信用金庫の駐車場に出たらしいよ」。まずは道路。そういえば国道114号線を南下している時、半年前は無人だった常磐道の建設現場では、ショベルカーが忙しそうに動いていた。傍らにはいくつものフレコンバッグ。除染を進めて道路を完成させ、まずは物流のトラックを通そうという計算なのだろう。わずか数分とはいえドライバーは高線量地帯を通過することになる。そして、タイヤなどで放射性物質も拡散させることは想像に難くない。

「避難指示解除準備区域」に指定されている駅周辺は、町が真っ先に住民の帰還を想定している。たしかに、半年前と比べて車とすれ違うことは増えた。そのため、区域内の信号が稼働を再開し、一定の間隔で赤信号と青信号を切り替えている。しかし、以前より増えたといっても信号待ちをする車を目にすることはほとんど無い。時々すれ違うだけ。日常生活が戻るまでには、まだ年単位の時間が必要だ。
民の声新聞-浪江駅前
民の声新聞-浪江駅前②
民の声新聞-倒壊家屋
(上)比較的放射線量が低いとされる浪江駅周

だが、激しく損傷した店舗の前で1.5μSVを超

した

(中)(下)町への立ち入り制限が緩和されたため、

信号も再び動き出した。しかし、倒壊家屋は再建

のめども立っていない。この町に本当の日常生活

が戻る日は来るのだろうか


【福島原発の見える場所に津波犠牲者の慰霊碑】

国道6号を越え、請戸漁港まで車を走らせてもらう。

いまだ消えぬ津波の傷跡。乗用車が漁船が、あちらこちらで無残な姿を晒し、枠組みだけが残った建物が潮風を浴びていた。月に1回ほどのペースで一時帰宅をしている男性ですら、言葉を失う光景。波打ち際では、無数の海鳥が合唱したいた。

福島原発に続く「浜街道」に、津波で命を奪われた方々のための慰霊碑が建立されている。昨年2月に建てられた慰霊碑には、花やペットボトル、ワンカップの日本酒が供えられている。決して古くないから、遺族や友人が頻繁に訪れているのだろう。私も手を合わせた。

慰霊碑の数km先に、福島第一原発が見える。地震で自宅を崩され、津波で家族を失い、そして、放射性物質の拡散で避難を強いられている浪江町。原発事故から25カ月を経ても、町が3つに再編されても、状況は何も変わらない。取材に協力してくれた男性(59)が言った。

「何も変わらないよ。変わったことといえば検問所の位置だな。そして、警察官から民間の警備員になったことだけだ」
民の声新聞-幾世橋地区
民の声新聞-請戸漁港2013.04.15
民の声新聞-慰霊碑

(上)町内では比較的放射線量の低い「避難指示

解除準備区域」に指定された幾世橋地区。激しく

損傷した家屋が少なくない

(中)半年前と変わらぬ姿の請戸漁協。アスファルト

に横たわった漁船が、津波の威力の大きさを物語っ

ている

(下)原発労働者のために整備された〝浜街道〟。

津波で命を失った方々のための慰霊碑が建立され

ており、花や飲み物が絶えない。視線の先には福

島第一原発が見える

(了)