現存在の世界認識と実存について、現代の政治問題を例にして
現代における実存問題の総括
『存在と時間』を未完に終わらせた原因について
はじめに触れたように、『存在と時間』はもともと以下のような構成を想定され、このうち第一部第二編までが実際に刊行された部分である。
第一部 時間性に向けた現存在の解釈、ならびに存在への問いの超越論的地平としての時間の解明
第一篇 現存在の準備的な基礎分析
第二篇 現存在と時間性
第三篇 時間と存在
第二部 時間性の問題を手引きとした存在論の歴史の現象学的破壊の基本的諸相
第一篇 時間性の問題の前段階としての図式と時間についてのカントの教説
第二篇 デカルトの《我思う》の存在論的基礎と〈res cogitans〉(認識する存在者)に関する問題圏への中世存在論の継承
第三篇 古代存在論の現象的基盤と限界の基準としてのアリストテレスの時間論
未完に終わった部分について、第一部第三編では既刊部分の内容である「存在から時間」への過程を転換し、「時間から存在」への反復が行われる予定であった。第二部では哲学史上の主要な結節点における現象学的解釈を通じて、哲学史の現象学的破壊が行われる予定であった。その内容については全く手がかりがないわけではなく、例えば序論第六節で簡単に記されているほか、同時代の講義や『存在と時間』以降の著作(カントについての議論は1927/28年冬学期講義『カントの純粋理性批判の現象学的解釈』、および1929年刊行の『カントと形而上学の問題』、デカルトについてはその簡単な内容が、論文『時間の概念』の第IV節で示されているほか、アリストテレスの時間論は1927年夏学期講義『現象学の根本的諸問題』の第一九節で取り上げられている)から窺い知ることができる。記述内容の連続と非連続に着目して『存在と時間』とこれらの著作を比較すれば、未完部分で述べられるはずだった内容を大体は復元することができるだろう(もっとも『存在と時間』自体が一貫して体系だった書物ではないので、この作業は言うほど簡単なものではないが)。それではなぜ『存在と時間』は未完に終わったのか。『ハイデガー「存在と時間」入門』(轟孝夫)によれば、一つには、現存在の諸現象を従来の形而上学的な言葉で語ることの困難さによるのだという。全て従来の形而上学的な用語は、現存在をその本来的なありかたに即して案出されたものではないから、その指示するところは実存的な内容を適切に表現していない。概して言えば、それらは通俗的な知性に即して、実存的な存在者を実在的な存在者として取り扱っているのだ。それゆえ、ハイデッガーが実存的存在者を実存論的に十全なしかたで記述するためには、それとは異なるアプローチをとらなければならなかった。後期ハイデッガーの思想が神秘的、魔術的と評されるのも、伝統的な哲学の歩みに沿って現存在を把握することを断念したハイデッガーの語りからは、我々が親しんできた伝統的な哲学の響きが感じられないからであろう。もう一つには、現存在の分析論において、現存在の個別的性格を強調しすぎてしまった点があるのだという。本書においてもハイデッガーは既に、現存在が本質的に世界の内にある存在者であり(世界=内=存在)、本質的に他者と共にある存在者である(共同存在)というだけでなく、それがいかなる《存在》であるのかについては、空間的には《世界が明るみにされる場》とか、《存在者が存在するための存在論的条件》と表現し、時間的には《おのれ自身に対して臨む存在者》として、現存在の脱自的性格を表現し、現存在が個別性を持った単なる自立的存在ではないこと、現存在が《ひろがりを持った存在者》であることを主張している。現存在は自己の存在のうちに存在空白を持っており、自己であるということのうちに自己自身であらぬ存在である。その脱自的性格のために現存在の存在は世界とおのれを絶えず超越し(投企)、その超越によって実在的存在者をそれ自体そのようなもの《として》現象させるのである。一方で、現存在ははじめから「その存在のおいておのれ自身に関わらせられている存在」として、現存在の個別的性格が明瞭に規定されている。さらに本来性と非本来性の存在様相についての記述では、表現上の理由からそれが日常的な現存在の記述に即したものでなければならない制約があったためだろうか、現存在の個別的性格を強調しすぎた嫌いがあることも否定できない。《関心》としての現存在の根本的構成と、その脱自的展開態の表現である《世界=内=存在》を時間性のうちに解釈する部分では、現存在の脱自的統一態を「自己」と表現しているが、存在的な理解によって「汚染された」実存的概念を用いることはハイデッガーにとっても気がかりなことであっただろう。そこには通俗的な表現を用いることによって実存論的な真意が蔽われてしまうことと、思想の言語的表現という投企をする以上はその表現に公開的性格を持たせなければならないこととの葛藤がある。これは現存在のあり方を記述することに付随する原理的な困難さに由来するものであるとすれば、それ自体は致し方ないにしても、未完部分で述べられるはずであった現存在の存在論が、既刊部分である現存在の準備的基礎分析を全面的に無効にすることを前提とするならば、本書は一貫性を著しく損なうことになるだろう。現存在の存在論に至るためにはその準備的基礎分析を必要とするが、その存在論の内容自体は準備的基礎分析を全面的に無効にするものである。『存在と時間』が未完に終わった理由の一つとして、このようなパラドキシカルな循環が背景にあったのではないかと思われる。
ハイデッガーの実存概念とサルトルのそれとの比較、および唯識思想との共通点
