駿河の国をwebで歩く(31)「藤枝宿」 | れいんぼうの部屋

れいんぼうの部屋

釣りの記事をメインにしようと思っていましたが
釣り以外の記事の方が増えています。

「仲間の釣行記録」の見出しURLです。カット&ペーストで
https://ameblo.jp/rai-trout/theme-10112228739.html

「東海道まちあるきweb」の古地図を使って現代の静岡をwebでバーチャル散歩。

 

***古地図は次のサイトを開いて見ている***
「東海道まちあるきweb」(https://tokaido-guide.jp/about)
は「静岡市観光・MICE推進課」と「藤枝市街道・文化課」が作成。

**********************************

上の古地図のリンクを開いて「藤枝宿」を選択して散歩する。
 
 
今回も「藤枝宿」の続きの旅を続ける。

 


前回は旧東海道の藤枝宿に入り「東木戸」と「成田山」の周辺を巡った。

 

藤枝宿の旧東海道はこのあたりの商店街を「さわやか通り」と呼んでいる。

成田山から300m余り進むと伊久美藤枝線という県道215号と交差。


〇本町3丁目の交差点。

この交差点から旧東海道は商店街が本格的に形成される。

藤枝の中心街がJR藤枝駅周辺へ移る前はここから先1km余り続く旧東海道が藤枝の中心街だった。

 

ここを左に入ると「大手」。

さらに進むと「田中」に至り「田中城跡」がある。

 

古地図には、左に曲がるとすぐに番所と木戸があって「大手口」と書かれていて、田中城の大手門に通じる。


ということで今回も寄り道をして

「田中城跡」へ向かって寄り道。

 
県道215を進むと県道381号との交差点を越え県道30号に変わる。
 
〇大手交差点。
このあたりには50年余り前に廃線となってしまった藤相線という軽便鉄道の始着駅があった。
その後、静岡鉄道のバス車庫となっていた所だ。
 
〇大手交差点から30号に変わった県道を焼津方面へ入ってすぐに西益津公会堂がある。
玄関脇に「西益津村役場跡」と彫られた石碑が立っている。
 
西益津公会堂前で県道30は県道224号と分岐する。

〇分岐点に「田中城跡」と書かれた石碑が立っている。
 
この分岐を右の県道224に入る。
 
「田中城跡」の石碑から100m進んだ交差点の角に石燈籠が立っている。
 
〇石燈籠
石燈籠の一角に外堀跡と書かれた標示杭が立っている。
杭の横に説明書きがある。
慶長6年(1601)酒井忠利が居城し、三之丸の外側に堀と土塁を造成したので四重の同心円形の城になった。
 
田中城周辺の民家には至る所に標示杭が立てられていて
「三日月堀跡」
「大手門跡」
「大手一之門跡」
などがあった場所が示されていた。
 
〇大手二之門跡

右手に木の橋が建てられている場所があって、田中城の名残りを記念している。
橋は堀を保存している上に建てられていてその脇に説明書きが書かれている。
藤枝市指定史跡
田中城 二之堀  戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成した。(以下略)
 
橋の向かいの路地は二之堀に沿った道で、入ると左側に広いスペースがあり、標示杭が立っている。
 
〇家老馬渕新右衛門屋敷跡・田中城三の丸土塁
広いスペースの奥に小山のように盛り上がった土手が土塁とのことだ。
説明を読む。
田中城は円形の城として知られていますが、三の丸は土塁の6カ所が外に向かって突出した亀の甲羅の形をしているので、別名「亀城」もしくは「亀甲城」と呼ばれていました。この場所は三の丸土塁が北東側に突出する部分にあたっています。
江戸時代末期から明治時代初期の田中城絵図には平らな部分に「馬渕新右衛門屋敷跡」と記されたものがあります。田中城の侍屋敷は円形の田中城内と、藤枝宿との間の大手地域、南側の新宿と呼ばれる地域にもありましたが、その中でも三の丸は家老クラスの屋敷地となっていました。
(中略)
武田流築城の特徴は馬出し曲輪にあるが、この城の最大の特徴は三の丸であり、これが円状に本丸・二の丸を囲んでいたため、亀城と呼ばれた。
西益津小学校の正門の脇に田中城本丸跡と書かれた標示杭が立っている。

〇田中城本丸跡
杭の側面に説明があった。
田中城は同心円形に四重の堀と土塁で造られていたが本丸は四角で480坪(1580㎡)と小さく本丸内には御殿やお亭のみで天守閣のような建物はなかった。
 
