現存在の世界認識と実存について、現代の政治問題を例にして

 
ハイデッガーによれば、現存在と名付けられる特異な存在論的性格を持つ我々は、存在的にも存在論的にも客体的存在とは区別されなければならないが、現存在はさしあたり、自己のありかたを世界の側から解釈する傾向にあるとされている。それゆえ、我々が《実存範疇》と名づけるこの特異な存在者の存在論的構成の分類も、従来は客体的存在に対する存在様相の分類である〈カテゴリー〉のもとに包摂されてしまっているわけである。すると、例えば実存について語るときであっても、それはあたかも客体的存在について語るのと同様に語られるのであって、さらにそれが表現上の制約に由来するだけでなく、当の実存解釈がそのようなものであってみれば、我々は自己の実存を世界の側に明け渡してしまっているのである。実際、我々は実存論的には紛れもなく自己自身について語っていながら、その話自体は世界についての内容であったりすることがある。とりわけ政治的な論争がそうである。政治的な論争は、表向きは社会制度の欠陥や目指すべき将来の方向性など、世界のありかたについて語っているが、その真の意味は、おのれに対して開示される世界を、そのような世界として解釈する現存在が実存するという点にある。政治的な論争においては、現存在は世界について語っている以上に、自己自身について語っているのである。どうもイデオロギーというのは人を幼稚にするかのようで、他の場合では雄弁を振るうような弁舌家も、政治論争になればやけに強情になって自己の立場に固執し、「譲歩したら負け」と言わんばかりの子どもの喧嘩のようである。だがこのようなことになるのもある意味では当然であって、それは政治論争というものが単に社会制度がどうあるべきかとか、理想の国家像とかいう点に重きがあるのではなく、現存在自身の尊厳に関わることだからである。そのような自己自身に対する尊厳の表明が、社会制度や国のあれこれといった世界に対する言明というかたちをとって現れているのである。現代の政治問題について言えば、表面的には多種多様な問題が挙げられるが、そのほとんどの問題が、ある実存的な価値に対する現存在の関心にあるといってよい。その実存的な価値とは、《承認》である。現代の政治問題はーあるいは昔からそうだったかもしれないがーそのほとんどが、承認を巡る争いに端を発している。このことについてはマイケル・サンデル氏の『The Tyranny of Merit』が、主に近年におけるアメリカの状況を主題にしたものであるが、比較的親しみやすい内容であるとともに分析もある程度は妥当であるので、ここでは本書の内容を参考にしながら現代の政治問題を実存論的に捉え直していきたい。彼は2016年にセンセーショナルな出来事となったトランプ氏の大統領就任の背景を分析する中で、現代社会がもはや自明なこととみなし、その歴史的特殊性や問題点について改めて問うことさえしなくなったmeritocracy(メリトクラシー)という社会システムに焦点を当てる。これは能力主義とか実績主義と訳されているが、当面ここで取り上げられる語義としては、歴史的な意味で貴族制や血統主義と対比されるかたちで、個々人の身分や家柄、生まれ持った属性ではなく、当人の能力にもとづいてそれに応じた地位を与える制度体系というものである。我が国では大学入試が、その形式性においては最も純粋にメリトクラティックなシステムと言えるだろう。もちろん、この「当人の能力にもとづいて」という点にさまざまな議論があることは確かである。例えばアメリカでは歴史的な影響のために機会均等が十分に保障されていないとして、人種や性別といった特定の属性に対して一定の優遇措置を与えるアファーマティブ・アクションが広く導入されている。また基本的にはメリトクラティックな制度を採用しながらも、実際の場面では実利的な理由のためにそれが徹底されていない場合も多いだろう。だがいずれにしても、当人の能力のみによってそれに相応しい地位が与えられるべきであるという思想では一致している。サンデル氏は現代社会では自明なこととなったこの社会システムがトランプ氏当選の遠因であると分析し、その理由を次のように述べている。
 
メリトクラシーは一見すると価値中立的な思想のように思えるが、歴史的にはアメリカ開拓期に渡米したヨーロッパ人たちの福音主義の変奏であり、能力に応じて地位が与えられるべきであるということ以上の内容を持っている。とりわけ、「自分の運命は自分のみによって切り拓かれる。そして、その地位にあることは当人の能力の証しであり、すなわちその人はその地位に値する」という思想はメリトクラシーの顕著な特徴と言ってよい。このことは勝者は自分の業績を自分だけのものだと誇ることを許す一方で、敗者は自分の無能以外に何ものも責めることはできないという残酷な一面を持っている。かつての貴族主義や王権主義では、当人の地位は生まれながらに決まっており、それは現代からすれば極めて不平等に思われる側面はあるものの、自分の運命が天に託されているという自覚は「勝者」(支配階級)に対して謙虚さを、「敗者」(被支配階級)に対しては慰めをもたらしていた。ところがメリトクラシーはこの緩衝を取っ払い、勝者にも敗者にもその地位に対するむき出しの正当性を与える。勝者は自らの徳性が自らのものであることを保証されたために傲慢になり、敗者は無能の烙印を押されるために屈辱に苛まれ、自分はこの世界でかけがえのない存在であるという自信を失う。勝者と敗者は分断され、ともに社会を形成する一員であるという連帯感は失われていく。またメリトクラシーと同時代的に、相補的に発展したグローバリズムは、メリトクラティックな社会制度を徹底させ、広く普及させ、世界経済と金融システムの発展に大きく貢献した一方で、「敗者」とされる人々の労働から価値を奪い、彼らを疎外化させていった。メリトクラシーとグローバリズムの発展によって鬱積した、「敗者」とされる人々の孤独感と疎外感は、2016年に象徴的に現れたのである。トランプ氏の大統領当選、Brexit、フランスでの極右勢力の台頭、これらは全て、社会から、他の人々から、そして他ならぬ自分自身から蔑ろにされ続けた人々の怒りであり、嘆きであって、トランプ氏をはじめとするポピュリスト政治家たちは彼らの苦しみにうまく迎合し、煽動することによって成功を収めたのである。
 
要するにサンデル氏は、現代社会の根底的な価値観となっているメリトクラシーを批判的に考察しつつ、「敗者」とされる人々が承認を剥奪されたことがトランプ氏の大統領当選の遠因となり、さらに広くみれば現代社会の分断を招いていると見ている。彼がメリトクラシーに加える批判については、その主要なものとして、「勝者」(現代では主にエリートと呼ばれる人々)とされる人たちの能力や業績も、決して当人だけによって勝ち取られたものではないことを挙げている。例えばマイケル・ジョーダンの成功について言えば、彼の天性の身体能力は彼の努力だけでなく、生まれの要因もあり、また彼がバスケットボール選手として今ある名誉を授けられるのは、バスケットボールという競技の存在、およびそれを高く評価してくれる現代のアメリカ国民の存在無くしては語れないだろう。また、先に見たようにメリトクラシーは決して普遍的でも真に平等な価値観でもないにも関わらず、そのような見かけにあるために、「勝者」に対しては揺るぎない自負を与えると同時に「敗者」からは尊厳を奪い続けているのだという。一般的にメリトクラティックな社会での成功といえば、「いい大学に入って、大企業に入社して、高い給与をもらう」ということだが、これが果たして社会的、歴史的に見て普遍的な成功だと言えるだろうか。それにも関わらず、我々はこのような人生を普遍的な成功であり、自己実現の模範と見ているのである。サンデル氏は教育と労働のシステムにおいて、メリトクラティックな思考が最も顕著に反映されていると述べている。ここではその代表として、例えば国連やそれに類する団体が行っている途上国の子どもたちに対する支援や女性に対する支援がどのような内容かを考えてみれば、現代の人々が教育や労働に関して持っている価値観がいかにメリトクラティックなものであるかが思い知らされるだろう。広告内容を見る限り彼らが発するメッセージはたいてい、貧しさのために学校に行けない子どもたち、若くして結婚し家庭に従事する女性は、自己実現を奪われた人たちであるという考えにもとづいている。もちろんこのような広告は、地に足のついたメッセージというよりは支援を募るための印象先行で皮相的なものなのであるが、それゆえに、かえって世間の偏見を包み隠さず表しているのである。だが彼らが自己実現を奪われた人たちと映るのは、メリトクラティックな社会制度と価値観のうちに生きる人々にとってでしかない。メリトクラシーは普遍的な正義ではなく、それ自体特殊な価値観であって内在した限界を含んでいるにも関わらず、その見かけ上の透明さによって人々の思考に深くに浸透し、人々が自覚せずにその思想の枠の内においてものを考え、それを他者に押し付けることを可能にしているのである。メリトクラティックな社会ではなぜ学歴が重視されるのか、なぜ家事労働よりも社会労働の方が良いとされるのか、このことを考えていくと、最終的にはやはり《承認》が決定的な契機であることが分かる。承認は人々がそのために生きるものと言っても過言ではない。なぜ承認がこれほど決定的な権能を持っているかは後ほど考察することにして、ここではまず、現代社会における様々な制度の問題が、承認の分配のありかたを巡る問題であることを示す。メリトクラティックな社会ではなぜ学歴が重視されるのかと言えば、それは学歴を得ることが大多数の人々にとって承認が得られるような王道的な生き方だからである。もっともサンデル氏はこれをかなり厳しく捉えて、「大多数の人々にとっては大学を出ることが、人並みの生活と尊厳を得るための『必要条件』である」とまで言っている。メリトクラティックな社会では学歴は二つの承認を意味する。一つは教育機関に通うこと自体によって身につく教養や、名門大学などの選ばれた教育機関に通うことによって認められる優れた頭脳に対する承認である。サンデル氏が現代の最も支配的な価値基準として "smart or dumb"、すなわち「頭の良さ」をあげたが、この現代社会で最も強力な徳性を保証するのが教育機関なのである。この価値基準はテストや入試といった序列と競争に基づいたシステムによって、若いうちから刷り込まれることになるのだという。次に「頭の良さ」という現代における最も支配的な徳性を保証された人は、そうでない人よりも高給の職につく傾向にあるが、これは単に経済的な意義があるだけではない。メリトクラティックな社会では「社会に対する貢献」が「給与の多さ」によって測られるのである。実際にそうなっているかに関わりなく、より能力の高い人がより高い給与を貰うと考えられている。そしてより高い給与をもらうことは当人の能力の高さを示し、つまりより高い能力を働かせる分だけより多く社会に貢献しているのだから、それだけ社会から承認を受けるに値すると考えられる。承認を受けるに値することと承認を受けることとは実存的には同義であって、もし我々が何か自分の業績について承認を受けるに値すると考えているなら、既にその業績について自負を抱いているのである。サンデル氏は一例として金融会社の経営陣と清掃員の仕事内容と給与を比較し、賃金の高さと社会に対する貢献は対応しないことを示しているが、それが理屈の上ではその通りであるにしても、メリトクラティックな社会においては賃金の高さは自分の仕事が社会に大いに役立っているという自負を与えるとともに、逆に低賃金労働に携わる人には疎外感を与え、自分が社会の役に立っているという自覚を奪うのである。《承認》は同時に、メリトクラティックな社会ではなぜ家事労働よりも社会労働の方が良いとされるのかの答えでもある。家事労働は賃金の発生しない無償労働であるから、賃金の多さが社会的貢献に対応するという価値観においては、家事労働は社会に貢献する労働では無いとみなされ、したがって承認の対象とはならない。無償労働を搾取と捉える人がいるのも、あるいはそもそも「無償」という頭辞がつくのも、賃金は貢献に対応すべきであるというメリトクラティックな思考の現れである(一方で「無償の愛」が搾取と考えられないのは、何よりもまずその親密な関係において《承認》が果たされているからである)。結局どちらの場合においても、自己実現などと曖昧な表現でごまかされてきたものは《承認》なのである。自己実現の欲求とは、承認の欲求である。マズローは実存の問題を最後まで心理学的に捉え、実存論的な圏において捉えることができなかった。欠乏欲求と存在欲求との区別は存在せず、欲求は全て存在欲求である。愛-所属の欲求と承認の欲求と自己実現の欲求の区別も存在せず、これらはすべて承認の欲求である。このことを実存論的に解釈すれば、承認の欲求とは、自分がこの世界で必要とされていることの自覚の欲求である。それは自己のありかたを世界の側に委ねる日常的現存在の普遍的実存様相であるが、現存在の頽落傾向によって当の現存在自身にはその実存的意義は蔽われているため、さしあたり世界の側の問題として映るのである。サンデル氏が自著中で引用しているAxel Honneth氏の次の言葉は、この事実を端的に表現している。 "Contemporary conflicts over the distribution of income and wealth can best be understood as conflicts over recognition and esteem. " つまり所得の分配、賃金格差、保険制度改革など、表向きは政治的な課題とされている現代の諸問題は、実は承認と社会的評価の問題であると述べているのである。
 