サルトルはハイデッガーのいう客体的存在と現存在をヘーゲルの用語を借りて即自と対自として捉え直し、対自を即自の存在充実からの脱落として規定した。このように「存在減圧」された対自はおのれ自身の存在を取り戻そうとするが、それは取り戻すところの存在(意識)と取り戻されるところの存在(意識されるもの)の誕生に他ならない。この対自の「存在-取り戻し」の営みこそが、我々が意識と呼ぶところのものであり、それは即自への志向的な働きから、「反省」という内面的な働き(反省するものと反省されるものが同一である場合。自己の自己自身からの分離であり、この同一項の分離即統一および統一即分離の関係「S=S」は、「自己意識」と呼ばれる)まで、すべての意識現象を統一的に表現する。だが、サルトルの理論をハイデッガーの現存在分析にそのまま接続することはできない。承知のように、サルトルはハイデッガーが『存在と時間』において仮設するにすぎなかった現存在の個体性をアプリオリな原理として認め、ついには人間存在の絶対的自由を提唱する。現存在を「存在欠如」として捉え直すサルトルの実存論は、客体的存在と現存在という二つの存在者を同一の存在境位において捉えるとともに、現存在の意識活動を「存在欲求」として解釈する分析もそれなりに一貫しており、その点では特に咎められるべき箇所はない。一方で、個体性が現存在のアプリオリな存在論的構造であるかについては疑問が残る。確かに現存在は自己を個体的な存在として把握するが、このことは「現存在にとっては自己自身が個体的な存在として現象する」ということを意味するだけであり、むしろそのような自己認識自体が現存在の非本来的な自己解意に根ざしているかもしれないからである。
ハイデッガーはただ単に存在するという客体的存在者のありかたに対して、実存的存在者のありかたを《存在の無》として規定した。この規定のしかたは誤りではないものの、実存の動的な性格を十分に表現できていない。サルトルはこれに対して《それがあらぬところのものであり、それがあるところのものであらぬ》と、より適切な表現を与えた。ハイデッガーは『存在と時間』において客体的存在者と実存的存在者との存在論的相違を強調したが、両者がともに《存在》であるのはなぜかという存在論的統一の問題は未解決のままであった。これら二つの存在者を即自と対自として捉え直したサルトルは、対自を即自の《存在欠如》と解釈することによって、この二つの存在者の存在論的統一を図った。これにより諸々の存在者の存在様相の可能性と限界が画限され、過去や未来、感覚や思考といった実存的概念すら適切なしかたで、便宜的に即自的存在として扱うことができるようになり、存在の根源への見通しが良くなったことは確かである。一方でハイデッガーはその後、現存在がそこにおいて世界内存在者の総体が現れる《場》としての側面を重視し、その観点から自身の思想を深化させていくこととなる。それは表現の上にも現れており、例えば、現存在や対象化といった、主観と客観の対立という構図を想起させるような表現は次第に控えられ、現に-あること、存在者を照らす明るみなどの用語を使って、極力、現存在が一つの主体である存在者であることを意識させないようにしている。サルトルが基礎的存在論の構築を念頭に置いて研究を続けようとしたのに対し、ハイデッガーはそのような理論的な企てを行わず、存在の現れを率直に捉えようとする方向へ思索がシフトしていったようである。後期ハイデッガーの著作が哲学的というより詩的な響きを感じさせるのは、このことが原因だろう。先に述べたように、ハイデッガーが『存在と時間』の後編の執筆を断念したのも、前編で確立されていた現存在の存在様相、すなわち実存する一つの「存在者」であるという規定が、すでに修正不可能になっていたからである。
ところでハイデッガーの思想の遍歴は、我が国の精神性の一端を担う仏教哲学との親和性があるように思われることも以前から指摘されてきた。ハイデッガーは『存在と時間』で、現存在の最も基本的な存在論的構造として《関心》を捉え、現存在に対して現れる内世界的存在者の道具的連関という存在様相を指摘し、またこのような存在論的構造を持つ現存在は、さしあたり《頽落》という非本来的なありかたをとっていると述べる。その後の研究活動は、時間性に関連した現存在の存在論的探究を主としており、晩年は思索の深化を経て、一度は実存的存在者と規定した現存在の主体性を否定するに至った。一方で、例えば仏教哲学の一派である唯識学派は、意識の迷いへの傾向を遍計所執(「もの」への執着)、および我執(「自己」への執着)と捉え、「迷いの世界」として現れるこの世界を「縁起」という存在様相のもとへ解釈した。この思想は最終的に「色即是空、空即是色」という有名な言葉に集約されるのであるが、この句は世界と自己の一切の《存在性》を昇華させるに至った悟りの境地から出たものであろう。これをハイデッガーの思想遍歴に対応づけてみると、『存在と時間』では「迷いの世界」の現れとしての遍計所執の解明、その後の思索は我執の解明を主とし、晩年は「自己」という主体の消滅という宗教的境地に至ったとみることができる。もちろんこういった対応づけは皮相的で誤解を招きやすいものであるが、暫定的な全体像把握のための下書きとして見れば、多少の価値はあるだろう。
