駿河の国で寄り道(4)瑞龍寺、井宮周辺 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

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2022年4月から駿府周辺の旧東海道を撮りためた写真で振り返った。

2月から旧東海道にこだわらずに「駿河の国で寄り道」として振り返っている。
 

折からの家康ブームに乗って

「駿府城公園」「浅間神社」「臨済寺」を記事にした。

 

家康に関連した見どころと言うと神社仏閣が多くなる。

東海道の周辺に家康の足跡が多く見られるが1年かけて既に巡って来た。

 

今回のテーマは「瑞龍寺」と井宮周辺。

 

「静岡浅間神社」から安倍街道を北西へ約300m。

 

賤機山(浅間山)西側の山裾にある「瑞龍寺」。

 

〇泰雲山「瑞龍寺」曹洞宗

説明看板があるので読む。
開基  旭姫(徳川家康公夫人)(豊臣秀吉公の異父妹)
家康公は駿府在城の折度々住職を招集し曹洞の法門を聴聞され、当時も7ケ寺の一つとして家康公と深い縁に結ばれていた。
1590年旭姫没するや、当寺に墓を建て、その時の法名「瑞龍院殿光室総旭大禅定尼」からこの寺の名前が瑞龍寺となった。
旭姫の小袖・秀吉公の朱印状・蝶足膳(桐紋蒔絵膳)が保存されている。

 

〇旭姫(徳川家康公夫人)の墓所

説明文を読む。(概略)

旭姫(朝日姫)墓廟
豊臣秀吉公の異父妹
秀吉が小牧長久手の戦後家康と同盟関係を築く為妹を日向守と離別させ1586年浜松城の家康の所へ嫁がせた。
家康と共に在った僅か2年、上洛後2年で病没した。

家康は旭姫がしばし詣でていた当寺に墓を設け「瑞龍院殿光室総旭大禅定尼」と諡し祀った。

 

〇時雨塚。

説明書きを読む。
芭蕉翁の「今日ばかり人も年よれ初しぐれ」の句
「芭蕉排青居士 元禄7年10月12日」と、もとは彫ってあったという。
碑は昔、市内安東の長安寺に在ったが廃寺となったので明治12年頃、この寺に移した。


 

「瑞龍寺」から北へ300m。

安倍街道は賎機山の山裾につながる土手を切り通した所を通る。

 

〇井宮・薩摩土手

ここも家康ゆかりの土手。

土手はここが起点となり4kmほど続いていた。


現在はここからしばらくは土手が残っているが、新しい土手に役目を譲っている。

お堂脇に説明看板があるので読む。(概略)
薩摩土手は権現様堤と呼ばれ、江戸時代の始めに造られた。
薩摩土手という呼び名が初めて記録に見えるのは、1842年に描かれた地図「駿府独案内」と言われている。
西暦1606年に薩摩藩主島津忠恒公が徳川家康公の命によりここ井宮妙見下から弥勒まで築堤したのが薩摩土手と言われている。

 

薩摩土手の起点になっている山裾に土手を守るように神社が建っている。

 

〇妙見山 井宮神社


昔から地元に親しまれ「妙見さん」と呼ばれている。

説明書きを読む。(概略)

井宮神社は、家康が1608年に妙見菩薩を勧請しお堂を寄進、「真言宗 内津山 妙見寺」だった時代がある。

妙見山から、安倍川河川敷で節句行事の石合戦をする子供たちを見た竹千代は、「人数の少ない集団の方が必死に戦い勝利すると家臣に宣言」し、そのとおりになったという逸話が残されている。

現在社殿が建つ小丘陵の斜面に横穴式石室墳が1基分布している。

 

妙見神社脇の山道を登ると「浅間山」の展望広場に通じている。


 

ここから先は家康と直接的な縁はないけれど

井宮の見どころを巡る。

 

「妙見さん」が在る「井宮」地区の周辺を巡ってみる。

 

「妙見さん」から300m山裾を南に戻ると「松樹院」がある。

 

〇井宮山「松樹院 智全寺」浄土宗

1115年井宮神社の別当寺院(真言宗)として創建された。

1560年浄土宗に改宗して再興した。
 

「松樹院」の北側に駿府城代だった信濃守松平忠明の墓がある。
 

〇信濃守松平忠明の墓

説明書きを読む。(概略)

寺の北側に駿府城代だった信濃守松平忠明の墓がある。

忠明は近藤重蔵や間宮林蔵を連れて蝦夷地を調査した人物で函館山山頂に信濃守の詩碑がある。

忠明は1804年に焼失後仮設だった「浅間神社」を再建した。

 

〇浄功院のお薬師さん

説明書きを読む。(概略)
「浄功院」は1611年徳川家康の長女、市姫が七歳で亡くなった後、乳母が平沢から移してきた寺。

「松樹院」と南隣りにあった「浄功院」は明治になって合併した。

痛みの激しい「お薬師さん」は山田長政がタイから持ち帰った石仏。

 

 

安倍街道から「井宮町」の信号を西へ入ると瓦屋根の小さな建築物がある。

 

〇井宮・大応国志産湯の井
 
説明書きがある。(概略)
静岡市指定有形文化財(史跡)大応国師産湯の井戸
円通大応国師は1235年井宮村に生れた。
5歳のとき服織村の建穂寺で学び、中国(宋)に渡り臨済禅を修めた。
帰国後は鎌倉の建長寺や九州大宰府の崇福寺等で多くの弟子の育成に務めた。

 

「大応国志産湯の井」から50m西に石碑が立っている。

 

〇山岡鉄舟邸址

この辺りに山岡鉄舟が住んでいた。

碑の横側に説明書きがあるので読む。(概略)
山岡鉄舟は西郷隆盛と駿府で直談判し江戸城無血開城の合意を成した。
明治2年に静岡藩権大参事としてこの地に住んだ。

山岡は鉄舟の号で知られる豪傑で勝海舟(安芳)高橋泥舟(精一郎)と共に幕末三舟といわれた人。

清水にある「久能寺」の再興に尽力した縁で「久能寺」は「鉄舟寺」と改名するに至った。

 

「山岡鉄舟邸址」の手前の路地を入ったあたりが昔、安倍鉄道の始発駅があった所。

 

〇安倍鉄道の説明掲示板


(株)赤石(木材業)の事務所のフェンスに説明書きが掲げてあったので読む。(概略)
1916年鉄道員監督局の運転開始の許可がおり、井宮から牛妻に至る10kmの軽便鉄道が開通した。
井宮駅は、現在の(株)赤石附近にでき、駅や機関庫等で500坪位の広さだった。

運転は、1日14往復。1時間おきに運転、福田ケ谷ですれちがう単線運転で、通常の構成は客車1両、貨物のある時は貨車2両が連結された。
蒸気機関車3台、客車3台、貨物車5台でスタートし、その後、その数は増えた。
大日本軌道株式会社製造の国産品。重量5tで「らっきょう型」の煙突が特徴だった

 

 

 

今回は「瑞龍寺」「松樹院」と井宮周辺を巡った。

 

次回「駿河の国で寄り道(5)」では「増善寺」「建穂寺」へ行く。