祖父が死んだ。


数年前から介護施設に入り、数ヶ月前から入院、ここ最近は終日ベッドで横になっている状態だった(らしい)。


家族としては、「あとは苦しまずに逝ってほしい」っていう思いが強かった(らしい)。


ここら辺のことは、祖父とは年に数回しか会っていなかった僕には良くわからない。大体が家族から聞いた感じのことだ。



僕はおばあちゃん子だったこともあってか、祖父との思い出はあまりない。


さらに「いつ亡くなってもおかしくない」と聞かされていたので、訃報に接したときも悲しくならなかった。


息を引き取る直前、日曜の夕方で僕はやることもなく布団でダラダラ寝ていたのだけど、祖父は何を思ったのだろう。


八十何年かの人生が終わって永遠の無になるそのとき、祖父は何を感じたのだろう。



僕たちが生きている空間、世界から祖父は永遠に姿を消した。今後も生き続ける僕らの世界から一人の人間が亡くなった。


祖父にしてみれば、自分が接していた世界の全てが姿を消した。「永遠の無」という概念すら通用しない世界(この表現も相応しくないだろうけど)に旅立った。


死はその圧倒的な威力をもって、当たり前の日常を過ごす僕らに疑問符を投げつけ、否応なくそれを目の前に突き付ける。


人の死に対して悲しみにくれることを強要する人達に反感を抱きながら、こんな日記を書いてみた。

「今回の出来事は想定外だった」


に対して、


「無責任だ!」


って言う人の方が、はるかに無責任だと思う。

今日は変わった人を見かけた。


その人は五十代くらいのおばさんで、道路の左側を自転車を押しながら歩いていた。ここまでは普通だ。


どこがちょいと変わっているのか。


おばさんは道路で自転車に乗った人とすれ違う度に、その人に対して大きな声で「自転車は左側通行です!!」と叫んでいた。


ホントに大きな声で半狂乱で絶叫していた。


どういうことかというと、おばさんは道路の左側を自転車を押して(または乗って)通行している。


自転車は一般車両と同じ左側通行なので、左側を進んでいる自分と正面からすれ違うということは、相手は右側通行をしていることになる。つまり違反行為をしているのだ。


その違反行為をしている人達ひとりひとりに対して、おばさんは一心不乱に「自転車は左側通行です!!」と絶叫していた。


案の定誰もその声を聞くことはなく、すれ違ってから「俺(私)に言ったのかな?」って感じで少し振り返る程度だった。


周りの歩行者は、おばさんが絶叫する度に「なんだ?」って感じでちょっとだけ見る。僕もそうした。


もし僕がその時自転車に乗っていて、そのおばさんにすれ違いざまに注意されたとしたら、ガン無視を決め込んだだろう。


しかし、おばさんの主張は「正しい」。何一つ間違っていない。現行の道路交通法(正式名称こんなだっけ?)に照らし合わせれば、おばさんはそれを守っていて、すれ違う人はそれを破っているんだから。


半狂乱の金切り声を繰り返し聞かされる、周りの歩行者の迷惑をひとまず度外視すればだけど。。。


だから僕がおばさんに対して抱いた純粋な感情は、「(声が)うるっせえなー」ということだけだった。


「頭オカシイやつがいる」とか、「ああいうおばさんいるよなー」とか、「正義を振りかざして世直しのつもりか、哀れな人だ」とか、微塵も思わなかった。


ただ、あんまり見かける光景ではなかったので、冒頭のようにそのおばさんを「変わった人」と形容した。



もっとそのおばさんの内面を想像すると、「自分は絶対的に正しい主張をしているのに、周りの人々は私の声に耳を貸してくれない。いやむしろ冷たい視線を、変質者を見るような視線を送りつける。やりきれない。私ひとりの声ではこの流れは変えられない。違反者が堂々と闊歩し、順守している自分が変人扱いされる。なんて不条理なんだろう。」


と思っているかもしれない。でもこれはあくまで想像だ。実際のところはわからない。


だから僕の抱いた感情は変わらず「(声が)うるっせえなー」というシンプルな不快だけだ。


おばさんにとって違反者に対する注意は、実は自己陶酔のための手段なんじゃないだろうか、とか、多数派になれば違反は正常で律儀に守る方が異端になるっていう状況はどうしたもんだろう、とか。


そんなことは考えなかった。