「執」という言葉には、サルトルがいうところの「ねばねばしたもの」の響きがこもっている点も注目に値する。もしサルトルが内世界的存在者を、あくまで主体としての〈意識〉の側から把握しようとしたならば、『嘔吐』で見出した《存在そのもの》を「どす黒く、ぶよぶよした」かたまりと表現したのももっともなことである。意識は意識であるかぎり、《…へ向かって》という存在様相としてあるが、これは結局、「執」を言い換えたものにすぎない。意識はそれが向かうところの「もの」に執し、また同時的に、そのように執するところの「自己」に執する。しかし、「執」という働き自体は意識にとって即自的に現れる以上、即自的なものの本性であるその惰性的な退屈さ、および意識が意識であるかぎりこの関係から逃れられないということにおいて、意識にとってそれは対自に対する即自の侵食として、意識を背後から捉えようとする「鳥黐」として把握される。どす黒く、ぶよぶよした《存在そのもの》は隙間なく対自を取り囲み、対自はその存在の重みによって窒息するわけであるが、こういうことになるのも、対自が自己への「執」を断ち切れないためである。もしサルトルが自らに定めた実存至上的な道を歩まず、ハイデッガーのように実存論を存在論のうちに含まれる課題の一つとして捉えていたならば、実存することを「自由という牢獄」とか「自由という刑に処せられている」などというように、苦に満ちた存在重圧として捉えることもなかったかも知れない。
哲学史におけるハイデッガーの実存哲学の意義
ここまで見てきたように、ハイデッガーの実存哲学の方向性は伝統的な哲学のアプローチのしかたとは大きく異なっており、それは一言で言えば、伝統的な哲学における理性偏重へのアンチテーゼであると言えるだろう。ニーチェは『善悪の彼岸』の冒頭で、次のように言っている。「真理が女である、と仮定すれば…、どうであろうか。これまでの哲学者は、女たちを理解するために非常に拙いやり方を行なってきたのではないか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか」と。「真理」という概念は伝統的に、客観的であり、普遍的であり、不変的なものでなければならなかった。つまりそれは、誰にとっても手に取れるものであり、また万人が認めるところのものであり、時代に関わらない永続的なものである。真理がこのようなものであれば、そのありかは理性に求められ、中世においては推論の合理性に、また現代においては科学に求められる。しかしこのような真理の概念が徹頭徹尾、客体的存在者のありかたから汲み取られ、実存という存在のもう一つの様相について全く顧みられることがなかったのは、ハイデッガーが述べた通りである。「ある存在者を客体的存在として受け取るためには、内=存在と言う実存論的構成に対してまったく盲目である必要がある」(本文より)のである。しかもこの実存という存在こそが、我々がふつう存在とみなすところの客体的存在者の存在様相を規定しているとなれば、存在をめぐる問いは初めから致命的な間違いを犯していたことになる。だが、ハイデッガーによればそれは決して偶然ではなく、現存在の存在論的構造からいって全く当然の間違いなのである。存在の問いへの序章で「存在的に最も自明でありふれたものは、存在論的には最も暗がりに包まれている」と言ったように、存在論的な問題を考究することは、問題解決にあたって我々が通常親しんでいるような理性的態度とは異なった態度を要求する。ハイデッガーが現象学的方法と呼ぶその独特な態度は、「事象そのものへ」という格言によって端的に表される。これによってハイデッガーは、実存的存在者が現=存在であること、その存在論的構成が世界=内=存在であること、その現の現れが《関心》にもとづいていること、そしてその意味が《時間性》であることを見出した。これは実存哲学の顕著な功績である。論理に内在する自己否定の運動を見出したヘーゲルは「本質とは、それのあったところのものである」と言った。「実存は本質に先立つ」というサルトルの有名な格言がある。これらは時間性の観点から、「現存在は実存的存在者である」、「時間性は第一義的に将来から時熟する」というハイデッガーのテーゼに集約される。現存在は頽落のうちにあって内世界的存在者を現持し、その本質把握は過去にさかのぼって(把持的=現持として)行われる。ある存在者の本質を問うことは、その存在者が《何であったか》を問うことである。由来や根拠へ向かってさかのぼることが、その存在者をそのもの足らしめているものを明かすのである。一方、現存在の存在は何よりもまず実存であり、それはもとから将来的な存在者であることを意味する。現存在の「本質」は、本質というものを欠いた未規定性であり、純粋な実存の可能性である。それゆえ、現存在に対して《何であったか》と問うことは存在論的に不適切である。にもかかわらず、日常的な現存在はさしあたり世界の側から自己のありかたを解釈するから、自分自身に対しても、また他者に対しても、彼らが何を為してきたか、あるいは何に携わっているかという観点から了解せざるを得ないのである。こうして、客体的存在と実存的存在、および現存在の本来性と非本来性の存在論的区別が、《時間性》にもとづいて説明されたのである。しかし後にハイデッガー自身が述べるように、『存在と時間』は「道」であって、「作品」ではない。執筆過程を見てもわかるように、『存在と時間』はハイデッガーの思索が急速に形成され発展する過渡期において書かれた、暫定的な書物であるに過ぎない。本書は一見、存在論に新たな地平を切り開く一貫した体系を持った厳密な哲学書の様に思えるが、内容をよく読めば分かるように、そこにはいくつかの場当たり的な「転調」がある。とりわけ共同存在としての現存在、現存在の頽落、死への先駆などを述べる箇所がそれであり、そこでは思弁的な透徹した記述というよりも、何やら熱量のこもった大衆批判、現存在の自己逃避への批判めいた記述が目につくのである。本書ではこのように、存在にまつわる純哲学的で透徹した思索と現存在の日常的なありかたに対する啓蒙的な批判が同居しているのであるが、それというのも、まさに本書がハイデッガー哲学の二つの源流、すなわち時間性にもとづけられた存在現象の解釈とキリスト教の教義学を、無理やり一つの書物にまとめ上げようとする試みのうちに書かれたからである。