駿河の国をwebで歩く(66)「興津宿・駅周辺」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

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「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて「興津宿編」を選択して散歩する。
 

今回は「興津宿」を巡る。
 
 

前回は「興津宿編の清見寺門前町」を巡った。

 

 

旧東海道は「清見寺門前町」を過ぎると「興津宿」の「西町」になる。

 

「清見寺」から400mほど進むと左手に西本陣があったことを標した道標が立っている。

(今は近くに移設されたようだ)

 

〇西本陣跡


手塚家が旅籠の主だった。

 

100mほど東にも同じような「東本陣跡」の道標も立っている。

 

西本陣の50m手前の路地を入ると踏切がある。

 

古地図を見ると「不動」のほか「浅間社」「社古地」などが描かれているので探してみる。

 

〇波切不動尊へ向かう踏切。


鳥居に綱が張ってあり、階段は通行止めのようだ。

 

鳥居の右の道に向うとお堂が建っていてその奥に滝がある。
 

〇不動尊


山道をしばらく登ると「興津山 不動院」がある。
不動院は小さな無住の寺。

 

〇不動滝

 

不動院の西に「茨原神社」がある。

 

〇茨原神社


線路わきの鳥居はこの神社の鳥居だったようだ。

由緒看板を読む。
所在地  興津本町字滝ノ沢753
祭神   天照大御神
合祀   猿田毘古神    椿大社
     大山祇神     山神社
     品陀和気命    八幡社
     木花佐久夜比女命 浅間社
     建御名方命    諏訪社
     菅原道真公    天神社


さらに西側に「社護神社」が現在の地図にあるが今は荒れてしまっているらしい。

古地図を見ると「社古地」と書かれた鳥居が描かれている。

街道へ戻り、西本陣の向かいに脇本陣がある。

〇脇本陣水口屋


水口屋ギャラリーとして営業している。
 

「興津宿脇本陣水口屋跡」と「一碧楼水口屋跡」の碑が入口に立っていた。(概略)
玄関前の庭に竹が生えていて、西園寺公の謂れが書いてあった。
西園寺公望が1916年より「一碧楼水口屋」にい数回滞在したことが記録に残っている。

1919年からは清見寺近くに別荘の「座漁荘」を建て常住するようになった。

西園寺の私設秘書「中川小十郎」が台湾から持ち帰った「泰山竹」。

竹を好んだ西園寺に竹筆を贈るなど西園寺公望と中川小十郎との「一碧楼水口屋」でのエピソードを伝える記念となった。

古地図を見ると

「本陣」「脇本陣」の辺りまでが興津宿の「西町」。

「東本陣」を過ぎた辺りから興津宿の東町となるようだ。
 

現在では「興津本町」「興津中町」といった町名になる。

「興津本町」にある「龍河山宗徳院 」「教敬山耀海寺」

「興津中町」にある「祥瑞山理源寺」「瑠璃山龍興寺」

などは古地図にも描かれている。


「東本陣跡」のすぐ先の興津交番の脇に公園がある。

〇興津宿公園


看板が立っているので読む。(概略)
1601年徳川幕府は、東海道に伝馬制度を設け、興津の百姓・年寄中に伝馬朱印状を与えられる。この興津宿は江戸から数えて17番目の宿。
東本陣・西本陣の2軒のほか、脇本陣を置き、旅籠も24軒という賑やかな宿場。
東西の交通の最重要路であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。
興津と呼ばれたのは、「宗像神社」の祭神(興津島姫命)がここに居を定めたことからと言われている。

また、平安末期から興津家一族(興津・小島地区を治めていた)が居住していたのでその名を地名としたとの説もある。
古代から呼び名は、奥津・沖津とも言われていた。


興津宿公園の前に和菓子屋があって「宮様饅頭」が売っている。

〇宮様まんぢう


試しに饅頭を購入し、食べてみた。

くせもなくおいしくいただけました。

添え書きに由来があったので読む。(概略)

献上銘菓 「宮様まんぢう」の由来
天皇陛下が興津にお越しになられた際、過去に或る宮様が清見寺にお泊りになった時に差し上げ、そのために宮様饅頭と名付けられていた饅頭を差し上げ、陛下もお気に召された。
 
〇興津宿駅


宮様饅頭から300m進むと興津駅が左手に見える。
東海道線の典型的なローカル駅だ。
 

駅を過ぎると間もなく、街道の民家の脇に一里塚の道標がある。
 

〇興津宿一里塚


道標のほかには一里塚のなごりはない。

 

〇身延道の碑


身延山道の石碑。身延山は日蓮宗なので、石碑には「南無妙法蓮華経」と髭題目で書かれている。
「身延道入口」とある。
雑然と石碑が立っているので何でかな?と思っていて聞いた話によると、以前ここに古地図にも描かれている「石塔寺」があって明治の初めに廃寺となり、境内の一角に寄せ集められたとのことでした。


いろいろな古い石碑が置かれている。解説の看板があったので読む。
身延道は、身延山参詣の道であることにその名の由来があるが、もともとは駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道で、鎌倉期にはそのルートが開かれていたといわれている。
 

街道成立当初は、興津川沿いの村落を結ぶ程度の道でしかなかったものと思われるが、戦国時代になると駿河進攻をもくろむ武田信玄によって整備され、軍用路として重要な役割をはたすようになる。
 

また江戸時代初期には身延山参詣の道としても確立されるが、街道として最も賑わったのは幕府甲府勤番が設置され役人の往来も激しくなった江戸時代中頃からのことである。
 

 
身延道の碑から旧東海道を150mほど東に行った所に宗像神社の鳥居がある。
 

〇宗像神社


参道が100m続く。
神社の入口に看板が立っていた。
祭神   奥津島比売命 狭依姫命 多岐津比売命
 
〇宗像神社本殿


落ち着いた社が建っている。看板が境内に複数あったので読む。
創建年代は不詳 一説に筑前(福岡県)より勧請したともいう。
祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)の御子沖津島姫(みこおきつひめ)ら3女神。

昔よりの国碑に盧原(よばら)神社、俚俗(ぞく)に宗像神社とも言はれていた。当社は興津川の西にあり女体の森と言って舟人たちの灯台がわりとされていた。
興津川の水源は高瀬・西河内から出た名を浦田川と言っていたが、後に興津川と言うようになった。これは当社の祭神である奥津島姫命の名によって興津川になったとも伝えられている。また興津川の名の起こりも、大昔にこの祭神が八木に乗って大海原を渡り、この地に住居を定めたことから興津と言われるようになったとも言われている。
古くは境内も広く今の小学校新運動場一帯も社域であった。現在地は字宮の後と言うから昔の神社は東海道沿いにあったと思われ、多分高波を恐れて今の地に遷座したのであろう。
当社はもと弁才天宮・宗像弁才天・興津三女の宮・宗形大明神などど称していたが、明治元年より現社名に改称している。

海上航海の守護神である築紫の宗像神を勧請したもので平安中期の創建。

 

 

旧東海道の身延道の出会いから300mで出会う国道52号線(現在の身延道)を越えると国道1号線も旧道とバイパスへつながる道と分岐する。


もちろん旧道を進む。

 

〇興津川


興津川を渡っていると3両編成のJR211系とすれ違う。
東海道線の電車はあっと言う間に興津川を渡って行く。

 

 

今回は「興津宿」の中心地を巡った。

 

 

次回は、「身延道」へ入って周辺を探索する。

 

 

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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