このように、サンデル氏は初めのうちは現代の諸問題を社会的な文脈で語りながらも、最終的には実存的な領域において捉えはじめているのである。世界的な反グローバリズムの潮流はメリトクラティックな制度と価値観の拡大によってもたらされたと述べているが、だからといってそれを煽動するポピュリストやその支持者たちがメリトクラシーに批判的であるというのではない。彼らもまた政治的には対極にある人々と同様にメリトクラティックな価値観に染まっているが、その実存的意義は彼ら自身に対しても覆い隠されているのである。彼らは自身の生きづらさの根源をリベラル的な社会制度や価値観の蔓延に求め、その欺瞞や不正を糾弾するが、真の問題はそのような欺瞞や不正を許し難いものとして捉える彼らの世界解釈にあるのである。それは差別や貧困などの現代の諸問題の元凶を世界の側に求め、社会制度や価値観の改革を目指すリベラル派も全く同様であって、さらには問題を実存的な領域において捉えながら、その解決策に関しては制度改革的な方法しか提案していないサンデル氏も同様である。彼はメリトクラシーの暴走に対する具体的な解決案として、大学入試に「くじ引き」を導入すること、投機収入に重税を課すと同時に労働者の経済負担を減らすこと、人々が経済的階級に関わらず同じ空間で交流できるような公共施設を作ることを挙げている(余談だが、我が国においては、入試のくじ引きについては一部の国立小学校で、経済格差については累進課税やなだらかな給与体系によって他の資本主義国よりも小さめであり、人々の身分によらない交流については江戸時代の銭湯から現代の飲み屋街まで、部分的にではあるが既に実現されている)。これによってエリートの傲慢さを和らげると同時に全ての市民のうちに公共心を育み、メリトクラシーがもたらした共同体の解体と人々の分断に対抗するのだという。しかし実存に関わる問題をこのように扱うことは政治的には正しいのかもしれないが、実存論的には課題の探究を途中で切り上げて「幸せな夢を見続けられるようにする」やり方のように思われる。結局、人々は人の心を物のように扱っていて、ちょうどボールを投げれば落下するように、社会制度や価値観が変化すれば人の心のありかたも彼らが思っている通りのかたちで変化すると思い込んでいるのである。もちろん、今現在生じている問題に対処するという意味で、「敗者」とされる人々の承認の剥奪を招いているのがメリトクラティックな社会制度や価値観であるならば、それをまず是正しなければならないというのなら分かる。それでも重要なことは、人間にとって承認ということがどれほど重要な意義を持っているかということを、たとえ明晰ではないにしてもサンデル氏が理解し始めているということである。「明晰でない」というのはサンデル氏の記述にはまだ不徹底な部分が見受けられるからであって、例えばアリストクラシー(貴族制)がメリトクラシーよりも勝者への謙虚さと敗者への慰めをもたらす社会制度であると主張する部分では、それをまったくメリトクラティックな観点から説明している。メリトクラティックな思考が普遍的になったのは近代的自意識と資本主義経済の発展によるものであるならば、サンデル氏はメリトクラティックな思考体系を中世の人々に押し付けていることになる。そうなれば結局、サンデル氏はメリトクラシーの拡大、およびそのみかけの透明性のために我々の思考に深く浸透していることを警戒しておきながら、自身がメリトクラティックな思考回路でものを語っていることになるわけである。
 
サンデル氏は現代社会の分析の末に、承認という重要な実存的契機にたどり着いたが、承認の実存論的意義を初めて全面的に捉えたのはヘーゲルであろう。『精神現象学』は世界史を承認をめぐる争いとしてダイナミックに捉え直し、「世界史」を絶対精神が自己実現へ向かう過程、すなわち「精神史」として再解釈した。戦争はなぜ起こるのかについて、ある人は物質的欠乏や食糧難といった生理的な危機状況に迫られるためといい、またある人は権力者のわがままで傲慢な欲求のためであるという。だが戦争の歴史を振り返れば、これら二つの主張はほとんど当てはまらないことが分かる。歴史上の戦争はそのほとんどが、他者から承認を勝ち取るために行われたのである。こう書いたからといって、それは必要の無い争いだったとか、物質的欲求の上に立つ精神的欲求を満たすための贅沢な営みであると判断してはならない。承認を得ようとする欲求、すなわち名誉感情は、人が人間として扱われることを求める最も基本的な感情であって、それは高級な感情でもなければ、生理的必要を満たした後に生じる贅沢な感情でもない。承認の欲求は現状に満足せずにさらなる高みを目指そうとするものではなくて、むしろ奪われている尊厳を回復しようとする欲求である。そして尊厳が奪われているのは、かつて尊厳が奪われたことがあったからではなくて、他者から人として正当に扱われていない境遇にあるということである。つまり他者に奪われた尊厳を取り戻すというのではなく、我々は他者からの承認を得られないかぎり、もともと尊厳を奪われた状態にあるのである。承認をめぐる争いがある種の「厚かましさ」を伴うのも、我々が生まれながらにして既に「奪われた」存在であるからである。近年では紋所のように扱われている人権という概念にしても、それは初期の社会哲学者が考えたような理性的な概念では決してない。彼らは理性偏重のあまり、法の本質をなす実存的性格を全く無視して、実存的背景を持つ現象をまるで合理的な営みであったかのように後付けで説明しているだけである。ホッブズやルソーに始まり、近年ではロールズに代表されるような、権利の由来をそれ自体として合法化しようという試みは、「自然状態」という空虚な前提を生み出した。ヘーゲルもまた精神史を概括的に発展史として記述する際、家族、社会、国家の有機的連関を念頭に置きながら、またそれらの契機のどれが先行し後続するわけでもなく、その発展史的記述は便宜的なものにすぎないとしながらも、国家を共同体の原始状態に据えて議論を始めている。無論、彼らとて「自然状態」を現実的なものとして真に受けていたわけではないし、まして歴史的事実などと思ってもいなかっただろう。だが、概念が理性的なものとして正当化されるためには、その由来まで含んだ一貫した全体性のうちに正当化されなくてはならない。それゆえ初期の社会哲学者は、人々の権利の合法性、正統性を主張するための「人権神話」を編み出さなくてはならなかったのである。そして現代の社会哲学者に至っては、権利の由来など今さら取り立てて議論する必要のないこととして閑却されているどころか、むしろその由来を尋ねること自体が人権を脅かす危険な試みとしてタブー視されているのである。人権の威力は、人々の理性的な合意によって発明されたことに由来するのでも、普遍立法から演繹された概念であるからでもない。貴族や地主の支配下にある人々の名誉感情の高まりがこの無力な概念に威力を吹き込んだというのが、紛れもない歴史的事実である。ヘーゲルについては『The Tyranny of Merit』ではごくわずかに触れられているばかりで、もう一つの大衆向け著書である『Justice』では全く触れられていないため、ここから推測するにサンデル氏がヘーゲルの思想に十分接触していたとは言い難いが、個人としての人から出発して社会を見通すのではなく、共同体のうちにある(人の「間」にある)人間というありかたを重視している点では同じである。もちろんサンデル氏の主張に問題がないわけではなく、これらの問題をより実存的な、さらには実存論的な領域において捉えることができれば、その思想をより洗練されたかたちにすることができるだろう。サンデル氏はメリトクラティックな価値観は「勝者」には傲慢さを、「敗者」には屈辱感を与えると述べており、これが現代における人々の分断の要因であるとともに、〈能力〉に基づいた新たな身分社会の形成要因となっているとしているが、この対立的表現からも予想できるように、彼は「敗者」とされる人々が抱く屈辱感がどれほど深刻なものであるかを語るのと同じくらい、「強者」とされる人々が抱く傲慢さを問題視している。その具体例として、サンデル氏は近年の政治家の演説内容や用いられた語句を分析し、メリトクラティックな内容は政治的スペクトラムに関わらず広く見られるが、その割合は最近になって大幅に増加し、特に中道左派において顕著であると述べている。オバマ氏は自身の思想や政策に対して言及する際、"smart" という語を多用しているが、これは自身を価値中立的で優秀な人だと考える現代エリートの典型だという。また、オバマ氏は、自分たちが "the right side of the history"(歴史の正しい側)に立っているという表現を歴代大統領のうちで最も多く用いているが、これも現代エリートによく見られる傲慢さの現れだとしている。後半の方ではメリトクラシーに内在する問題とその解決策についての議論に移り、そこでは「強者」とされる人々も幼い頃から過度の競争にさらされ、休むことなく承認をめぐって争われるため、「敗者」とされる人々と同様に傷ついていることに焦点が移るが、少なくとも前半部分では「強者」の傲慢さに焦点が当てられている。(なお、本書の内容を「エリートよ、謙虚になれ」と要約して、あたかもサンデル氏が「エリートが謙虚になれば現代の諸問題は解決する」と主張していると考えている人々がいるようだが、サンデル氏は現代社会の支配的価値観であるメリトクラシーの内在的欠陥とそれが社会に及ぼす深刻な影響に主眼を置いており、エリートの傲慢さはそれと同根源的な派生物にすぎない。また既に述べたように、後半部分ではメリトクラシーが常に競争に晒され続ける「強者」の心を蝕んでいく過程にも焦点を当てていることから、この要約は明らかに不適切である。)しかし、サンデル氏が傲慢さと屈辱感について、その問題点を「『敗者』とされる人々が『勝者』から見下されていると感じること」と要約しているように、本質的なことは「敗者」が抱く尊厳の喪失であって、たとえエリート層の傲慢さが敗者のコンプレックスを刺激するにしても、勝者が敗者に対してどのように振る舞うかは派生的な問題である。真の問題点は「敗者」とされる人たちの被害者意識にあるのである。サンデル氏は2016年の大統領選挙においてトランプ氏支持と相関していた三つの属性、すなわち低学歴、白人、男性に着目して記述しているが、ここでは承認を巡る問題が現存在に普遍的であることを示すために、それと相対する属性の人たちの例をあげてみよう。BLMは白人警官により黒人射殺事件に端を発した大規模な反レイシズムの運動であるが、彼らの主張するところによれば、他の人種に比べて黒人の命は「軽く」扱われているということであった。それにしても「軽く」扱われているとはいったいどういうことであるか。警官によって射殺された人の属性について、犯罪率に相関するような収入や学歴といった交絡因子を除けば、黒人の方が白人よりも射殺されやすいことを示す説得力のあるデータは存在しない。むしろそのような交絡因子を除いて最も相関関係にある属性は「性別」であるのに、BLMがなぜ黒人という属性に焦点をあて、男性という属性を全く無視できたのか不思議なくらいである。仮に体格の違いや外見から受ける印象、その他諸々の心理的、社会的背景に由来する黒人に対する警戒感というものが存在するならば、なぜそれ以上に事実的に存在するはずの男性に対する警戒感、とりわけ女性からの男性に対する警戒感は問題視されないどころか、正当化さえされるのだろうか。女性に生まれただけで寿命が10分の1も足されるという現実、男性の自殺率が女性の何倍もあるという現実に対して、すなわち男性の命が「軽く」扱われていることに対して社会がさほど問題視せずにいられるのは、それが問題でないからではなく(実際、これがもし逆だったら大問題として扱われただろう)、人々が上に述べた事実を社会的関心のもとに投企することができないからである。要するに問題は、実際に社会が黒人に対して差別的待遇を行なっているかどうかにあるのではなく、黒人たちが自分たちの属性について「差別されている」とか「劣っている」というふうに、否定的に捉えていることにあるのである。もし黒人たちが自身の身体的特徴(例えば肌の色、縮毛、厚い唇など)を否定的に捉え、卑屈な心境を抱いているなら、例えば創作物でどのように描かれたとしても差別的に描かれたと主張することができるのである。それをありのままに表現すれば「ばかにしている」と解釈され、修正すればなおさらなこと「醜い特徴だと思っているからこそ修正したのだ」と解釈されることになる。このことは、一般的に自身の属性や境遇を否定的なものとして投企するあらゆる事例に当てはまる。我が国で言えば、オタクと呼ばれる人たちや頭髪の薄い人、引きこもりといったような例が挙げられるだろう。こうだからといって彼らを論理的に破綻した主張をしている厄介者呼ばわりするわけではなく、むしろこのことは真の問題点が実存的な領域にあること、この場合であれば彼らが社会的な承認を奪われていると感じる点にあることを示しているのである。実際、BLMという運動はスローガンだけが一人歩きしていて、具体的に何を求めているのかが明らかでない。スローガンの文字通りに解釈するならば「黒人を射殺するな」ということになるだろうが、これは明らかに彼らの求めているものに的中しない。だが、具体的には何を求めているわけではないということが、この場合、彼ら自身に対しても隠されているところの彼らが本当に求めているものを明かしているのである。
 