後編の執筆が断念されたことからも分かるように、結局この試みは頓挫することになるのだが、存在現象を理性的なものを媒介せずにそれ自体においてとらえようというハイデッガーの意図は、本書でも十分に達成されている。「それ自体」という言葉は通常、その事物の客観的な様態を指す表現であり、それを捉えるということは、表象的にせよ理論的にせよ、その事物をその存在だけにおいて明晰に把握することだとされている。だがハイデッガーは、このような認識優位な存在了解の考え方を否定する。従来の哲学においては、感情とか感覚といった感性的要素は特殊な存在者の特殊な様態を構成するにすぎず、対象そのものの真理的なありかたを歪めるものとされていたが、ハイデッガーによれば、ものの「自体存在」というものは、我々が何らかの《気分》のうちにそのものを了解する場面において既に開示されているのであって、あらゆる感性的なものを取り去った果てに《物自体》が浮かび上がるなどというものではない。《気分》は単一の原因に由来する単純な現象ではなく、我々がこれを説明しようとする際はたいてい、その全体的な気分を構成する多様な要素を一つ一つ列挙して、それを合成して当の気分を構成しようとする。だが、全体としての気分は、個々の要素に分解できるものでもなければ、個々の要素を組み合わせれば一つの気分を合成できるものでもない。我々が自身の心的状態を常に「のっぺりと」感じているように、それが存在的に複数の原因に由来する場合であっても、気分は常に「一つの全体」であって、決して複数の気分が同居してどっちつかずの気分を構成しているなどというのではない。さらにまた、存在的に当の気分の原因を探求しようとすれば、我々はどうしても心的状態に影響を及ぼす諸観念同士の魔術的な繋がりを認めざるを得ないが、それも気分というものが客体的現象ではなく、実存的な現象であるからなのである。客観性や科学性といった公開的かつ普遍的な地盤のうちに、客体的なものとの関わりにおいてこれほど決定的な権能を持つ《認識》が、実存現象に対してこれほど無力なのはなぜであろうか。それは感性的なものに振り回され、理性に一致することのできない実存的存在者の「弱さ」によるのであろうか。むしろ我々がもともと感性的存在者であるゆえに、理性的存在者でもあることが可能なのではないか。現代における科学技術の目覚ましい発展、物質的豊かさの鮮やかな便利さ、その反転としての「心の豊かさ」なるものへの問い、内世界的存在者を基準にした新たな現存在の自己解釈の理論などは、徐々に開かれつつあった実存への道筋を再び覆い隠したように思われる。だが19世紀から20世紀において開拓された実存への洞察、およびその代表としてのハイデッガーの哲学は、再び人々が実存のありかたへ視を向けたとき、その歩みを手助けするための大きな道標となるだろう。
時間性と時間感覚について
現存在の基本的構成は《関心》であり、それは世界=内=存在という分節を脱自的に展開し、その脱自的統一態は時間性として明らかにされた。それではなぜ現存在の存在論的構成は、世界に対してかくも実践的な適合性を備えているのだろうか。進化論的プラグマティズムによる説明はこれに一つの解答を与える。すなわち、現存在の世界に対する関わりにおいては、一つの世界のありかたに対して原理的に無限の存在了解を対応づけることができるが、そのなかでもより進化論的な有用性を持つような存在了解のしかたへ選択的に進化したと考えられるわけである。実際、我々の諸感覚は世界のありかたや諸変化に対してうまく適合していることは確かであるけれども、それは完全ではない。それは、いくつかの日常的でない状況において、我々が世界内の対象をどのように把握するかを考えれば分かることだろう。例えば三次元視野は二次元的情報をもとに三次元的に復元したものであるから、特殊な状況において錯視を生み出す。それは水中の物体の位置や大きさを、空気中においた場合と同じように判定できないという、光学的的な理由に基づくものもあれば、同じ大きさでも奥にある方はより大きく把捉されるという経験的錯覚の場合もある。相対性理論を考慮しなければならないような極端な状況では、我々の持つ通常の幾何学的、時間感覚が原理的には通用しないが、それは我々が地球上で何十億年もの間、現在と同じような物理学的環境で進化し続けたためであり、そのような状況に由来する淘汰圧がかからなかったためである。
時間の経過と時間感覚の関係について、例えばジャネーの法則は、長期的かつ主観的に見た時間の過ぎ去る速さは、これまで経験された世界時間の量に反比例するという簡潔な式を与える。もっとも、歳を重ねるにつれて時の流れが早く感じるという大まかな逆相関の関係は認めるにしても、それが厳密に反比例の関係を示すかは疑わしいものである。ジャネーの法則はその根拠として、世界の新鮮さや身の回りの環境の変化という要素を挙げるが、それらの根拠は世界時間と時間感覚の逆相関の根拠とはなるものの、それが反比例の関係であることについては、むしろ否定するものであるように思われる。もし時間の経過と時間感覚の関係が単に逆相関ではなく、反比例の関係にあると主張するならば、経験や記憶といった精神的要因ではなく、客観的時間の流れと対応するような生理学的要因ー例えば時計遺伝子の活動やセロトニン、メラトニンといった時間に依存するホルモン濃度の履歴などーも考慮に入れなければならず、最終的にはそれを根拠にしてのみ説明可能であるように思われる。だが、時間感覚を物理化学的要因に還元しようという試みが成功する保証はない。まず、それは記憶の量に対応するものではあり得ないだろう。睡眠や気絶状態によって、ある期間の記憶が存在しない場合でも、意識が戻った後にはその期間に概ね相関した時間感覚が存在する。