「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。
***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。
https://stroly.com/users/9756472369/
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今回は「興津宿」から「身延道」へ入って周辺を巡る。
前回は「興津宿編の興津駅周辺」を巡った。
旧東海道は「興津駅」を過ぎて間もなく「身延道」の入口がある。
ここから旧東海道から外れてみる。
身延まで行くわけではないが、3km弱ほど身延道を進んだ城跡の辺りまで行ってみる。
古地図に「穴山梅雪 古城」「城山」と描かれている「横山城址」へ向かう。
先ずは旧東海道にある「身延道」の入口。
〇身延道の碑
いろいろな古い石碑が置かれている。
解説の看板があったので読んでみる。(概略)
身延道は、身延山参詣の道であることにその名の由来がある。
もとは駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道。
鎌倉期にはそのルートが開かれていた。
戦国時代に駿河進攻をもくろむ武田信玄によって整備され、軍用路として重要な役割をはたす。
江戸時代初期には身延山参詣の道としても確立される。
〇身延道をしばらく入ると昭和に戻ったような商店が目につく。
JRの踏切を越えて、線路沿いに左折したところに果樹研究所がある。
以前は農林水産省果樹試験場だったが今は独立法人となっている。
〇「果樹研究所」には「日本3大並木」の一つ、プラタナス並木がある。
事務的な手入れしかしていないようで、北海道大学のポプラ並木や東京大学のイチョウ並木に比べて見劣りがする。
現地は立ち入り禁止になっていて、観光客を想定していないのだろう。
説明書きもなにもない。
身延道のJRの踏切まで戻り、真っ直ぐ北進し800mほどで東名高速のガードをくぐり、すぐ右折。
側道に入って150mほどのT字路の交差点に小さなお堂がある。
〇身延道の祠
脇に身延道の道標がある。
以前はここが街道だったのだろう。
身延道は右に湾曲して52号線に出て北上する道が江戸時代の道に近いルートのようだ。
「身延道の碑」から直進する街道に戻って間もなく左側に睦国神社がある。
〇睦国神社
身延道の周辺には寺が多い。
「日蓮宗 妙喜山 法泉寺」は創建700年を越える。
300年くらい前に横山城あたりから現在の地に移って来たらしい。
いぼ取りの「いぼがみさん」で知られている。
法泉寺の境内には鐘楼があり、手入れの行き届いた境内。
東名高速道路から800mほど北上すると新幹線の高架をくぐる。
この辺りから「八木間」から「谷津」へと町名が変わる。
古地図に「八木間村」「谷津村」が描かれている。
「八木間村」の山裾に「青蓮寺」が描かれているが今は見当たらない。
今の八木間には「西来寺」「少林寺」があるが古地図には描かれていない。
谷津に入ると山裾に「蓮性寺」があるがこの寺も描かれていない。
〇蓮性寺の本堂。
蓮性寺から北上し、52号線に合流すると左手側にこんもりとした小山が見えてくる。
横山城があった所だ。
400mほど国道52号線を進んだあたりに山に向かう小道があるので入ってみると300mほどで山に突き当たる。
横山城址の看板があるので読む。(概略)
この城は興津城とも呼ばれる。
今川氏の重臣であった興津氏の居住した城。
1360年頃、興津美作守は興津館(興津本町)から本拠をここに移し、山上に城を築いた。
1568年武田信玄の侵入により落城するまで興津氏代々の居城であった。
1569年武田信玄は穴山梅雪に城を守らせた。
1582年武田氏の滅亡とともに廃城となった。
看板の横の方から城址へ向かう登り口がある。
城を実感したくて登ってみたが途中で道が藪に紛れてしまった。
石積が所々にあったが当時のものかどうかはわからない。
旧の身延道はどこかがわからないが山の麓に沿って進んでみると「身延路」と書かれた道標の脇に古そうな「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑があった。
〇横山城址
国道52号線に戻り横山城址の山を迂回する。
迂回した所に看板があった。
「小島」の地は、駿河と甲斐を結ぶ要路として発展し、1704年から1867年まで小島藩(1万石 領地30カ村)があった。
・小島陣屋跡 北西へ約500m
・酒瓶神社 北西へ約500m
・小島藩主墓所(竜津寺)北へ約100m
小島に入るとすぐに臨済宗妙心寺派の古刹「龍津禅寺」がある。
〇龍津禅寺
山門に掛かっている扁額は白隠禅師の落款とのこと。
〇龍津禅寺
江戸時代には小島藩主の松平家の菩提寺として厚い庇護をうけた寺。
山号を知りたくて訪ねたら奥さんが「拈華山(ねんげざん)」と教えてくれた。
本堂の中を案内してくれた。
〇白隠禅師が使用したと伝えられる講台
説明書きが置かれていた。
三四講台<清水市指定文化財>
木製 84.0×90.0×137.5
宝暦5年(1755)春に白隠は、龍津寺での開山200年遠忌に招かれ維摩会を講義するが、その際に使用したとされる講義用の椅子。
別室に「須弥山器(しゅみせんき)」と呼ばれる時計のようなものがあって、説明書きが添えられていた。
〇須弥山器
木製大型の組立て和時計の一種で時刻と共に天体の運行なども識り得るように製作されている。
1824年 6代隠士源直恭68歳の時の製作。
初め駿府城にあり、後に宝台院に移り、明治10年当寺7世唐山和尚これを譲り受く。
小島藩3代藩主の昌信公の墓所があるとのことで探してみたら山裾を少し登った所に松平と読める墓碑があった。
「従五位 楞伽院殿 圓入止観大居士」
裏には「源朝臣松平昌信行年四十三霜卒」と書かれている。
龍津寺のちょっと先の小屋の壁に案内看板があった。
案内看板の絵図や道しるべ。
散策するのにわかりやすい。
看板を読む。(一部抜粋)
駿河中東部唯一の大名として庵原・有度・安倍の3郡にわたる30カ村を統治した小島藩1万石藩主瀧脇松平氏が、1704年に陣屋を構築、以来160余年間、藩政の中心地であった。
陣屋跡へ行こうと案内看板の先の坂を登る。
〇「酒瓶神社」の鳥居
この神社の御祭神は大酒大神(大山祇神)、小酒大神(木花咲耶姫)「さかべじんじゃ」と読む。
当初は高根山頂の近くにあったが、火災にあい今の場所に遷宮したとのこと。
坂を登るとさきほどと同じ内容の看板が立っていて、その脇に「小島陣屋跡」の順路と書かれた案内板があった。
順路に沿って入ると屋敷跡が当時の空気を感じさせてくれる。
〇屋敷跡周辺には石垣が多く残っている。
坂を石垣で区画して屋敷が並んでいたのだろう。
〇石垣
〇小島の集落が一望できる
見晴らしは良く興津川を通る人はここから監視できる。
今回は東海道から外れて身延道を少しだけ覗いてみました。
「身延道の碑」から横山城・小島陣屋までの5km弱の行程でした。
室町から江戸の動乱の繁栄と爪跡が数多くありました。
次回は、興津川を越えて「由比宿」へ向かう。
*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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