同様に、フェミニズムの運動が本当は社会改革を目的にしたものではなく、女性たちの《承認》をめぐる戦いであることは以前示した(『存在と無』読後感想16)。ジェンダー平等に関する主張にしても、彼らが自分たちに都合の良い平等しか求めないのはなぜか、という点を見過ごしてはならない。教育について言えば、男子校の廃絶と共学化を求める人は、性差を考慮せず年齢によって学年を決めるという男女の成長速度の違いを無視した暴力的な教育システムが男性の人生に与える否定的な影響について閑却している。また、もし彼らのいうように教育現場の多様性(これも恣意的かつ外面的な基準による)に本当に実利的な効用があるならば、なぜその論理は男性に偏った学部(主に工学部、理工学部など)にだけ適用され、女性に偏った学部(一部文科、あるいは「女子大学」そのもの)には適用されないのか。もし彼らの目指すところが承認にあるすれば、このような破綻した主張にも筋が通るわけである。彼らが目指す平等は、現時点で女性の割合が少なく、かつ承認が得られる地位に限られるのであって、女性の割合が高く、かつ承認が得られる地位に関しては、それは女性の「有能さ」を示すものであるとして現状を正当化する。要するに男性優位は差別の結果であり、女性優位は自由競争の結果であるというわけである。ノーベル賞受賞者やアスリートの収入の性比からギャンブル中毒者や犯罪者の性比まで、性別と相関関係にあるあらゆる事象とそれがどのように認識されているかを考慮すれば分かることであるが、ある事象が是正されるべき対象になるかどうかは、それによって女性が承認を得られるかどうかと強く相関する。ジェンダー論者にしてみてもデータの恣意的な解釈や操作、牽強付会な論法もお構いなく、彼らが科学的な仮面を被って自身の信条に都合の良い研究成果をでっち上げるのは、メリトクラティックな社会では科学的であることや、価値中立的であることが最も支配的な評価基準であるからである。彼らの行動規範は、サンデル氏の言うところのエリートに典型的なものである。サンデル氏はハーバード大学で教鞭を執っている自身の経験に基づいて、学生たちがほんのわずかな優位のために苛烈な競争を行うこと、およびその競争に勝ち抜いたことについて大いに自負を持っていることを述べているが、それはエリートの傲慢さと序列的思考に通じるものがある。例えば偏差値やIQという指標は典型的な序列的思考を生み出す装置である。こういった一つの量的基準において対象を格付けする指標は「大は小を兼ねる」ものであるから、より高い数値を出すものはそれより低い数値の全てのものに対して「完全に優れている」とされるのである。これと同じ発想で、彼らは自分たちが問題視するジェンダー格差についてGGIやGEIなど「価値中立的な」指標を作り、それに基づいて世界各国をランキング付けしたりするのだが、それがどれほど恣意的で横暴な試みであるかを認識できずにいられるのは、それほど彼らがメリトクラティックな価値観に馴染んでいるからなのである。フェミニズムの現状がこのようなものであってみれば、明らかに馬鹿げていてまともに取り合うものですらないように思えるにも関わらず、この思想が現代に至って今なお幅を利かせているのは何故だろうか。このような欺瞞がさしあたりは表立って取り上げられずにいるからだろうか。仮にそうであるとしても、それは決して本質的な理由ではない。もし彼らに対して上述したことをあからさまに表明してみても、彼らは自身の欺瞞を認め、自らの信条を撤回したり修正したりすることはないだろう。その理由は思想に筋が通っているからでも、主張内容に説得力があるからでもなく、この思想が女性たちに鬱積し続ける満たされない《承認》への欲求から活力を得続けているからである。「苦しんでいる」という事実をどれほど痛切に訴えてみても、それだけでは苦しみの解釈を正当化しない。だが、「苦しんでいる」という言明が世間の公開性のうちに放たれる場合、共感を呼び起こす言明者の属性的威力の次第によってはその言明に対する人々の共感的没入を引き起こし、たちまちのうちにその現象的背景が蔽われてしまうのである。社会の近代化は、共同体の解体による人々の孤立化や画一的な価値基準の浸透を通して、女性たちから承認の機会を奪っていった。近代社会においては、労働はもはや奴隷に押し付ける苦役でも、生きるために否応なく行われなければならない活動でもなく、他者からの承認を勝ち取るためのほぼ唯一の活動なのである。サンデル氏は現代アメリカにおける社会の分断の要因を、主に白人中低所得者層の労働の尊厳が失われたことに見ているが、近代社会では労働はほとんどの人々にとって承認を得るための唯一の手段であるから、労働による承認が失われることは、そのまま社会承認の喪失を意味するわけである。これらのことによって、フェミニストが自分たちに都合の良い平等しか求めないのはなぜか、という最初にあげた疑問の答えが与えられる。彼らが本当に求めているのは《平等》ではなく《承認》なのであり、その活動はすべて、より多くの承認を得ることにかかっているからである。
 
それにしても、実存研究の関心はもはや「何を言っているか」ではなく、「どうして言っているか」にあるのだから、単に主張が馬鹿げているというだけでは論ずるに値しないということにはならない。実存論的に見れば、誤った主張をすることは正しい主張をすることと同じくらい(あるいはそれ以上に)、積極的な現象なのである。だが、このような欺瞞に対する短絡的で魅惑的な説明は、彼らを「善意や共感を利用する卑劣な人々」と見なしたり、「頭のおかしい人」とレッテルを貼ってしまうことである。ジェンダー論者の欺瞞を批判する人々も、それではなぜこのような欺瞞がまかり通っているかには関心がないようで、単に欺瞞を論理的に批判すれば、後は我々が理性的でありさえすれば事が解決すると思い込んでいるようである。現代人は論理や客観性や価値中立性に対して、それ自体として正義の価値があるように思い込んでいるが、これは正しくない。それらが正義としての価値を帯びるのは、それが現存在のそうあるべきところへ向けての実存的企てのうちに把握される場合であり、むしろそのような実存的企てのうちに把握されさえすれば、どのような主張も正義の価値を帯びるのである。もっともレッテル貼りについては左派側からの右派に対する批判に関しても、彼らを「偏狭な差別主義者」とか、「頑迷な保守層」などと決めつけてしまっている場合は同様である。それにしても、本質的には実存的な問題がその実存性を当の現存在自身によって蔽い隠されているとしたら、政治的な問題が最終的には単なる人格批判に紛糾してしまうのも不思議ではない。内世界的存在者の事物的な在り様だけに着目し、存在者をそのような存在者たらしめているところの実存的存在者の在り様を無視していては、透明性を持った解決は期待できない。アーレントは「悪は陳腐である」と言ったが、これを単に悪に対する批判と捉えていてはそれこそ陳腐な解釈だろう。この言葉の真意は、為されたことだけを見れば我々にとって悪にしか思えないような行為も、それなりにありふれた実存的な根拠を持っているということにある。諸問題の根源を政治的に対立する人々の卑劣な人格に求めたり、相手方の頭の悪さに求めるといったメリトクラティックな説明に満足しないならば、これらの問題を実存的な領域において捉えなければその理由を理解する事ができないだろう。それにしても、メリトクラティックな説明は一見すると大変魅力的であるので、社会問題を真面目に考える人ならばその見かけの威力に溺れないように常に注意しなければならない。一つ例をあげよう。例えば男性へのDVを問題視する人々は、DVが女性の「既得権益」となっていることを批判する。実際に被害件数における性比を調べてみると、男性の被害が稀とは言えないほどに十分に多く、そもそも被害件数が少ないからといって少数派の被害を無視してよい理由にもならない。何なら同じ行為や発言でも発する側の性別が違えば受け手の印象が異なるように、そもそもある行為がDVとして認識されるかどうかについても男女差があることも考えられる。もちろん個別の事例や状況に応じてそのような偏見が実効的であるかの程度の差はあり、実際的な判断においてはそのような偏見に同調しない場合も多いだろうが、この種の偏見は本能的なものであれ社会的なものであれ、たいていは女性を免責する方向に働いている。「サラリーマン川柳」では未だに、気難しい妻のご機嫌取りをする夫がネタにされ続けているが、女性側からのDVやモラハラを「旦那を尻に敷く」とか「気の毒な夫」という表現によってその加害性を透明化するのは、子どもの犯罪行為を「いじめ」と一括りにして矮小化してしまう傾向と似たものがあるにも関わらず、ジェンダー論者に至ってはこのような偏見に批判的であるどころか、むしろそれを強化し大いに利用しているのである。DVの「既得権益化」に貢献しているジェンダー論者はたいてい、「男性はもともと社会的に十分に配慮されているのだから、取り立てて配慮する必要はない」と主張する。この考えはDVの例に限らず、公共施設や避難所といった設備的なところから年金や保険といった制度的な問題に関する議論まで、一貫して見受けられるものである。だがこの主張はそれ自体として嘘であるのみならず、自分自身に対しても嘘をついているのである。彼らは男性への配慮が必要かどうか検討した結果、配慮する必要がないという結論に達したのではなく、それをはじめから自明なことであると決めてかかって配慮の必要性を検討すらしていないのである。なぜ彼らは女性への優遇措置を並べ立てた後に、「しかし我々の女性への配慮が行きすぎた結果として、我々が通常、もともと十分に配慮されていると思っている男性への抑圧につながっていないかどうかも検討する必要がある」という一言すら言えないのか。なぜ様々な「社会の当たり前」を疑う人々が、男性はもともと社会的に十分配慮されているという「当たり前」を疑う事ができないのか。これに関して、その理由をジェンダー論者の「自己批判の不足」、「想像力の欠如」、「頭の悪さ」に求めるメリトクラティックな説明は、彼らを一気に断罪することにおいて大変魅力的である。だがこのような欺瞞が犯される理由は、ジェンダー論者が知的な問題から自己批判の能力が欠けているからではなく、彼らの取り組む諸問題がはじめから彼らの企てに即した様相をもって現れるからである。ここで「認識できない」というのは能力の欠如ではなく、実存的企ての違いとして捉えられなければならない。事象が現存在の企てに即してどのように現象するかは政治的な問題ではなく実存的な問題であって、ここでも結局、問題の境位を実存に置かなければ適切に処理する事ができないのである。もし我々が現代の諸問題をその実存的意義に基づいて適切な領域のうちに捉えることができるならば、ジェンダーをめぐる問題がどれほど深刻なものであると同時に、それが現代に至ってもどれほど誤って解釈されているかが分かるだろう。近年になって「ジェンダーレス」などという概念がもてはやされ始めたのも、人々が性的対立の深刻さを自覚し始めたからであり、不都合な事実を見て見ぬふりをする世間的な隠蔽の試みの一つにすぎない。学術的な話題の中でも性差を個人差や文化的差異とごちゃ混ぜにしてごまかすようなことがあるが、その場合でも人々はこの議論の欺瞞的な性格を自覚しており、誰かがこの欺瞞的性格を表立って指摘してしまうような「タブー」を犯さないか冷や冷やしているのである。さらにはこの「ジェンダー」という語自体も、実際は女性にしか関心のない人々が表面的な価値中立を装うために用いられているのである。例えば彼らがジェンダー格差の文脈で「女性の生きづらさ」を語るとき、「格差」を示したいならば男性の生きづらさと対照させなければ意味がないにも関わらず、女性の生きづらさだけを列挙すれば十分であると考えているのも、もちろん彼らの知的能力に問題があるわけではなくて、結局はこのような問題が社会問題ではなく、本当は実存問題であると考えなければ理解することができないのである。それ以外のどのような方法でも、欺瞞的で卑怯な取り組みであることを自分自身に対しても隠蔽しながら、それに大真面目に取り組むことができるという矛盾を説明することはできないだろう。
 