少し戻って中学校の裏へ通じる路地を入ると三之堀跡がある。
 
〇三之堀跡
 
三之堀跡の少し先に「姥ケ池」への矢印があって、案内に沿って300mほど行くと小さな池がある。
 
〇姥ケ池
説明書きがあったので読む。
池の形から別名「ひょうたん池」とも呼ばれている。現在もきれいな水が湧き出ているが、江戸時代には田中城の水源となっていた。
直径30cmほどの木管をここから田中城まで引き込み、城内や新宿の侍屋敷の上水として利用された。
 
周辺を巡ると民家脇に標示杭が至る所に立っている。
「家老遠藤俊臣屋敷跡」「平島一之門跡」「三日月堀跡」「亀城神社・稲荷社跡」
史蹟だらけの田中城。


本丸だった西益津小中学校周辺をひと回りした後、下屋敷跡へ訪ねる。
道を間違えて裏の駐車場へ着いてしまった。駐車場脇に案内板が立っている。

〇下屋敷跡
看板を読む。
 田中城下屋敷跡は田中城の南東隅にあり、江戸時代後期には城主の別荘がおかれていた。平成4年度から7年度にかけて、かつての庭園を復元整備し、茶室を元の場所に移築した。
<松原木戸>
慶長6年(1601)、田中城主となった酒井忠利は四之堀を増設すると共に、東海道から直接田中城に通じる道を作りました。これを藤枝口といい、道の両側に松の木を植えたので、城の入口を松原木戸と呼びました。
<姥ケ池>
きれいな水が今でも湧き出しています。ここから木や竹で作った水道管を城内まで延ばし、飲料水を引き入れていました。
<本丸跡>
田中城の堀は円形に巡らされていましたが、本丸だけは四角形をしていました。現在、西益津小学校が建っている場所がそれです。
<平島木戸>
元来、田中城の正門は平島口でした。しかし、江戸時代初期に大手口が開設されてそれが正門となると、平島口は開かずの御門となりました。
<御成街道>
葉梨川にかかる八幡橋の袂で東海道を東に分かれ、平島木戸に到るまでのおよそ1.7kmの道です。
大手口が開かれるまでは田中城に入る正式な道で、徳川家康がこの道を使っていたことから御成街道と呼ばれるようになったようです。
<馬上の清水>
徳川家康がこの地で鷹狩りを楽しんでいたとき、喉が乾いたのでここの水を家来に汲ませました。そして馬に乗ったまま水を飲んだのでこの名が付いたと言われています。
<土塁と堀跡>
田中城は四重の堀と土塁で囲まれていました。昭和30年代まではよく姿を留めていましたが、現在ではほんの数カ所が残るだけです。
<新宿木戸>
「しんしゅく」と読みます。六間川を境にして北側が城内、南側は下級武士たちの屋敷がある新宿です。
<旭傳院の山門>
田中城内から移された門だといわれています。その規模や構造からみて、城門ではなく城内にあった屋敷の門ではないかと考えられています。

 
表に回ると入口から門と本丸櫓が目に付く。

〇下屋敷跡
中に入るといろいろな資料などが展示されている。
田中城主の変遷と書かれた年表が掲げられていた。江戸時代の重要な城だったことがわかる。
1601年、徳川家康は酒井忠利を田中城主に任命しました。その後一時城主はおかれませんでしたが、1633年以降は順次城主が任命され、明治元年まで12氏21人の城主が在城しました。
これら城主の中には、入城、転出に際して加封されたり、幕府の要職についた者もいます。
江戸時代の前半はごく短期間で城主が交代しましたが、中頃からは本多氏に定着し、幕末まで7代にわたって世襲されました。
「年代」,「城主(領主)名」,「領高」,「前封地」,「転封先」,「主な事績・できごと」
「15世紀頃」 (一色左衛門尉信茂)この頃今川氏の命を受けて居館を拡大し、徳一色城または戸久一色城と称したのが田中城の始まりと伝えられている。
「16世紀前半頃」 由井美作守正信1万8千石(3万8千石)、今川氏の臣(今川氏分限帳による)1560年没
「16世紀中頃」 長谷川次郎右衛門正長○一族21人300余騎で守る。1570年武田信玄に攻略される。
「1570年」 (武田氏)○馬場美濃守信房により城修築、三日月堀を新設。山県三郎兵衛昌景が在番し、200騎で守る。
(以下略)
 
田中城は見どころも多く、興味を引く事柄も多い。
藤枝宿を語るには欠かせない場所だけど田中城はこの辺で旧東海道へ戻ることにする。
 
次回は「藤枝宿」の続きで旧東海道を進んでみる。

 

 

 

*******参考*******
「駿河の国 東海道 (見て歩き)」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rainbowhp/tokaido/tokaido01.htm)
は私が10年ほど前に作った静岡市を中心に東海道周辺の写真を集めたまち歩きのサイトです。
*****************