また、ある期間中に大量の物事を記憶したり、多くのことがらを経験したからといって、その期間の時間感覚がそれだけ充実しているというわけでもない。そもそも、これらの例はすべて過去の出来事に対する時間感覚を問題にしているが、それは現在的な時間感覚とどのように対応するのだろうか。現在的な時間感覚は、普通そう思われているように、果たして一定なのだろうか。時間感覚の問題は『存在と時間』ではまったく取り上げられていないが、時間感覚が時間性に由来する内的必然的な感覚として導き出すことができれば、それは現象学の領域をさらに開拓することになるだろう。そうでなければ、時間感覚が《あれ》でもなく《これ》でもなく、《この》時間感覚である理由は、やはり有用性の観点から説明されるのだろうか。例えば時間の分解能(相次いで生じる二つの光学刺激を区別して認識できる最小の時間)と時間感覚に相関を認めることができれば、時間感覚の問題も生物学の領域に含まれることの一つの証拠となるだろう。
意識の脱自的構造と時間の時間性
サルトルは『存在と無』で、ハイデッガーのいう客体的存在を即自として、また実在的存在を対自として捉え直し、さらに即自を「存在充実」、対自を「存在欠如」と解釈することによって二様の存在者の存在論的統一を図った。それによると、意識は《いま》というある一点で全く満ちて存在するのではなく、過去、現在、未来という時間的拡がりを持って存在している。もっと正確に言えば、この意識の存在論的脱自構造が過去、現在、未来という時間の異なる三つの次元を構成するのである。この時間的な拡がりを持った存在者は、《いま》において充実した存在性を欠いていて、すなわち即自性を欠いた存在者であって、ある種の存在空白として存在する。そしてこの存在者は《いま》において、この存在者がそれであるべきところへ向かって自己を投企する。また同時に、この存在者がそれであるところのものであるかぎりにおいて、この存在者はおのれの即自性としての過去を背負う。我々が《いま》に存在するときには常に、未来のうちに自己を見ている。いっそう正確に言えば、未来のうちに既に存在しているというべきだろう。なぜなら、我々が《いま》に存在することは、我々が我々自身をおのれがそれであるべきところの存在であると了解するのと同時的だからである。私が腕を動かそうと思った時にはすでに腕は動いているように、意思と行動は同時的である。これは例えば、何か頭の中で想像すること場合を考えてみればより分かるだろう。我々は何かを想像したいと思ってから想像するのではなく、想像しようと意思することと想像することは同じことである。それでは、《いま》と未来が時間的に隔たっているのはなぜだろうか。もし時間を我々にとって超越的な客体的存在者と考えるならば、このような問いを立てること自体が不毛である。時間の存在構造の意味をどのように問うたところで、「時間とはそのようなものだから」という答えしか見つからないだろう。だが、時間の実在性を証明することが可能だろうか。そもそも、「実在性」とは科学的には一体、何を意味するのだろうか。通俗的な時間解釈にもとづいた説明として、物理量の基本単位が実在的な量であるとするものがある。これはある単位次元が他の単位次元を使って構成することができない場合に、それを実在的な量とみなすものであって、例えば質量[g]は時間や線分などから構成することができないから実在的な量であるが、力[F]は質量と時間と線分から[g・m/s^2]として構成することができるから、人為的な量であると説明する。だが、物理量の単純さが実在性に対応している根拠が示されないかぎり、この説明では問題は全く解決していない。例えば、もし力を実在的な量とみなせば、今度は質量が力と時間と線分から構成される人為的な量ということになる。また、空間は線分の三次元で構成されるから、空間は人為的な量ということにもなるが、これは我々の直観に反するように思われる。我々の直観などどうでもよいと思われるかもしれないが、そもそもこの説明が我々の実在に対する素朴な直観に訴えたものなのだから、この矛盾を放置することはできないだろう。要するに、物理量の単位体系は相互に規定し合う大きな循環を描いているのだから、その体系を再現しうるかぎり、理論上はそのどれを基本単位として扱っても構わないことになる。よって単位次元の独立性から実在性を導こうとする試みは成立しない。物理学は時間の実在性を導くのではなく、むしろ時間の実在性を前提として成立している。物理学的時間は我々が日々直観している時間の時間性を再現したものにすぎず、これでは時間という現象の根源へさかのぼることはできないように思われる。それは車輪の回転の映像が視覚残像を利用した車輪の回転の再現であるかぎり、車輪の回転という運動現象そのものを説明することができないのと同じことである。もし時間が実在的な存在者であることを証明することができなければ、結局、時間の存在論的問題は実存論上の問題であるということになる。実在的には時間を持たない単なる存在の系列を、時間のうちに継起するものとして実存論的に捉えるのは我々である。とすれば、《運動》という現象は、最も基本的な有機的現象であるということになる。我々は既に『存在と無』の感想において、有機体とはいったい何かという問いに解決を与えたが、これを今一度再掲しておこう。我々はこの問題を考えるために、《テセウスの船》という古典的な命題を取り上げた。それは次のようなものである。