現代のLGBTに関する運動も政治的な問題ではなく、本当は実存の問題である。同性婚を求める人は、決して結婚に付随する経済的なメリットや同棲生活上の利便だけを求めているわけではない。彼らが本当に求めているのは社会的な《承認》であって、それは現代における結婚という制度の社会的意義を考えれば、同性婚の認可を通じてはじめて実現されるものなのである。トイレや銭湯にまつわる問題も同様であって、普通に考えてみれば他者が誰であるかなんていちいち気にしないし、当事者の自意識過剰ではないかと思われるかもしれない。だがこの問題も、我々がある公共施設の出入りを通じて自分のある属性についての社会的な承認を得ているのだとすれば、その承認を得られないことが当事者にとっていかに屈辱的であり、人としての尊厳にかかわるものであるかが分かるだろう。それは何も特殊な公共施設の出入りに限ったことではない。彼らは日常生活のあらゆる場面において、世間が見る自分と本当の自分との葛藤に苦しんでおり、自分は世間から疎外されていると感じているのである。彼らに対し「別に好きに生きてていいけど、いちいちカミングアウトしなくていいから」というのは、一方では彼らの厚かましさに対する中立的な反応ではあるけれども、多くの人々が日々当たり前のように享受している承認の機会を奪われている彼らにとってみれば、社会からの無関心は自分たちの存在の否定と受け取らざるを得ない。それでも表向きはリベラルな思想を掲げて社会からの承認を得ようとしていたわけだから、リベラルな論理に従えば無関心でいる意志も尊重しなければならないにも関わらず、彼らは自分たちが掲げてきた表向きは中立な理念を捻じ曲げてでも《承認》を勝ち取るために邁進していかなければならないのである。ここでもまた、実存的な問題は政治思想という表面的な問題にすり替わっているわけである。
 
 

現代における実存問題の総括

 
以上見てきたように、現存在はさしあたり世界の側から自己の在り様を解釈する傾向を持つため、本当は自分自身について語ろうとする際にも、たいていは世界の内にある存在者を通じて語られるのである。現代の政治活動家たちは、彼らの携わる問題が本来実存上の問題である場合においても、それを単に世界の側の問題として解釈している。それゆえ他者にも自分自身に対しても隠蔽されているところの真の目的である《承認》が得られない限り、彼らは新たな差別や偏見を「発明」し続けなければならないだろうし、逆に《承認》が得られさえすれば、彼らはもはや今まで携わってきたところの差別や偏見をもはやそれと認識しなくなるのである。その精神構造は、絶えず自分の顔の〈醜さ〉を発見しようとする整形依存者のそれに似ている。彼らの本当に欲しているものは自己承認であるが、その実存的な意義は当の本人にも隠されている。これは単に認識されていないというのではなく、そこに真理があると分かっていながらそれを認めることの恐ろしさのために、自覚的にあるいは無意識に隠蔽するということも含む。そのために彼らは、それが本当は心の問題であることを「頑なに」否定するのであり、そして自己承認の不足の原因を自分の外貌に求め、それを矯正しさえすれば目的が達せられると錯覚するのである。しかし、それならば素直に「承認が欲しい」と言えばよさそうなものだが、と思う人もいるかも知れない。だがそう言えないのにも理由があるのである。確かに彼らは自分たちが実際に主張していることが、自分たちが本当に望んでいるものに的中していないことを自覚している。そしてその不一致を公にしないことの欺瞞性を自覚してもいる。だが彼らに何が本当に望んでいるものかを問うたところで、彼ら自身もそれをどう表現すればいいのか分からないのである。《承認》というのは純粋に実存論的な概念である。内世界的存在者の了解と分節に即した言語しか持ち合わせていない我々には、実存現象を適切に表現するための言葉も文法も欠けているのである。表現したいという痛切な欲求があるのに、それをどうしても発露することができないことへのもどかしさが、活動家たちに焦燥感や暴力的衝動をもたらすのであって、このことは活動家たちだけの非に帰せられるものではないだろう。活動家たちが「生きづらさ」を抱えざるを得ないのは、彼らが本当に表現したいものを表現するための手段が欠けているからなのである。
 
《承認》は純粋に実存論的概念であると言ったが、これは他者に承認された自己存在(対他存在)において自己を投企することであるから、本質的には《自己承認》と同義であって、そこにおいて「対他=対自」という理想が目指されているのである。そのため、自己承認のためには必ずしも実際の他者の承認を必要としないということもありうる。だがこれは例外であって、それは〈自惚れ〉という不安定な自己解意の場合であるか、あるいは(実存的にも可能であるとすれば)本来的な現存在にのみ可能な実存様相である。ところでサンデル氏は問題を実存的な領域に移しただけであって、それはまだ実存論的な基礎づけを与えられているわけではない。日常的な現存在自身にとって、日常的現存在の承認をめぐるこのようなありかたは「心の問題を世界のせいにしている」と解釈され、サンデル氏も「敗者」に同情を示しつつもこのような論調で物事を語っている節があるが、これは実存論的に十分な理解であるとは言えない。現存在は内世界的存在者から事物性や因果律を了解し、その諸構造を実存的存在者の存在様相に対しても適用する。観念は「精神的事物」と見なされ、精神には精神に固有の因果律が存在すると考える。こうして世界のあらゆる事物と自然法則との関係に全く対応する形で、〈精神世界〉というようなものが出来上がる。我々はできるだけ、人々の行動を動機とか、目的とか、意図とかに沿って解釈しようとするが、これは通俗的な実存解釈の代表的なものである。ここで動機とか目的と言われているものが自然法則に対応し、観念の法則とそれに応じた人々の行動を規定する。観念は親和性の高いもの同士が隣接して体系づけられ、例えば「勉強しろと言われたので、勉強した」という一連の解釈が出来上がる(「勉強しろと言われたので、勉強しなかった」というのが同様に成り立ち、別に場合にはこちらが動機として採用されるにも関わらずである)。動機にもとづいた実存解釈は一見強固で、人々の行動をうまく説明するように思われるが、実はその観念の組み合わせは魔術的であって、どのように観念を組み合わせてももっともらしくそれに対応した動機を与えることができるのである。実存現象のこのような理解は既に与えられたものに対しての後付けの解釈であり、つまり日常的な現存在は実存的存在者をその過去において把握するのであるが、それが未規定な存在可能を予め規定してしまうという矛盾を含んでいるにも関わらず実際にかなりの説得力を持っているのは、本来は「おのれのあるところのものであらぬ」現存在が、「おのれのあるべきところのもの」である対他的なありかたのうちに実存という本質的なありかたを忘却しているからである。それは日常的な現存在同士の関わり合いに関するかぎりでは、極めて実効的な解釈なのである。我々がある人の思考と行動を体系づけるのに役立つ〈性格〉という概念は日常的な現存在に特有なものであって、本来的な現存在にあっては〈性格〉は存在しない。そもそも性格が日常的現存在にとっては根源的な動機づけのきっかけのように見えるのも、一方で何か強烈な精神的体験のために性格が変わるということがありうるのも、〈性格〉という実存的には根源的な自己投企がさらに実存論的な根源を持っていることに由来する。通俗的な精神構造の解釈について言えば、例えば人々は客観的には全く親和性のない諸観念の結びつきに対して、それを妄想と言ったり、甚だしい場合は精神病の兆候と見なしたりする場合がある。しかし諸観念は元来お互いに親和的な属性によって体系づけられていて、精神的なストレスなどの外的な要因によってその結びつきがあべこべになって魔術的様相を帯びるのではなく、観念はもともと魔術的なものなのである。そしてそれが魔術的なものに映るのも、我々が本来は実存範疇に含まれるべき概念を客体的存在のカテゴリーに即して考えるからなのである。心の問題か、さもなくば環境の問題かという二項対立や、日常的には自明なこととされる《主観》と《客観》という認識論の基本カテゴリーでさえ実存範疇の概念に適用できるかは極めて疑わしい。現存在ははじめに精神的実体として存在して、その後に外部世界との交渉を持つのではない。現存在はもともと世界=内=存在であるから、常に世界との関わりの内において捉えなければその存在論的な全体像において理解することができないのである。日常的な現存在は《承認》を根源的な投企として自己投企し、それに即して世界を、また自己自身を解意する。承認されるということは、「それのあらぬところのものであり、それであるところのものであらぬ」《対自》と、「それがあるべきところのものである」《対他》との一致の理想であり、この「対自=対他」という企ては、存在論的に矛盾した実現不可能な企てであると同時に、我々のあらゆる企てを導くところの対自の存在-取り戻しの根源的な試みなのである。もちろん、日常的な現存在がこのようなありかたで実存しているならば、本来的な現存在に固有の実存的様相もあるわけである。だが本来的な現存在がいかなるありかたを取るかについては、それは各々に固有で特異な実存的様相であるために、そこから共通した実際的な実存を演繹することは難しいように思われる。だが、このような実存論的構造がすべての人間に普遍的であることを認めるならば、そこから共通の社会的意義を引き出すことができる。例えば、《承認》が人が人としてあるための根源的な条件であるならば、人が人であるかぎり保持しているはずの基本的人権は、この根源的条件によって基礎付けられて規定されるべきだろう。しかしこれはもはや、〈人が生まれながらにして持っている固有の権利〉ではない。他者からの承認は初めから無条件に我々に与えられているわけではない。我々は生まれながらには承認を奪われた状態なのであり、それは生きていく中で他者から与えられたり、与えさせたり、あるいは勝ち取らなければならないものなのである。それは人が自己を取り戻すための終わりなき戦いである。通俗的な人権観は権利を客観的に存在する〈もの〉の如く考えるから、奪われたのであれば当然それを奪ったものが存在するはずだと考えざるを得ない。なるほど、他者は私が取り戻すべき〈私〉を持っていて、私は他者からの承認を通じてこの〈私〉を取り戻さなければならない。であるならば、〈私〉を奪ったのは他者である、と考えてしまうのも無理はない(「他者」とは、文字通り個々の人を指す場合もあるが、たいていは社会であったり、国家であったり、あるいは実存論的には根源的な他者である「異性」であったりする)。もちろん、考えるといっても認識論的な意味ではなくて、主張のロジックを組み立てるための動機づけを可能にする関心の方向がそちらへ向いているという意味である。しかし、もともと我々は自己を奪われて生まれてくるのであり(自己が「無い」状態で生まれてくるのではない、この区別は重要である)、生きていく中である種の人々は幾分か自己を取り戻し、別の人々はそうではないのだとすれば、近代的な法体系を支えるこのような人権観は実存論的には倒錯しており、それは現象そのもののありかたに合致しない迷信でしかないのである。以上、ここまで述べたことは現存在の日常的な存在様相を実存的なありかたの内に示すわずかな一例に過ぎない。だが、とりとめも無い日常生活の一端も、現代社会における重大な問題も、その根源が《承認》を巡る実存的状況にあることを示すことは、実存をめぐる問題が現代においてもその重要性を全く失わずにいることを認識し、および現代の諸問題に対して本質的な解決の方針を与えるためにも必要なことであると思われる。
 
