「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。
***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。
https://stroly.com/users/9756472369/
**********************************
上の古地図のリンクを開いて「藤枝宿」を選択して散歩する。
今回の東海道は「藤枝宿」から「志太村」「稲川村」へ入る。
前回は旧東海道藤枝宿の「上伝馬」周辺を巡った。
瀬戸川に架かる「勝草橋」を渡る。
〇勝草橋
欄干に説明書きがあるので読む。(概略)
<勝草橋の歴史>
勝草橋周辺は東海道の渡河地点であり、江戸時代には川越しが行われた。
明治時代になり渡し船と仮橋の二つの方法によって通行が行われるようになった。
明治8年に初代の勝草橋が誕生した。(通行者から橋銭をとる賃取り橋)
昭和7年鉄筋コンクリートの新橋が竣工
平成15年現在の橋に生まれ変わった。
<勝草橋の名前の由来>
勝草橋という名前は徳川家に従って駿府入りした旧幕臣の伊佐新次郎岑満(いさしんじろうみねみつ)が付けたものといわれる。
<勝草橋の名前の由来>
勝草橋という名前は徳川家に従って駿府入りした旧幕臣の伊佐新次郎岑満(いさしんじろうみねみつ)が付けたものといわれる。
廃藩後には牧ノ原の茶園開墾に尽くすとともに、書道・漢籍に深く通じており旧幕臣の子弟らの教育にも当たった。
勝草橋の名前の由来は二つの説
1.田中城の兵が付近の河原で合戦して勝利を得たことから、勝軍(かちいくさ)橋が縮まって勝草橋になった。
勝草橋の名前の由来は二つの説
1.田中城の兵が付近の河原で合戦して勝利を得たことから、勝軍(かちいくさ)橋が縮まって勝草橋になった。
2.志太という地名が植物のシダ(羊歯)の読みと同じで、シダの異名を勝草と称することから志太橋という意味で勝草橋になった。
渡った先の欄干にも説明書きがある。
〇欄干の説明書き(概略)
<瀬戸川の徒渡り(かちわたり)>
江戸時代に勝草橋周辺は東海道の渡河地点だった。
江戸時代に勝草橋周辺は東海道の渡河地点だった。
瀬戸川には橋が架けられず川越しが行われた。
瀬戸川の川越し制度が創始されたのは1685年に川原町に初めて川庄屋が任命されたときといわれる。
瀬戸川は川幅も狭く水深も浅いので、徒歩で渡河することが多かった。
瀬戸川は川幅も狭く水深も浅いので、徒歩で渡河することが多かった。
橋を越えると旧志田町の区域に入る。
江戸時代には旧東海道の右が「旧志太村」、左に「旧稲川村」だった。
旧東海道は、すっかり雰囲気は変わって地方の幹線道路の姿になる。
〇瀬戸川を越えた旧東海道
橋を渡った所に一里塚跡がある。
〇一里塚
古地図に描かれている一里塚は東海道の両脇に小山を盛り上げて築かれている。
説明書きを読む。
<志太一里塚蹟>
奈良時代、官道の4里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。
主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。
徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。
志太一里塚は江戸から約200㎞で50里目に当り、瀬戸川堤から西へ約50M・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。
<志太一里塚蹟>
奈良時代、官道の4里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。
主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。
徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。
志太一里塚は江戸から約200㎞で50里目に当り、瀬戸川堤から西へ約50M・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。
橋から100m余の場所に「本陣」という八百屋があり、その隣の家の脇に石柱と案内看板があったので読む。
〇為善館
<為善館について>
明治6年5月、志太村家地太(かじた)67、68番地に為善館が創設された。
この学舎は、明治43年の、瀬戸川大水害のため流出して確認が困難であるが、現記念碑の建っているあたりと推定される。
これは、寺子屋の学校化したようなもので、創設に連合した、志太村、南新屋村、水上村、稲川村、瀬古村が学区となり、校則も制定されていた。
これは、寺子屋の学校化したようなもので、創設に連合した、志太村、南新屋村、水上村、稲川村、瀬古村が学区となり、校則も制定されていた。
明治19年、統合で前島学校志太分教室となったが、その頃の就学児童数は、約120名ぐらいと、当時の文書により推定できる。
明治23年青島尋常小学校創立に伴い発展的に閉館した。
明治23年青島尋常小学校創立に伴い発展的に閉館した。
また、この信号を左に入る道が現在の田沼街道だ。
「田沼街道」は別名「相良街道」とも呼ばれている。
古地図には「相良道」という名で、現在の位置とは違う瀬戸川に沿って南下する道が描かれている。
先ほどの勝草橋の欄干に「田沼街道」の説明があった。
田沼街道は1758年相良藩主になった田沼意次(おきつぐ)によってお国入りのために整備された道。
相良街道とも言い、城下町であった相良の湊橋(みなとばし)を起点として、藤枝宿へ至る約7里(28km)の道。
田沼意次は幕府老中として権勢を誇ったが、政権争いに敗れて天明6年(1786)に老中を罷免され失脚し翌年には相良城も取り壊された。
田沼意次は幕府老中として権勢を誇ったが、政権争いに敗れて天明6年(1786)に老中を罷免され失脚し翌年には相良城も取り壊された。
田沼街道は大名の通行路としてだけでなく、海岸部と山間部を結ぶ物流の道としても盛んに利用された。
古地図の稲川村に描かれている「観音堂」は、現在の田沼街道に入ってすぐの左側にある「葦中観音堂」のことなのだろう。
国指定史跡志太郡衙跡の道案内標示があったので寄ってみます。
田沼街道の交差点の次の信号を左に曲がって約600mほど行くと「志太郡衙跡」という遺跡がある。
〇志太郡衙跡
説明書きが各所にあったので読む。(概略)
志太郡衙跡は、東・南・西側の三方を山に囲まれた奥行130m、幅110mほどの谷あいにあり、この場所は、御子ケ谷と呼ばれていた。
奈良時代から平安時代にかけての志太郡の郡役所。
掘立式建物跡、井戸、土壙、板塀、柵、土塁、門、石敷道路などの遺構がある。
〇掘立柱建物
復元の建物と柱の位置を再現した構築物。
〇井戸
木片が発掘されていたそうだ。
〇志太郡衙資料館
「志太郡衙」を中心として志太地域の歴史が展示されていた。
志太郡衙跡は3方を丘陵に囲まれた谷間に位置していたことから、役目を終えた後に開発の手が入らなかったことで保存状態が良かったのだろう。
興味深い出土遺物が多数発掘されたようだ。
志太平野には益頭郡にも、その名も「郡(こおり)」という地名の場所に郡衙があったようだが遺構は見つからないようだ。
静岡近辺では現清水区の庵原に最近になって郡衙の一部が発掘されているが、周辺は開発されてしまっているので志太郡衙のようには整備されていない。
次回は「志太村(藤枝)」から「南新屋村(藤枝)」へ入る。
*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
*****************