ある目的地に船を使っていくとする。船は風雨に曝されてたびたび破損するが、そのつど新しい素材を使って修理していく。そうやって目的地に着くまでに船の破損箇所を次々に修理していき、到着の頃には元の素材が一つもない場合、これは元の船と同じと言えるかどうか、と言う問題である。同様の構造を持つ問題としては、「体の細胞が入れ替わるはずの人間を、常に同一人物としてみなすのはなぜか」というものもある。この問題は要するに一つのアポリアであり、素材に着目するなら同一であるとみなすのは不合理であるし、かといって同一でないとみなすのも直観に反するというものである。テセウスというギリシャ語の名前からも察せられるように、これは有機体とは何かにまつわる古典的な問題の一つである。有機体についての本格的な研究は、カントやヘーゲル、シェリングらの時代においても行われており、また有機化学や生物学の発展もこの研究に大いに貢献したものの、いずれも有機体の対象的な性質に着目したものであり、根本的な定義にまで至ることはなかった。サルトルに至って、ようやく有機体とは何かを、明確に定義することができるだろう。要するに有機体とは、「自己自身の無であるような一つの存在に対し、それ自身の無であるような一つの存在である」。有機体とは、それ自身何ものでもないような一つの存在(対自)が、それがあるところものである存在(即自)を、自己の存在論的なありかたに即して把握するという、一つの存在論的関係にほかならない。それゆえ、《テセウスの船》の問題について答えは次のようになる。それは同一の船である。なぜなら船を修理するということは、その船の維持という《目的》へ向かって船を超出することだからである。一方で、はじめから修理に使われた素材で以って別の新しい船を作るのであれば、それは別の新しい船を作るという《目的》のうちに素材を超出することであるから、同一の船とはいえない。
つまり、「組成が徐々に変化し、ついには全く組成が入れ替わってしまうような存在を我々が同一の存在とみなすことができる」ことと、「非時間的に見ればわずかに位置が異なる互いに没交渉な存在の集合を、我々が時間のうちに継起する同一存在の系列、すなわち《運動》する物体とみなすことができる」こととは、同じ理由による。位置の徐々に変化する存在の集合を我々が一つの不変の物体の運動とみなすのは、我々がその存在者を《投企》するからである。ところで、ある存在者が投企されるためには、その存在者は投企という作用に対して受動的な存在性格を持つのでなければならない。その受動的な性格とは《即自性》であって、我々が自分自身を投企する場合にも、自分の存在としての、おのれの至り来った過去を投企するのである。そのような投企は、それであるべきところの存在への投企に対しての、投企される存在が「存在する」という事実に由来する抵抗であって、即自性の怠惰な重みである。この抵抗は対自が存在依存であるための必然的条件であって、もし即自が無限の抵抗であるならば、あるいは即自が対自の企てに対して全く抵抗しないならば、対自は取り戻されるべき自己の存在を見出すことができないだろう。ゆえに対自は対自であることができないだろう。もし我々が即自に全く働きかけることができないならば、我々は存在を認識することすらできず、ゆえに存在は存在しないことになるだろう。あるいは、もし我々が即自の抵抗を完全に克服する存在であるならば、言い換えれば我々が全能の神であるならば、我々は永遠の存在であり、結局は対自存在であることも、また自由な存在であることもないであろう。その場合には結局、我々にとって時間は存在しないことになる。サルトルは即自性という障害を取り払った対自にとって現れる世界を、夢のような世界と喩えたが、事実、我々は夢の中では時間の退屈さを感じないのである。この即自性という抵抗のために実存的存在者は、自己がそれであるところの存在であるべきということと、自己がそれであるべきところの存在であるということとの差異を了解する。この差異のために我々は、通常不適切にも客体化されて〈時間〉と名付けられている《移行》を直覚する。我々が〈時間〉をそれ自体として感じようとするときの透明な重み、微妙な気だるさは存在の即自性に根拠を持つものであるとすれば、時間感覚の問題は生物学に完全に包摂されるものではないということになるだろう。
対自と時間と有機体との関連がこのようなものであるとすれば、それはまた、生命という独特な存在者の様相をも明らかにする。要するに、生命とは一つの自由である。また逆に、自由とは一つの生命である。生命は初めに事実的な存在様相を与えられ、そのありかたに従って外部環境との相互接触しながら自己保存、自己複製を行なっていく。自由も同様に、まず一つの根源的な企てとして誕生し、そのありかたに従って世界を解釈し、自己投企を行なっていく。しかし生命にとってア・プリオリな存在様相の破壊は死であるが、自由のそれは根源的な企ての転換である。それまでの自己自身のありかたを放棄し、新たな根源的な企てのうちに投企すること、それはサルトルの言うように一つの人格の転換であり、数多の文豪、哲学者にインスピレーションを与え続けている現象でもある。生命は確かに自由な存在であるが、我々が人間以外のありかたをすることができないように、自己自身のア・プリオリなありかたに対しては自由ではない。一方で自由は根源的な企ての転換が可能であるという事実によって、自己自身のア・プリオリなありかたに対しても自由であり、その意味で無機的な存在と対比された生命的な存在様相の創発的発展である。そして自由は〈…に対しての自由〉という否定性、非存在の存在であるから、それは所与に対する否定という運動のありかたで存在し、ゆえにその存在的様相は〈時間〉として現象することになるのである。
物理学が取り扱う時間について