 

 

 

 

 
 
 

 

 

『存在と時間』を未完に終わらせた原因について

 

 

はじめに触れたように、『存在と時間』はもともと以下のような構成を想定され、このうち第一部第二編までが実際に刊行された部分である。

 

第一部 時間性に向けた現存在の解釈、ならびに存在への問いの超越論的地平としての時間の解明

 

第一篇 現存在の準備的な基礎分析

第二篇 現存在と時間性

第三篇 時間と存在

 

第二部 時間性の問題を手引きとした存在論の歴史の現象学的破壊の基本的諸相

 

第一篇 時間性の問題の前段階としての図式と時間についてのカントの教説

第二篇 デカルトの《我思う》の存在論的基礎と〈res cogitans〉(認識する存在者)に関する問題圏への中世存在論の継承

第三篇 古代存在論の現象的基盤と限界の基準としてのアリストテレスの時間論

 

未完に終わった部分について、第一部第三編では既刊部分の内容である「存在から時間」への過程を転換し、「時間から存在」への反復が行われる予定であった。第二部では哲学史上の主要な結節点における現象学的解釈を通じて、哲学史の現象学的破壊が行われる予定であった。その内容については全く手がかりがないわけではなく、例えば序論第六節で簡単に記されているほか、同時代の講義や『存在と時間』以降の著作(カントについての議論は1927/28年冬学期講義『カントの純粋理性批判の現象学的解釈』、および1929年刊行の『カントと形而上学の問題』、デカルトについてはその簡単な内容が、論文『時間の概念』の第IV節で示されているほか、アリストテレスの時間論は1927年夏学期講義『現象学の根本的諸問題』の第一九節で取り上げられている)から窺い知ることができる。記述内容の連続と非連続に着目して『存在と時間』とこれらの著作を比較すれば、未完部分で述べられるはずだった内容を大体は復元することができるだろう(もっとも『存在と時間』自体が一貫して体系だった書物ではないので、この作業は言うほど簡単なものではないが)。それではなぜ『存在と時間』は未完に終わったのか。『ハイデガー「存在と時間」入門』(轟孝夫)によれば、一つには、現存在の諸現象を従来の形而上学的な言葉で語ることの困難さによるのだという。全て従来の形而上学的な用語は、現存在をその本来的なありかたに即して案出されたものではないから、その指示するところは実存的な内容を適切に表現していない。概して言えば、それらは通俗的な知性に即して、実存的な存在者を実在的な存在者として取り扱っているのだ。それゆえ、ハイデッガーが実存的存在者を実存論的に十全なしかたで記述するためには、それとは異なるアプローチをとらなければならなかった。後期ハイデッガーの思想が神秘的、魔術的と評されるのも、伝統的な哲学の歩みに沿って現存在を把握することを断念したハイデッガーの語りからは、我々が親しんできた伝統的な哲学の響きが感じられないからであろう。もう一つには、現存在の分析論において、現存在の個別的性格を強調しすぎてしまった点があるのだという。本書においてもハイデッガーは既に、現存在が本質的に世界の内にある存在者であり(世界=内=存在)、本質的に他者と共にある存在者である(共同存在)というだけでなく、それがいかなる《存在》であるのかについては、空間的には《世界が明るみにされる場》とか、《存在者が存在するための存在論的条件》と表現し、時間的には《おのれ自身に対して臨む存在者》として、現存在の脱自的性格を表現し、現存在が個別性を持った単なる自立的存在ではないこと、現存在が《ひろがりを持った存在者》であることを主張している。現存在は自己の存在のうちに存在空白を持っており、自己であるということのうちに自己自身であらぬ存在である。その脱自的性格のために現存在の存在は世界とおのれを絶えず超越し(投企)、その超越によって実在的存在者をそれ自体そのようなもの《として》現象させるのである。一方で、現存在ははじめから「その存在のおいておのれ自身に関わらせられている存在」として、現存在の個別的性格が明瞭に規定されている。さらに本来性と非本来性の存在様相についての記述では、表現上の理由からそれが日常的な現存在の記述に即したものでなければならない制約があったためだろうか、現存在の個別的性格を強調しすぎた嫌いがあることも否定できない。《関心》としての現存在の根本的構成と、その脱自的展開態の表現である《世界=内=存在》を時間性のうちに解釈する部分では、現存在の脱自的統一態を「自己」と表現しているが、存在的な理解によって「汚染された」実存的概念を用いることはハイデッガーにとっても気がかりなことであっただろう。そこには通俗的な表現を用いることによって実存論的な真意が蔽われてしまうことと、思想の言語的表現という投企をする以上はその表現に公開的性格を持たせなければならないこととの葛藤がある。これは現存在のあり方を記述することに付随する原理的な困難さに由来するものであるとすれば、それ自体は致し方ないにしても、未完部分で述べられるはずであった現存在の存在論が、既刊部分である現存在の準備的基礎分析を全面的に無効にすることを前提とするならば、本書は一貫性を著しく損なうことになるだろう。現存在の存在論に至るためにはその準備的基礎分析を必要とするが、その存在論の内容自体は準備的基礎分析を全面的に無効にするものである。『存在と時間』が未完に終わった理由の一つとして、このようなパラドキシカルな循環が背景にあったのではないかと思われる。

 

 

ハイデッガーの実存概念とサルトルのそれとの比較、および唯識思想との共通点

 

 

サルトルはハイデッガーのいう客体的存在と現存在をヘーゲルの用語を借りて即自と対自として捉え直し、対自を即自の存在充実からの脱落として規定した。このように「存在減圧」された対自はおのれ自身の存在を取り戻そうとするが、それは取り戻すところの存在(意識)と取り戻されるところの存在(意識されるもの)の誕生に他ならない。この対自の「存在-取り戻し」の営みこそが、我々が意識と呼ぶところのものであり、それは即自への志向的な働きから、「反省」という内面的な働き(反省するものと反省されるものが同一である場合。自己の自己自身からの分離であり、この同一項の分離即統一および統一即分離の関係「S=S」は、「自己意識」と呼ばれる)まで、すべての意識現象を統一的に表現する。だが、サルトルの理論をハイデッガーの現存在分析にそのまま接続することはできない。承知のように、サルトルはハイデッガーが『存在と時間』において仮設するにすぎなかった現存在の個体性をアプリオリな原理として認め、ついには人間存在の絶対的自由を提唱する。現存在を「存在欠如」として捉え直すサルトルの実存論は、客体的存在と現存在という二つの存在者を同一の存在境位において捉えるとともに、現存在の意識活動を「存在欲求」として解釈する分析もそれなりに一貫しており、その点では特に咎められるべき箇所はない。一方で、個体性が現存在のアプリオリな存在論的構造であるかについては疑問が残る。確かに現存在は自己を個体的な存在として把握するが、このことは「現存在にとっては自己自身が個体的な存在として現象する」ということを意味するだけであり、むしろそのような自己認識自体が現存在の非本来的な自己解意に根ざしているかもしれないからである。

 

ハイデッガーはただ単に存在するという客体的存在者のありかたに対して、実存的存在者のありかたを《存在の無》として規定した。この規定のしかたは誤りではないものの、実存の動的な性格を十分に表現できていない。サルトルはこれに対して《それがあらぬところのものであり、それがあるところのものであらぬ》と、より適切な表現を与えた。ハイデッガーは『存在と時間』において客体的存在者と実存的存在者との存在論的相違を強調したが、両者がともに《存在》であるのはなぜかという存在論的統一の問題は未解決のままであった。これら二つの存在者を即自と対自として捉え直したサルトルは、対自を即自の《存在欠如》と解釈することによって、この二つの存在者の存在論的統一を図った。これにより諸々の存在者の存在様相の可能性と限界が画限され、過去や未来、感覚や思考といった実存的概念すら適切なしかたで、便宜的に即自的存在として扱うことができるようになり、存在の根源への見通しが良くなったことは確かである。一方でハイデッガーはその後、現存在がそこにおいて世界内存在者の総体が現れる《場》としての側面を重視し、その観点から自身の思想を深化させていくこととなる。それは表現の上にも現れており、例えば、現存在や対象化といった、主観と客観の対立という構図を想起させるような表現は次第に控えられ、現に-あること、存在者を照らす明るみなどの用語を使って、極力、現存在が一つの主体である存在者であることを意識させないようにしている。サルトルが基礎的存在論の構築を念頭に置いて研究を続けようとしたのに対し、ハイデッガーはそのような理論的な企てを行わず、存在の現れを率直に捉えようとする方向へ思索がシフトしていったようである。後期ハイデッガーの著作が哲学的というより詩的な響きを感じさせるのは、このことが原因だろう。先に述べたように、ハイデッガーが『存在と時間』の後編の執筆を断念したのも、前編で確立されていた現存在の存在様相、すなわち実存する一つの「存在者」であるという規定が、すでに修正不可能になっていたからである。

