昨年、『孤独・孤立対策推進法』なるものが施行された。
対策法案ができるくらいなのだから、疎外感というものは、人を弱らせ、時には死に至らしめるほどのダメージになるという事象は、私に限った話でははなさそうだ。
誰しも仲間はずれにされるのは、嬉しくはないはずだ。
平等に機会が与えられ、その上で、参加・不参加の選択は、個人の自由に委ねられるのが理想だ。
「どうせ断ってくるだろう。」という先方からの憶測で、声をかけられないでいるよりは、断られる前提でもよいから、「疎外していない」証に、声をかけてもらいたいものだ。
場合によっては、断るのが面倒だから、誘わないでほしい…と思うのもわかるのだが…
私の中で、その「場合」とは、セールスや宗教勧誘の類である場合がほとんどかもしれない。
共通項の中にいると思っている友人らが、プライベートで集まる場合は「誘われない=メンツから外された→自分の存在が軽視されている」と解釈してしまうのだ。
いつも断る側の、その理由が何なのかは、本当のところ、本人以外は知る由もない。
実家に絡む行事に、夫はいつからかピタッと参加しなくなった。
だが、だからといって夫に声もかけず、行事について知らせもしない…というのは、
こちらが「夫の存在を軽視している」と、夫側からは捉えられかねない。
夫は、こちらが誘っても断ってくるのだけれど、「自分が嫌われているから呼ばれないのか?」という疑念に、彼の負の感情が刺激されてしまうより、「好ましくない誘いだったので、自分の意思で断った。」と、彼の自己選択が招いた結果と認知してもらえるやり方の方が、シンプルで拗れにくいと思う。
声かけをして誘い続けるうちに、もしかしたら稀に「参加する」と、夫が言い出す時が来るかもしれない。
しかし、参加・不参加の決断の理由については、こちらが憶測したところで、所詮憶測の域を越えはしない。
私はなぜ、夫のそのような心の仕組みについて理解があるのかというと、他ならぬ私も「自分だけが誘われない」という状況下での“かまってちゃん的精神構造”については、夫と一致しているからなのだ。
“かまってちゃん的精神構造”というと、誤解を招くかもしれない。
かまわれすぎたり、干渉されすぎるのは不快だが、忘れ去られたり、存在を軽視されることは、時に人を大きく傷つける。
要は、相手が自分と共にいることを良しとしていてくれて、存在を認めてくれていることを感じられれば、実際には自分が不参加を選んで、共に過ごす時間を設けられなかったとしても、その事で変に拗ねたりせずに済むのである。
それ故に、自分以外が揃って乾杯している様子の写真を、後から知らされ送られて来た時の心境は複雑だ。
今回は、私にそのような写真が送られてきたこと…というよりは、「自分だけが知らされていなかった集まりを、後から知ったこと」が、私のスタックポイント(引っかかり)を刺激してしまったのだ。
もし、私にも声掛けがあって、その上で私が断ってしまったのであれば、私の感情は、そこまで揺さぶられはしなかっただろう。
実際、もし私が、その会に誘われていたとしても、私は行かれなかったとは思うのだが…
私以外は、声をかけ合っていたからこそ、彼女らは乾杯フォトに写っている事実がある。
事後報告してくるどころか、知らんぷりしているままのメンツもいた。
私的には、写真の中の彼女らとは、かなりの時期を共に過ごしてきた同志的関係性だと思っていたのだが…。
現時点では、このように希薄な関係性になってしまった彼女らと、「私はかつて共に何をしてきたのだろうか…」と、虚しくなった。
メンツの中に、最近、私とちょっとだけ関わりがあった人物が1人いて、その人物が、乾杯の写真を私に送って来て…会のあったことを知らせてくれた。
だが私は、写真を送られてくる前に、彼女たちが一緒に飲んでいたことを知ってしまっていた。
いずれにしても、会の後にその事を知ったわけなので…写真が送られて来る前でも後でも、嫌な気持ちになるのは避けられなかったと思う。
とにかく、「どうせ来ないだろうから…」と、
はじめから除外されていたというのは、
自分の存在が蔑ろにされたようで不愉快なのだ。
その感情を昇華できないままでいるから、写真付きのメッセージをくれた相手に、返信できないままでいる…。
こんなことばっかりやっているわ…私の人生
これまでも、出不精で疲れやすい私と
フットワークが軽く活発な彼女たちとの違いを事あるごとに感じて、卑屈になりがちだった…
向こうからしても、水が合わないと感じられて当然だ。
しかし、異質排除とは言わないまでも、そのような空気感をしばしば察知して私は、彼女らが意図的にしたわけではないとは思っても、彼女らに何とも言えない不信感を抱いて距離を置いてしまうものだから…ますます私だけ、置いてきぼりを食らうのだ。
そして、このような件が起こるたびに
ジクジクとした治りの悪い自分の傷を、どう自分で手当しようか悩んでしまい、更にそんな自分を恥じてしまう…。
やれやれ…な、私なのだ。