例えば「宇宙の始まる前には何があったのか」という問いに対して、こういう風に答えられることがある。「そこには何もなかった。時間も空間もなく、ただ無だけがあった」と。だが、こう答える人が一体、自分自身が何を言っているのかを本当に理解しているかは極めて疑わしい。なぜ空間も無いのに《そこ》が言えるのか、なぜ時間も無いのに無だけが《あった》と過去形であるのか。このような言い方をする場合、少なくとも時間も空間も他の様々な存在者と同じように、我々に対して現前する客体的存在として扱われていることは確かである。物理学的知見から時間について得られる洞察はごくわずかしかない。そもそも物理学は他の諸科学と同様、そこで扱われる対象がどのように振る舞うかを科学的に体系づける学問であって、その振る舞いがいかにして可能なのかを問う学問では無いからである。物理学には時間を表す単位が存在し、対象の時間的振る舞いを正確に記述することができる。だが物理学が扱っている時間は、実際には時間を再現したものであって、時間そのものではない。物理学的な時間は、その時間性を全く閑却した形式的な単位であるか、あるいは時間性を熱力学・統計力学的観点からうまく再現したものにすぎない。例えば古典力学において時間は一方向性を持たず、時間反転した解も等しく解の資格を持っているため、対象の振る舞いの観察からはそれが時間の流れに沿っているのか逆再生しているのかを区別できない。熱力学や統計力学ではエントロピーなどの不可逆的な量を導入することによって時間の流れを再現しているが、これは起こりうる事象のうちでその確からしさが極めて大きい事象を次々とつなぎ合わせていくことで時間の一方向性を再現している。それゆえこれを時間の再現とみなさず、これこそが時間の一方向性であると考えるならば、時間反転は原理的に起こり得ないのではなく、天文学的数値よりもずっと小さい確率ではあるが起こりうるということになる。あるいは微視なスケールではしばしば起こっているかもしれないが、我々が認識できるような巨視的なスケールでは十分に一方向性が確保されているということになるが、時間性をこのように解釈するのは妥当とは言えないだろう。一方で相対性理論を含む現代の力学は、古典力学では閑却されてきた時間性をその理論のうちに組み込むと同時に、時間を空間と統一的に扱っている。すなわち「四次元時空」と言われるように、時間は空間と同質的な一次元の量として扱われる。これを「時間とは一方向性を持つ空間である」とみなすか、あるいは「空間とは一方向性を解かれた時間である」とみなすかは、対象の振る舞いではなくその意味を問うものであるから、少なくとも現代の物理学が管轄する問題ではない。
ところで、冒頭のやりとりを次のように続けることができる。「それではなぜ何も無いところから、時間が生まれたのか」と。この問いは一見深遠な形而上学的な問いに見えて、実は何ら意味のない問いなのかもしれない。というのも、我々が時間について「問う」ことも、我々が時間をこのように問うことができるものとして認識しているのも、我々が時間的存在者であることがその条件となっているからである。これは、例えば「我々が可視光しか見えないのはなぜか」という問いとよく似ている。「我々は可視光しか見えない」のではなく、「我々が見える光を可視光と名づける」のであり、この問いでは定義の前提と結果があべこべになっているのである。だが、この問いの倒錯は論理的な規定にかかわるものであって、ここで取り上げた時間性にまつわる超越的な倒錯ではない。時間性を倒錯させた問いと同様の構造を持つ問いとして、「なぜ我々は網膜に写された反転像を正立像として認識できるのか」というものがある。この問いが無意味であることの説明は、先の時間性にまつわる問いが無意味であることを理解するための手助けとなるため、ここで説明しておきたい。
眼に入ってきた光の束は網膜上で焦点を結ぶが、目の上方から入ってきた光は網膜の下方側に至るため、網膜上に上下左右逆さまの像を映し出す。この像の情報が視神経を通って脳に至り、そこで情報を処理して我々は像を認識する。いわゆる《正立像問題》とは、それではどの段階で逆さまの情報が正立像に戻されるのかという問いであるが、実はこの問いには意味がない。逆さまとか正立といった「向き」を定義できるためには、まず我々が世界を経験してその「向き」の方向性を定めておかなければならないが、このような方向づけは実際にまず、我々が像を認識することによって初めて可能になるからである。例えば、生まれてからずっと景色が反転するメガネをかけている人がいるとしてみよう。そうすると、この人は我々から見れば反対の方向関係を「向き」の方向性として定めることになる。我々がこの人の知覚をそのまま見とることができるなら、この人は倒立像を認識していることになるが、この人は我々が倒立と呼ぶものを正立と見ているので、この人の認識ではこれが正立像となるのである。つまり、同一の像に対して我々は倒立と認識し、この人は正立と認識する。例えば左手を上げるという動作をするとき、もし我々がこの人の知覚をそのまま見とることができるなら、我々には右手を下に伸ばしているように映るのだが、我々が「左手」と言う際に基準にする体性的な感覚と、「上げる」と言う際に基準にする空間的は方向性とは互いに超越的である。つまり像の向きに対して、それを定める「向き」の方向性は超越的な関係にあって、像が正立か倒立であるかは「向き」が定まった後に決まることなのである。結局、この問いが意味していることは「網膜上の像の向きは反転するものとして写る」ということだけであり、これは《向き》に対して何ら実質的なものを含んでいないから、例えばこのことから「網膜に正立像を結んだ方が反転する手間が省ける分エネルギー効率がよく、進化論的にみて適応的であるにも関わらず、実際にはそうではない」などといった問題を導くことはできない。