 

ところでハイデッガーの思想の遍歴は、我が国の精神性の一端を担う仏教哲学との親和性があるように思われることも以前から指摘されてきた。ハイデッガーは『存在と時間』で、現存在の最も基本的な存在論的構造として《関心》を捉え、現存在に対して現れる内世界的存在者の道具的連関という存在様相を指摘し、またこのような存在論的構造を持つ現存在は、さしあたり《頽落》という非本来的なありかたをとっていると述べる。その後の研究活動は、時間性に関連した現存在の存在論的探究を主としており、晩年は思索の深化を経て、一度は実存的存在者と規定した現存在の主体性を否定するに至った。一方で、例えば仏教哲学の一派である唯識学派は、意識の迷いへの傾向を遍計所執(「もの」への執着)、および我執(「自己」への執着)と捉え、「迷いの世界」として現れるこの世界を「縁起」という存在様相のもとへ解釈した。この思想は最終的に「色即是空、空即是色」という有名な言葉に集約されるのであるが、この句は世界と自己の一切の《存在性》を昇華させるに至った悟りの境地から出たものであろう。これをハイデッガーの思想遍歴に対応づけてみると、『存在と時間』では「迷いの世界」の現れとしての遍計所執の解明、その後の思索は我執の解明を主とし、晩年は「自己」という主体の消滅という宗教的境地に至ったとみることができる。もちろんこういった対応づけは皮相的で誤解を招きやすいものであるが、暫定的な全体像把握のための下書きとして見れば、多少の価値はあるだろう。

 

「執」という言葉には、サルトルがいうところの「ねばねばしたもの」の響きがこもっている点も注目に値する。もしサルトルが内世界的存在者を、あくまで主体としての〈意識〉の側から把握しようとしたならば、『嘔吐』で見出した《存在そのもの》を「どす黒く、ぶよぶよした」かたまりと表現したのももっともなことである。意識は意識であるかぎり、《…へ向かって》という存在様相としてあるが、これは結局、「執」を言い換えたものにすぎない。意識はそれが向かうところの「もの」に執し、また同時的に、そのように執するところの「自己」に執する。しかし、「執」という働き自体は意識にとって即自的に現れる以上、即自的なものの本性であるその惰性的な退屈さ、および意識が意識であるかぎりこの関係から逃れられないということにおいて、意識にとってそれは対自に対する即自の侵食として、意識を背後から捉えようとする「鳥黐」として把握される。どす黒く、ぶよぶよした《存在そのもの》は隙間なく対自を取り囲み、対自はその存在の重みによって窒息するわけであるが、こういうことになるのも、対自が自己への「執」を断ち切れないためである。もしサルトルが自らに定めた実存至上的な道を歩まず、ハイデッガーのように実存論を存在論のうちに含まれる課題の一つとして捉えていたならば、実存することを「自由という牢獄」とか「自由という刑に処せられている」などというように、苦に満ちた存在重圧として捉えることもなかったかも知れない。

 

 

哲学史におけるハイデッガーの実存哲学の意義

 

 

ここまで見てきたように、ハイデッガーの実存哲学の方向性は伝統的な哲学のアプローチのしかたとは大きく異なっており、それは一言で言えば、伝統的な哲学における理性偏重へのアンチテーゼであると言えるだろう。ニーチェは『善悪の彼岸』の冒頭で、次のように言っている。「真理が女である、と仮定すれば…、どうであろうか。これまでの哲学者は、女たちを理解するために非常に拙いやり方を行なってきたのではないか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか」と。「真理」という概念は伝統的に、客観的であり、普遍的であり、不変的なものでなければならなかった。つまりそれは、誰にとっても手に取れるものであり、また万人が認めるところのものであり、時代に関わらない永続的なものである。真理がこのようなものであれば、そのありかは理性に求められ、中世においては推論の合理性に、また現代においては科学に求められる。しかしこのような真理の概念が徹頭徹尾、客体的存在者のありかたから汲み取られ、実存という存在のもう一つの様相について全く顧みられることがなかったのは、ハイデッガーが述べた通りである。「ある存在者を客体的存在として受け取るためには、内=存在と言う実存論的構成に対してまったく盲目である必要がある」(本文より)のである。しかもこの実存という存在こそが、我々がふつう存在とみなすところの客体的存在者の存在様相を規定しているとなれば、存在をめぐる問いは初めから致命的な間違いを犯していたことになる。だが、ハイデッガーによればそれは決して偶然ではなく、現存在の存在論的構造からいって全く当然の間違いなのである。存在の問いへの序章で「存在的に最も自明でありふれたものは、存在論的には最も暗がりに包まれている」と言ったように、存在論的な問題を考究することは、問題解決にあたって我々が通常親しんでいるような理性的態度とは異なった態度を要求する。ハイデッガーが現象学的方法と呼ぶその独特な態度は、「事象そのものへ」という格言によって端的に表される。これによってハイデッガーは、実存的存在者が現=存在であること、その存在論的構成が世界=内=存在であること、その現の現れが《関心》にもとづいていること、そしてその意味が《時間性》であることを見出した。これは実存哲学の顕著な功績である。論理に内在する自己否定の運動を見出したヘーゲルは「本質とは、それのあったところのものである」と言った。「実存は本質に先立つ」というサルトルの有名な格言がある。これらは時間性の観点から、「現存在は実存的存在者である」、「時間性は第一義的に将来から時熟する」というハイデッガーのテーゼに集約される。現存在は頽落のうちにあって内世界的存在者を現持し、その本質把握は過去にさかのぼって(把持的=現持として)行われる。ある存在者の本質を問うことは、その存在者が《何であったか》を問うことである。由来や根拠へ向かってさかのぼることが、その存在者をそのもの足らしめているものを明かすのである。一方、現存在の存在は何よりもまず実存であり、それはもとから将来的な存在者であることを意味する。現存在の「本質」は、本質というものを欠いた未規定性であり、純粋な実存の可能性である。それゆえ、現存在に対して《何であったか》と問うことは存在論的に不適切である。にもかかわらず、日常的な現存在はさしあたり世界の側から自己のありかたを解釈するから、自分自身に対しても、また他者に対しても、彼らが何を為してきたか、あるいは何に携わっているかという観点から了解せざるを得ないのである。こうして、客体的存在と実存的存在、および現存在の本来性と非本来性の存在論的区別が、《時間性》にもとづいて説明されたのである。しかし後にハイデッガー自身が述べるように、『存在と時間』は「道」であって、「作品」ではない。執筆過程を見てもわかるように、『存在と時間』はハイデッガーの思索が急速に形成され発展する過渡期において書かれた、暫定的な書物であるに過ぎない。本書は一見、存在論に新たな地平を切り開く一貫した体系を持った厳密な哲学書の様に思えるが、内容をよく読めば分かるように、そこにはいくつかの場当たり的な「転調」がある。とりわけ共同存在としての現存在、現存在の頽落、死への先駆などを述べる箇所がそれであり、そこでは思弁的な透徹した記述というよりも、何やら熱量のこもった大衆批判、現存在の自己逃避への批判めいた記述が目につくのである。本書ではこのように、存在にまつわる純哲学的で透徹した思索と現存在の日常的なありかたに対する啓蒙的な批判が同居しているのであるが、それというのも、まさに本書がハイデッガー哲学の二つの源流、すなわち時間性にもとづけられた存在現象の解釈とキリスト教の教義学を、無理やり一つの書物にまとめ上げようとする試みのうちに書かれたからである。後編の執筆が断念されたことからも分かるように、結局この試みは頓挫することになるのだが、存在現象を理性的なものを媒介せずにそれ自体においてとらえようというハイデッガーの意図は、本書でも十分に達成されている。「それ自体」という言葉は通常、その事物の客観的な様態を指す表現であり、それを捉えるということは、表象的にせよ理論的にせよ、その事物をその存在だけにおいて明晰に把握することだとされている。だがハイデッガーは、このような認識優位な存在了解の考え方を否定する。従来の哲学においては、感情とか感覚といった感性的要素は特殊な存在者の特殊な様態を構成するにすぎず、対象そのものの真理的なありかたを歪めるものとされていたが、ハイデッガーによれば、ものの「自体存在」というものは、我々が何らかの《気分》のうちにそのものを了解する場面において既に開示されているのであって、あらゆる感性的なものを取り去った果てに《物自体》が浮かび上がるなどというものではない。《気分》は単一の原因に由来する単純な現象ではなく、我々がこれを説明しようとする際はたいてい、その全体的な気分を構成する多様な要素を一つ一つ列挙して、それを合成して当の気分を構成しようとする。だが、全体としての気分は、個々の要素に分解できるものでもなければ、個々の要素を組み合わせれば一つの気分を合成できるものでもない。我々が自身の心的状態を常に「のっぺりと」感じているように、それが存在的に複数の原因に由来する場合であっても、気分は常に「一つの全体」であって、決して複数の気分が同居してどっちつかずの気分を構成しているなどというのではない。さらにまた、存在的に当の気分の原因を探求しようとすれば、我々はどうしても心的状態に影響を及ぼす諸観念同士の魔術的な繋がりを認めざるを得ないが、それも気分というものが客体的現象ではなく、実存的な現象であるからなのである。客観性や科学性といった公開的かつ普遍的な地盤のうちに、客体的なものとの関わりにおいてこれほど決定的な権能を持つ《認識》が、実存現象に対してこれほど無力なのはなぜであろうか。それは感性的なものに振り回され、理性に一致することのできない実存的存在者の「弱さ」によるのであろうか。むしろ我々がもともと感性的存在者であるゆえに、理性的存在者でもあることが可能なのではないか。現代における科学技術の目覚ましい発展、物質的豊かさの鮮やかな便利さ、その反転としての「心の豊かさ」なるものへの問い、内世界的存在者を基準にした新たな現存在の自己解釈の理論などは、徐々に開かれつつあった実存への道筋を再び覆い隠したように思われる。だが19世紀から20世紀において開拓された実存への洞察、およびその代表としてのハイデッガーの哲学は、再び人々が実存のありかたへ視を向けたとき、その歩みを手助けするための大きな道標となるだろう。

 

 

 

時間性と時間感覚について

 

 

現存在の基本的構成は《関心》であり、それは世界=内=存在という分節を脱自的に展開し、その脱自的統一態は時間性として明らかにされた。それではなぜ現存在の存在論的構成は、世界に対してかくも実践的な適合性を備えているのだろうか。進化論的プラグマティズムによる説明はこれに一つの解答を与える。すなわち、現存在の世界に対する関わりにおいては、一つの世界のありかたに対して原理的に無限の存在了解を対応づけることができるが、そのなかでもより進化論的な有用性を持つような存在了解のしかたへ選択的に進化したと考えられるわけである。実際、我々の諸感覚は世界のありかたや諸変化に対してうまく適合していることは確かであるけれども、それは完全ではない。それは、いくつかの日常的でない状況において、我々が世界内の対象をどのように把握するかを考えれば分かることだろう。例えば三次元視野は二次元的情報をもとに三次元的に復元したものであるから、特殊な状況において錯視を生み出す。それは水中の物体の位置や大きさを、空気中においた場合と同じように判定できないという、光学的的な理由に基づくものもあれば、同じ大きさでも奥にある方はより大きく把捉されるという経験的錯覚の場合もある。相対性理論を考慮しなければならないような極端な状況では、我々の持つ通常の幾何学的、時間感覚が原理的には通用しないが、それは我々が地球上で何十億年もの間、現在と同じような物理学的環境で進化し続けたためであり、そのような状況に由来する淘汰圧がかからなかったためである。

