駿河の国をwebで歩く(37)「南新屋村(藤枝)」 | れいんぼうの部屋

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釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

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「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

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上の古地図のリンクを開いて「藤枝宿」を選択して散歩する。
 
 
今回の東海道は藤枝の「南新屋村」「青木村」へ入る。

 

前回は旧東海道の藤枝宿を過ぎて「志太村」「稲川村」周辺を巡った。

 

瀬戸川に架かる勝草橋から800mほどで幅10m程度の青木川があって渡ると「南新屋」に入る。
小さな橋を渡ってすぐの道路脇に石柱と案内看板がある。
 

〇岡野繁蔵の碑

「裸一貫から南洋のデパート王」となった繁蔵は明治27年青島村のこの地に生まれました。
青島小学校、育英学校に学び、21才でインドネシアのスマトラ島に渡り大信洋行を興し雑貨貿易商として成功し、さらに、スラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めましたが太平洋戦争でやむなく日本に引きあげました。
戦後、衆議院議員に当選し、国や郷土の為に貢献されたが、昭和50年、81才の生涯を閉じました。
石標に刻まれた「希望に起き、感謝に眠れ」こそ繁蔵の尊い信条でした。
 
 
〇青木交差点
橋から1km弱で国道1号線に出会う。町名は南新屋と青木の境。
 
旧東海道は国道を斜めに横切り、変則の交差点を斜めに進む。
 
〇国道を渡った所も南新屋。
旧東海道には松が似合う。
 
「水上」、「瀬戸新屋村」に入る。
 
旧東海道を「青木交差点」から1kmほど進むと「南新屋」から「水上」に変わって県道356を渡るとすぐに「瀬戸新屋」になる。
 
古地図でも「南新屋村」の次が「水之上村」。
その次が「瀬戸新屋村」になっている。
 
古地図の「水之上村」には「萬福寺」が描かれているが、現在の「水上」にも「大池山万福寺」という曹洞宗の寺がある。
 
 
県道356を渡って瀬戸新屋に入ると、左側に田中藩領傍示石蹟と書かれた石柱と説明看板が立っている。
 
〇田中藩領の石柱
説明を読む。
瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、藩境に境界を示す榜示石を立てた。
この榜示石は一丈余(約3M)の石柱で、「従是東田中領」と書かれていた。
これと対になるのが市内鬼島の「従是西田中領」で、美濃国岩村藩領横内村との境界の法の川の所に立てられていたが、今は西益津中学校に移されている。
膀示石は、田中城主本多正意が家臣の書家、藪崎彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。

 
 
〇田中藩領傍示石蹟から200mほどでお堂がある。
説明書きを読む。
<六地蔵尊の由来>
この六地蔵尊の由来を概略して記すれば、昔の人の遺い伝えと郷土の史跡から六地蔵は近在の名所として亦々東海道筋の由緒ある歴史の地として広く知られている所である。六地蔵尊は神龍凄みし鏡ヶ池から出現したるにより鏡池堂六地蔵尊と称し駿河国24番札所第9番の霊地に指定せられ東海道を旅する著名な人々がここに立寄って祈願をされたという記録。
 また、正徳3年には大草太郎左エ門当地支配の節御嗣子なきため六地蔵尊に祈願せしところ感銘あってお子様が授けられしにより御手代向坂仁右エ門を普請役として派遣されこの堂宇を寄附されたという。また六地蔵の本像は知証大師の自作とされ長さ30糎ばかりの金色に彩色した木仏である。さらに鏡池堂の額は儒学の人渡辺崋山の揮亳であると伝えられている。
(中略)
六地蔵尊の開扉供養(お開帳)は33年目毎にそのときは本像を開いて信者に拝観せしむるその外は一切開扉しない。

 
この「六地蔵尊」は古地図に「六地蔵山」という丘が瀬戸新屋にあって、近くに「玄昌庵」という草庵があるのでそこが地蔵尊を祀っていたのかもしれない。
 
「六地蔵」のある「鏡池堂」の少し先の茶畑脇に石柱と説明看板が立っている。

〇東海道蹟
説明書きを読む。
昭和30年代までは、こゝから西に瀬戸山の丘が続いていた。
この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下りると内瀬戸の部落へ通じていた。
この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。
松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。
古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。
島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年、源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる。 
 
この辺りは明治以降、鉄道の開通に合わせたためか開発が進み、小さな丘は整地されて宅地や農地に変わった所が多いらしい。
古地図には整地される前の丘が多く見られる。
 
次回は「瀬戸新屋村(藤枝)」から「下青島村(藤枝)」へ入る。

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
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