像が反転するものとして現れるのは我々にとってであって、実際に何か脳内に像を反転させるようなメカニズムが存在するわけではない。こういう誤謬は、外部の刺激と我々の知覚を共通の存在領域の現象と見なしたり、あるいは外部の刺激と我々の知覚を互いに没交渉であると見なすにしても、それらの存在領域のやりとりを媒介する存在者が存在すると考えるような存在論的に妥協した試みに由来する。だが、我々が「痛み」の感覚を身体の構造変化から、あるいは「赤さ」の感覚を赤い物体の物理化学的構造から導出することができないように、外部の刺激とそれの知覚とは超越的な関係にある。確かに感覚の強さと刺激の強さには相関があるが、それはどこまでも相関関係であって、因果関係ではない。そしてその相関関係すらも既に見たように、我々が二つの感覚に対して設けるア・ポステリオリな関係であって、我々がそのような関係づけを行うことができるのも、そのような関係付けがなければ感覚の強さというもの自体が意味を持たなくなり、そうなれば結局、感覚が感覚としての機能をなしえないからである。
以上のように、空間の《向き》を問うためには、既に向きつけられた空間が存在することが前提となっている。これと同じことが、先の時間に関する問いにも言えるのである。我々が関心の特殊な様相のもとに存在することができるのは(すなわちこの場合は時間を「問う」ということ)、我々が《時間性》という超越的な場であるからである。この場において様々な存在者のありかたが問題にされているのであるが、時間を「問う」ということは、時間を他の存在者と同様に客体的存在として捉えること、言い換えれば《時間性》という場のうちに現象する一つの存在者として把握することを意味する。これは存在論的な矛盾であるから、時間を「問う」という行為は、実質的には何ら意味のないものなのである。
即自と対自、永遠の超克
意識の問題を自由意志の観点から考えるとき、我々は一つの矛盾を見出すことになる。すなわち、意識は対象をその超越によって把握する一方で、同時に意識はその対象によって即自的な規定を受けているように思われるのである。我々は我々自身が自由であることを否定できない一方で、我々の精神が生まれや環境などによって因果律的な規定を受けていることも否定できない。さらに進化論の観点から見れば、我々の精神すらも他の諸形質と同様にある環境にあって適応的な機能を備えた一つの形質ということもまた否定できないだろう。我々が自由であるということの消極的な意味は、我々は事物的な存在のように因果的な自然法則に従って行動するのではなく、放り出された石が自由落下するように物を考えたり、様々に生活を営んでいるわけではないということである。しかし我々は同時に自然の一部でもあるのだから、我々の行動はすべて因果的な自然法則を逸脱するものではありえないはずである。これが《自由意志のパラドックス》であるが、ここに見出されるのは即自と対自という存在の二つの契機がお互いを規定すると同時に規定されるという超克関係であり、一方の契機からもう一方の契機への絶えざる転換である。一方が他方を規定すると同時に他方によって規定されるというのは、論理的には矛盾である。それゆえこの関係は、《運動》によってのみ適切に表現される。論理がもたらすものは不変の真理、永遠に静的なものでなければならず、真理と非真理は完全に隔絶されている。ハイデッガーが現存在の根本的な存在論的構造を時間と見たのはもっともなことである。《運動》は現存在に把捉された存在者が時間のうちで展開する様態であるからである。このような対自と即自の絶えざる超克関係は、ヘーゲル『精神現象学』において初めて体系的に記述され、サルトルは、これを対自という〈それのあらぬところのものであり、それのあるところのものであらぬ〉存在が、〈それのあるところのものである〉存在へと至ろうとする存在論的に矛盾した試みの形式として捉え直し、またこの形式は他者論では自己と他者間の絶えざる〈まなざし〉の転換として応用された。《運動》とは、〈それのあるところのものであると同時に、それのあるところのものであらぬ〉ような存在者の存在様相である。それは端的に、《存在の病気》である。存在者のそのような病的な存在様相は、それ自体が病的な存在者に対してしか現れない。なぜなら即自的な存在はそれがあるところのものである存在であって、それ以上でも以下でもないからである。ある存在者が自己自身から〈距離をとって〉存在するように現れるのは、それ自体自己自身から〈距離をとって〉存在する存在者、すなわち対自にとってでしかない。その本質が「他」であるような存在者は、自己自身に対しても「他」であるかという問いを通じて、〈他性〉の動的性格を見出したのはプラトンであった。それでは、その本質が「他」であるような存在者とは、一体どのような存在者か。サルトルは対自の実存論的考察を通じてそれが「意識」であることを発見したが、それより以前に、ドストエフスキーは天才的な直覚的洞察によって同じ結論に達していた。「意識は存在の病気である」という観念は、『地下室の手記』において既に垣間見られる。その本質があらゆる存在からの疎外、自己自身に対してすら疎外であるような絶対的他性の人格化が、『悪霊』のスタヴローギンである。物語の終盤、彼のダーリヤへ宛てた手紙に次のような一節がある。「私の内部から流れ出たものは、何らのおおらかさも、何らの力も持たない単なる否定のみでしかなかったのだ。いや、否定すらも流れ出なかったといえよう」。その存在を運動的性格に抗して無理やり規定すれば〈…でないもの〉であるような存在、それが存在するということにおいて既に自己姦通している矛盾者、悪魔的他性という、意識の最も純化した存在様相、それは絶えることのない否定の運動であり、《時間性》そのものなのである。