 

時間の経過と時間感覚の関係について、例えばジャネーの法則は、長期的かつ主観的に見た時間の過ぎ去る速さは、これまで経験された世界時間の量に反比例するという簡潔な式を与える。もっとも、歳を重ねるにつれて時の流れが早く感じるという大まかな逆相関の関係は認めるにしても、それが厳密に反比例の関係を示すかは疑わしいものである。ジャネーの法則はその根拠として、世界の新鮮さや身の回りの環境の変化という要素を挙げるが、それらの根拠は世界時間と時間感覚の逆相関の根拠とはなるものの、それが反比例の関係であることについては、むしろ否定するものであるように思われる。もし時間の経過と時間感覚の関係が単に逆相関ではなく、反比例の関係にあると主張するならば、経験や記憶といった精神的要因ではなく、客観的時間の流れと対応するような生理学的要因ー例えば時計遺伝子の活動やセロトニン、メラトニンといった時間に依存するホルモン濃度の履歴などーも考慮に入れなければならず、最終的にはそれを根拠にしてのみ説明可能であるように思われる。だが、時間感覚を物理化学的要因に還元しようという試みが成功する保証はない。まず、それは記憶の量に対応するものではあり得ないだろう。睡眠や気絶状態によって、ある期間の記憶が存在しない場合でも、意識が戻った後にはその期間に概ね相関した時間感覚が存在する。また、ある期間中に大量の物事を記憶したり、多くのことがらを経験したからといって、その期間の時間感覚がそれだけ充実しているというわけでもない。そもそも、これらの例はすべて過去の出来事に対する時間感覚を問題にしているが、それは現在的な時間感覚とどのように対応するのだろうか。現在的な時間感覚は、普通そう思われているように、果たして一定なのだろうか。時間感覚の問題は『存在と時間』ではまったく取り上げられていないが、時間感覚が時間性に由来する内的必然的な感覚として導き出すことができれば、それは現象学の領域をさらに開拓することになるだろう。そうでなければ、時間感覚が《あれ》でもなく《これ》でもなく、《この》時間感覚である理由は、やはり有用性の観点から説明されるのだろうか。例えば時間の分解能(相次いで生じる二つの光学刺激を区別して認識できる最小の時間)と時間感覚に相関を認めることができれば、時間感覚の問題も生物学の領域に含まれることの一つの証拠となるだろう。

 

 

意識の脱自的構造と時間の時間性

 

 

サルトルは『存在と無』で、ハイデッガーのいう客体的存在を即自として、また実在的存在を対自として捉え直し、さらに即自を「存在充実」、対自を「存在欠如」と解釈することによって二様の存在者の存在論的統一を図った。それによると、意識は《いま》というある一点で全く満ちて存在するのではなく、過去、現在、未来という時間的拡がりを持って存在している。もっと正確に言えば、この意識の存在論的脱自構造が過去、現在、未来という時間の異なる三つの次元を構成するのである。この時間的な拡がりを持った存在者は、《いま》において充実した存在性を欠いていて、すなわち即自性を欠いた存在者であって、ある種の存在空白として存在する。そしてこの存在者は《いま》において、この存在者がそれであるべきところへ向かって自己を投企する。また同時に、この存在者がそれであるところのものであるかぎりにおいて、この存在者はおのれの即自性としての過去を背負う。我々が《いま》に存在するときには常に、未来のうちに自己を見ている。いっそう正確に言えば、未来のうちに既に存在しているというべきだろう。なぜなら、我々が《いま》に存在することは、我々が我々自身をおのれがそれであるべきところの存在であると了解するのと同時的だからである。私が腕を動かそうと思った時にはすでに腕は動いているように、意思と行動は同時的である。これは例えば、何か頭の中で想像すること場合を考えてみればより分かるだろう。我々は何かを想像したいと思ってから想像するのではなく、想像しようと意思することと想像することは同じことである。それでは、《いま》と未来が時間的に隔たっているのはなぜだろうか。もし時間を我々にとって超越的な客体的存在者と考えるならば、このような問いを立てること自体が不毛である。時間の存在構造の意味をどのように問うたところで、「時間とはそのようなものだから」という答えしか見つからないだろう。だが、時間の実在性を証明することが可能だろうか。そもそも、「実在性」とは科学的には一体、何を意味するのだろうか。通俗的な時間解釈にもとづいた説明として、物理量の基本単位が実在的な量であるとするものがある。これはある単位次元が他の単位次元を使って構成することができない場合に、それを実在的な量とみなすものであって、例えば質量[g]は時間や線分などから構成することができないから実在的な量であるが、力[F]は質量と時間と線分から[g・m/s^2]として構成することができるから、人為的な量であると説明する。だが、物理量の単純さが実在性に対応している根拠が示されないかぎり、この説明では問題は全く解決していない。例えば、もし力を実在的な量とみなせば、今度は質量が力と時間と線分から構成される人為的な量ということになる。また、空間は線分の三次元で構成されるから、空間は人為的な量ということにもなるが、これは我々の直観に反するように思われる。我々の直観などどうでもよいと思われるかもしれないが、そもそもこの説明が我々の実在に対する素朴な直観に訴えたものなのだから、この矛盾を放置することはできないだろう。要するに、物理量の単位体系は相互に規定し合う大きな循環を描いているのだから、その体系を再現しうるかぎり、理論上はそのどれを基本単位として扱っても構わないことになる。よって単位次元の独立性から実在性を導こうとする試みは成立しない。物理学は時間の実在性を導くのではなく、むしろ時間の実在性を前提として成立している。物理学的時間は我々が日々直観している時間の時間性を再現したものにすぎず、これでは時間という現象の根源へさかのぼることはできないように思われる。それは車輪の回転の映像が視覚残像を利用した車輪の回転の再現であるかぎり、車輪の回転という運動現象そのものを説明することができないのと同じことである。もし時間が実在的な存在者であることを証明することができなければ、結局、時間の存在論的問題は実存論上の問題であるということになる。実在的には時間を持たない単なる存在の系列を、時間のうちに継起するものとして実存論的に捉えるのは我々である。とすれば、《運動》という現象は、最も基本的な有機的現象であるということになる。我々は既に『存在と無』の感想において、有機体とはいったい何かという問いに解決を与えたが、これを今一度再掲しておこう。我々はこの問題を考えるために、《テセウスの船》という古典的な命題を取り上げた。それは次のようなものである。

 

ある目的地に船を使っていくとする。船は風雨に曝されてたびたび破損するが、そのつど新しい素材を使って修理していく。そうやって目的地に着くまでに船の破損箇所を次々に修理していき、到着の頃には元の素材が一つもない場合、これは元の船と同じと言えるかどうか、と言う問題である。同様の構造を持つ問題としては、「体の細胞が入れ替わるはずの人間を、常に同一人物としてみなすのはなぜか」というものもある。この問題は要するに一つのアポリアであり、素材に着目するなら同一であるとみなすのは不合理であるし、かといって同一でないとみなすのも直観に反するというものである。テセウスというギリシャ語の名前からも察せられるように、これは有機体とは何かにまつわる古典的な問題の一つである。有機体についての本格的な研究は、カントやヘーゲル、シェリングらの時代においても行われており、また有機化学や生物学の発展もこの研究に大いに貢献したものの、いずれも有機体の対象的な性質に着目したものであり、根本的な定義にまで至ることはなかった。サルトルに至って、ようやく有機体とは何かを、明確に定義することができるだろう。要するに有機体とは、「自己自身の無であるような一つの存在に対し、それ自身の無であるような一つの存在である」。有機体とは、それ自身何ものでもないような一つの存在(対自)が、それがあるところものである存在(即自)を、自己の存在論的なありかたに即して把握するという、一つの存在論的関係にほかならない。それゆえ、《テセウスの船》の問題について答えは次のようになる。それは同一の船である。なぜなら船を修理するということは、その船の維持という《目的》へ向かって船を超出することだからである。一方で、はじめから修理に使われた素材で以って別の新しい船を作るのであれば、それは別の新しい船を作るという《目的》のうちに素材を超出することであるから、同一の船とはいえない。

 

つまり、「組成が徐々に変化し、ついには全く組成が入れ替わってしまうような存在を我々が同一の存在とみなすことができる」ことと、「非時間的に見ればわずかに位置が異なる互いに没交渉な存在の集合を、我々が時間のうちに継起する同一存在の系列、すなわち《運動》する物体とみなすことができる」こととは、同じ理由による。位置の徐々に変化する存在の集合を我々が一つの不変の物体の運動とみなすのは、我々がその存在者を《投企》するからである。ところで、ある存在者が投企されるためには、その存在者は投企という作用に対して受動的な存在性格を持つのでなければならない。その受動的な性格とは《即自性》であって、我々が自分自身を投企する場合にも、自分の存在としての、おのれの至り来った過去を投企するのである。そのような投企は、それであるべきところの存在への投企に対しての、投企される存在が「存在する」という事実に由来する抵抗であって、即自性の怠惰な重みである。この抵抗は対自が存在依存であるための必然的条件であって、もし即自が無限の抵抗であるならば、あるいは即自が対自の企てに対して全く抵抗しないならば、対自は取り戻されるべき自己の存在を見出すことができないだろう。ゆえに対自は対自であることができないだろう。もし我々が即自に全く働きかけることができないならば、我々は存在を認識することすらできず、ゆえに存在は存在しないことになるだろう。あるいは、もし我々が即自の抵抗を完全に克服する存在であるならば、言い換えれば我々が全能の神であるならば、我々は永遠の存在であり、結局は対自存在であることも、また自由な存在であることもないであろう。その場合には結局、我々にとって時間は存在しないことになる。サルトルは即自性という障害を取り払った対自にとって現れる世界を、夢のような世界と喩えたが、事実、我々は夢の中では時間の退屈さを感じないのである。この即自性という抵抗のために実存的存在者は、自己がそれであるところの存在であるべきということと、自己がそれであるべきところの存在であるということとの差異を了解する。この差異のために我々は、通常不適切にも客体化されて〈時間〉と名付けられている《移行》を直覚する。我々が〈時間〉をそれ自体として感じようとするときの透明な重み、微妙な気だるさは存在の即自性に根拠を持つものであるとすれば、時間感覚の問題は生物学に完全に包摂されるものではないということになるだろう。

 

対自と時間と有機体との関連がこのようなものであるとすれば、それはまた、生命という独特な存在者の様相をも明らかにする。要するに、生命とは一つの自由である。また逆に、自由とは一つの生命である。生命は初めに事実的な存在様相を与えられ、そのありかたに従って外部環境との相互接触しながら自己保存、自己複製を行なっていく。自由も同様に、まず一つの根源的な企てとして誕生し、そのありかたに従って世界を解釈し、自己投企を行なっていく。しかし生命にとってア・プリオリな存在様相の破壊は死であるが、自由のそれは根源的な企ての転換である。それまでの自己自身のありかたを放棄し、新たな根源的な企てのうちに投企すること、それはサルトルの言うように一つの人格の転換であり、数多の文豪、哲学者にインスピレーションを与え続けている現象でもある。生命は確かに自由な存在であるが、我々が人間以外のありかたをすることができないように、自己自身のア・プリオリなありかたに対しては自由ではない。一方で自由は根源的な企ての転換が可能であるという事実によって、自己自身のア・プリオリなありかたに対しても自由であり、その意味で無機的な存在と対比された生命的な存在様相の創発的発展である。そして自由は〈…に対しての自由〉という否定性、非存在の存在であるから、それは所与に対する否定という運動のありかたで存在し、ゆえにその存在的様相は〈時間〉として現象することになるのである。

 

 

物理学が取り扱う時間について

 

 

例えば「宇宙の始まる前には何があったのか」という問いに対して、こういう風に答えられることがある。「そこには何もなかった。時間も空間もなく、ただ無だけがあった」と。だが、こう答える人が一体、自分自身が何を言っているのかを本当に理解しているかは極めて疑わしい。なぜ空間も無いのに《そこ》が言えるのか、なぜ時間も無いのに無だけが《あった》と過去形であるのか。このような言い方をする場合、少なくとも時間も空間も他の様々な存在者と同じように、我々に対して現前する客体的存在として扱われていることは確かである。物理学的知見から時間について得られる洞察はごくわずかしかない。そもそも物理学は他の諸科学と同様、そこで扱われる対象がどのように振る舞うかを科学的に体系づける学問であって、その振る舞いがいかにして可能なのかを問う学問では無いからである。物理学には時間を表す単位が存在し、対象の時間的振る舞いを正確に記述することができる。だが物理学が扱っている時間は、実際には時間を再現したものであって、時間そのものではない。物理学的な時間は、その時間性を全く閑却した形式的な単位であるか、あるいは時間性を熱力学・統計力学的観点からうまく再現したものにすぎない。例えば古典力学において時間は一方向性を持たず、時間反転した解も等しく解の資格を持っているため、対象の振る舞いの観察からはそれが時間の流れに沿っているのか逆再生しているのかを区別できない。熱力学や統計力学ではエントロピーなどの不可逆的な量を導入することによって時間の流れを再現しているが、これは起こりうる事象のうちでその確からしさが極めて大きい事象を次々とつなぎ合わせていくことで時間の一方向性を再現している。それゆえこれを時間の再現とみなさず、これこそが時間の一方向性であると考えるならば、時間反転は原理的に起こり得ないのではなく、天文学的数値よりもずっと小さい確率ではあるが起こりうるということになる。あるいは微視なスケールではしばしば起こっているかもしれないが、我々が認識できるような巨視的なスケールでは十分に一方向性が確保されているということになるが、時間性をこのように解釈するのは妥当とは言えないだろう。一方で相対性理論を含む現代の力学は、古典力学では閑却されてきた時間性をその理論のうちに組み込むと同時に、時間を空間と統一的に扱っている。すなわち「四次元時空」と言われるように、時間は空間と同質的な一次元の量として扱われる。これを「時間とは一方向性を持つ空間である」とみなすか、あるいは「空間とは一方向性を解かれた時間である」とみなすかは、対象の振る舞いではなくその意味を問うものであるから、少なくとも現代の物理学が管轄する問題ではない。

 

ところで、冒頭のやりとりを次のように続けることができる。「それではなぜ何も無いところから、時間が生まれたのか」と。この問いは一見深遠な形而上学的な問いに見えて、実は何ら意味のない問いなのかもしれない。というのも、我々が時間について「問う」ことも、我々が時間をこのように問うことができるものとして認識しているのも、我々が時間的存在者であることがその条件となっているからである。これは、例えば「我々が可視光しか見えないのはなぜか」という問いとよく似ている。「我々は可視光しか見えない」のではなく、「我々が見える光を可視光と名づける」のであり、この問いでは定義の前提と結果があべこべになっているのである。だが、この問いの倒錯は論理的な規定にかかわるものであって、ここで取り上げた時間性にまつわる超越的な倒錯ではない。時間性を倒錯させた問いと同様の構造を持つ問いとして、「なぜ我々は網膜に写された反転像を正立像として認識できるのか」というものがある。この問いが無意味であることの説明は、先の時間性にまつわる問いが無意味であることを理解するための手助けとなるため、ここで説明しておきたい。

 

眼に入ってきた光の束は網膜上で焦点を結ぶが、目の上方から入ってきた光は網膜の下方側に至るため、網膜上に上下左右逆さまの像を映し出す。この像の情報が視神経を通って脳に至り、そこで情報を処理して我々は像を認識する。いわゆる《正立像問題》とは、それではどの段階で逆さまの情報が正立像に戻されるのかという問いであるが、実はこの問いには意味がない。逆さまとか正立といった「向き」を定義できるためには、まず我々が世界を経験してその「向き」の方向性を定めておかなければならないが、このような方向づけは実際にまず、我々が像を認識することによって初めて可能になるからである。例えば、生まれてからずっと景色が反転するメガネをかけている人がいるとしてみよう。そうすると、この人は我々から見れば反対の方向関係を「向き」の方向性として定めることになる。我々がこの人の知覚をそのまま見とることができるなら、この人は倒立像を認識していることになるが、この人は我々が倒立と呼ぶものを正立と見ているので、この人の認識ではこれが正立像となるのである。つまり、同一の像に対して我々は倒立と認識し、この人は正立と認識する。例えば左手を上げるという動作をするとき、もし我々がこの人の知覚をそのまま見とることができるなら、我々には右手を下に伸ばしているように映るのだが、我々が「左手」と言う際に基準にする体性的な感覚と、「上げる」と言う際に基準にする空間的は方向性とは互いに超越的である。つまり像の向きに対して、それを定める「向き」の方向性は超越的な関係にあって、像が正立か倒立であるかは「向き」が定まった後に決まることなのである。結局、この問いが意味していることは「網膜上の像の向きは反転するものとして写る」ということだけであり、これは《向き》に対して何ら実質的なものを含んでいないから、例えばこのことから「網膜に正立像を結んだ方が反転する手間が省ける分エネルギー効率がよく、進化論的にみて適応的であるにも関わらず、実際にはそうではない」などといった問題を導くことはできない。像が反転するものとして現れるのは我々にとってであって、実際に何か脳内に像を反転させるようなメカニズムが存在するわけではない。こういう誤謬は、外部の刺激と我々の知覚を共通の存在領域の現象と見なしたり、あるいは外部の刺激と我々の知覚を互いに没交渉であると見なすにしても、それらの存在領域のやりとりを媒介する存在者が存在すると考えるような存在論的に妥協した試みに由来する。だが、我々が「痛み」の感覚を身体の構造変化から、あるいは「赤さ」の感覚を赤い物体の物理化学的構造から導出することができないように、外部の刺激とそれの知覚とは超越的な関係にある。確かに感覚の強さと刺激の強さには相関があるが、それはどこまでも相関関係であって、因果関係ではない。そしてその相関関係すらも既に見たように、我々が二つの感覚に対して設けるア・ポステリオリな関係であって、我々がそのような関係づけを行うことができるのも、そのような関係付けがなければ感覚の強さというもの自体が意味を持たなくなり、そうなれば結局、感覚が感覚としての機能をなしえないからである。

 

以上のように、空間の《向き》を問うためには、既に向きつけられた空間が存在することが前提となっている。これと同じことが、先の時間に関する問いにも言えるのである。我々が関心の特殊な様相のもとに存在することができるのは(すなわちこの場合は時間を「問う」ということ)、我々が《時間性》という超越的な場であるからである。この場において様々な存在者のありかたが問題にされているのであるが、時間を「問う」ということは、時間を他の存在者と同様に客体的存在として捉えること、言い換えれば《時間性》という場のうちに現象する一つの存在者として把握することを意味する。これは存在論的な矛盾であるから、時間を「問う」という行為は、実質的には何ら意味のないものなのである。

 

 

即自と対自、永遠の超克

 

 

意識の問題を自由意志の観点から考えるとき、我々は一つの矛盾を見出すことになる。すなわち、意識は対象をその超越によって把握する一方で、同時に意識はその対象によって即自的な規定を受けているように思われるのである。我々は我々自身が自由であることを否定できない一方で、我々の精神が生まれや環境などによって因果律的な規定を受けていることも否定できない。さらに進化論の観点から見れば、我々の精神すらも他の諸形質と同様にある環境にあって適応的な機能を備えた一つの形質ということもまた否定できないだろう。我々が自由であるということの消極的な意味は、我々は事物的な存在のように因果的な自然法則に従って行動するのではなく、放り出された石が自由落下するように物を考えたり、様々に生活を営んでいるわけではないということである。しかし我々は同時に自然の一部でもあるのだから、我々の行動はすべて因果的な自然法則を逸脱するものではありえないはずである。これが《自由意志のパラドックス》であるが、ここに見出されるのは即自と対自という存在の二つの契機がお互いを規定すると同時に規定されるという超克関係であり、一方の契機からもう一方の契機への絶えざる転換である。一方が他方を規定すると同時に他方によって規定されるというのは、論理的には矛盾である。それゆえこの関係は、《運動》によってのみ適切に表現される。論理がもたらすものは不変の真理、永遠に静的なものでなければならず、真理と非真理は完全に隔絶されている。ハイデッガーが現存在の根本的な存在論的構造を時間と見たのはもっともなことである。《運動》は現存在に把捉された存在者が時間のうちで展開する様態であるからである。このような対自と即自の絶えざる超克関係は、ヘーゲル『精神現象学』において初めて体系的に記述され、サルトルは、これを対自という〈それのあらぬところのものであり、それのあるところのものであらぬ〉存在が、〈それのあるところのものである〉存在へと至ろうとする存在論的に矛盾した試みの形式として捉え直し、またこの形式は他者論では自己と他者間の絶えざる〈まなざし〉の転換として応用された。《運動》とは、〈それのあるところのものであると同時に、それのあるところのものであらぬ〉ような存在者の存在様相である。それは端的に、《存在の病気》である。存在者のそのような病的な存在様相は、それ自体が病的な存在者に対してしか現れない。なぜなら即自的な存在はそれがあるところのものである存在であって、それ以上でも以下でもないからである。ある存在者が自己自身から〈距離をとって〉存在するように現れるのは、それ自体自己自身から〈距離をとって〉存在する存在者、すなわち対自にとってでしかない。その本質が「他」であるような存在者は、自己自身に対しても「他」であるかという問いを通じて、〈他性〉の動的性格を見出したのはプラトンであった。それでは、その本質が「他」であるような存在者とは、一体どのような存在者か。サルトルは対自の実存論的考察を通じてそれが「意識」であることを発見したが、それより以前に、ドストエフスキーは天才的な直覚的洞察によって同じ結論に達していた。「意識は存在の病気である」という観念は、『地下室の手記』において既に垣間見られる。その本質があらゆる存在からの疎外、自己自身に対してすら疎外であるような絶対的他性の人格化が、『悪霊』のスタヴローギンである。物語の終盤、彼のダーリヤへ宛てた手紙に次のような一節がある。「私の内部から流れ出たものは、何らのおおらかさも、何らの力も持たない単なる否定のみでしかなかったのだ。いや、否定すらも流れ出なかったといえよう」。その存在を運動的性格に抗して無理やり規定すれば〈…でないもの〉であるような存在、それが存在するということにおいて既に自己姦通している矛盾者、悪魔的他性という、意識の最も純化した存在様相、それは絶えることのない否定の運動であり、《時間性》そのものなのである。