II -「為す」と「持つ」- 所有(1)

 

存在論がもろもろの行為や欲求について獲得しうる情報は、実存的精神分析にとって、原理として役立つはずである。というのもあらゆる対自の経験は、即自との存在論的関係であるからである。それでは存在論は、我々に何を教えてくれるだろうか?

 

我々が先に見たように、欲求は存在欠如である。このかぎりにおいて、欲求は自分に欠如している存在の方に、直接向けられている。この存在は「即自-対自」であり、「実体となった意識」であり、「神=人」である。それゆえ、人間存在の存在は、根原的に一つの実体ではなくして、一つの体験される関係である。この関係の二つの項の内、一方は根原的な即自であり、これはその偶然性と事実性のうちに凝固させられており、完全な不浸透性と不透明性を持っていて、その本質的特徴は、それが〈存在する〉il est ということ、それが〈現実に存在する〉il existe ということである。他方の項は「即自-対自」すなわち価値であり、偶然的な即自の理想として存在し、あらゆる偶然性や現実存在の、「向こう側」として特徴づけられる。人間存在は、これら二つの存在のいずれでもない。人間は偶然的な即自の無化であるが、それはこの無化の自己が、自己原因へ向かっての前進的自己逃亡であるかぎりにおいてのことである。欲求はこの無化、前進的自己逃亡のかかる努力をあらわすものである。

 

それにもかかわらず、欲求はただ単に「自己原因たる即自」への関係によって規定されるだけではない。欲求はふつう、欲求の対象と呼ばれている只の具体的な現実存在に対しても関係する。それらの観点からすれば、欲求のこの関係は、唯一の型に属するものではないように思われる。事実、幾多の例が示すように、我々はこれこれの対象を〈所有する〉こと、もしくはこれこれの事物を〈為す〉faire(作る) こと、もしくはこれこれの者で〈ある〉ことを、欲するであろう。かくして、具体的な人間的実存の大きな三つのカテゴリー、すなわち「為す」、「持つ」、「ある」が、その根原的な関係において、我々に現れる。

 

それにしても容易にわかることであるが、為す欲求(作る欲求)は、還元不可能なものでは無い。我々が何かを作るのは、この対象とある関係を保つためである。この新たな関係は、直ちに《持つ》に還元されうる。例えば私が木の枝を削って杖にするのは、この杖を〈持つ〉ためである。しかし、科学的研究やスポーツや芸術活動のように、その活動がそのまま直ちに還元可能とは見えない場合もありうる。だがそれらの場合にも、それらの《為す》《作る》は還元不可能ではない。例えば私が一つの芸術作品を作るのは、ある具体的な現実存在の起原において私が存在しようがためである。その作品は、それが私によって作られたという意味において、〈私〉であるとともに、それが対象として私から独立した存在である意味において、〈非-私〉である。要するに、創作欲求は、根原的な企てである存在欲求、すなわち対自がそれであるべき「即自-対自」への欲求の具体的な現れの一つでしかない。意識は自分が製作した作品において、自己自身の存在の根拠であるような対自のありようをとらえ、かりそめの満足を得る。そこには理想的な「即自-対自」への自己投企としての、対自の即自に対する存在論的関係、すなわち「所有」の関係がある。特に自分で製作した作品を自分で享受する場合、それは享受による我有化と創作による我有化という、二重の所有を一つの対象の上にとらえることである。自分自身で製作した作品を身の回りに置くことを好む人々から、「自分で作った料理がより旨い」という場合に至るまで、我々はこの同一の企てが一貫して存在しているのを見いだすであろう。

 

認識することも、やはり我有化の一つである。それゆえ、科学的探究は我有化の一つの努力以外の何ものでもない。発見された真理は芸術作品と同様、〈私の〉認識であるが、一方で真理はその客観的な真実性のために、万人の認識でもある。私はこの真理の対象的な性格のうちに、芸術作品の独立性に類似した一つの独立性を、ふたたび見いだす。けれどもさらに、発見という観念、顕示という観念そのものの内には、我がものにする享受の観念が含まれている。見ることは享受であり、「見る」とは、〈処女性をおかす〉déflorer ことである。もし我々が、認識するものと認識されるものとの間の関係を言い表すのに通常用いられるさまざまな比喩を検討するならば、我々はそれらの比喩の内の多くのものが、「見ることによる一種の凌辱」un certain viol par la vue として示されていることに気づくであろう。 未知の対象は、〈純白〉にも秘すべき無垢なものとして、処女として与えられている。未知の対象は、まだその秘密を《引き渡して》いない。人間はまだこの対象からその秘密を《奪い取って》いない。あらゆる比喩が示しているように、この対象は自分が探求されていることについて、また自分がどんな手段で狙われているかについて、無知の状態にある。この対象は、自分を付け狙っているまなざしには気づかずに、自分の営みに専念している。自然の《未だ侵されざる深み》などという暗黙で的確なこれらの比喩は、かえってまざまざと交接を思い浮かべさせる。人は自然のヴェールを剥ぎ取る arracher les voiles 、人は自然を開示する dévoiler (シラー『ザイスのヴェール』参照)。あらゆる探求のうちには、常に、裸体を覆い隠している邪魔ものを取り除いて、裸体のままさらけ出すという観念が含まれている。アクタエオンが木の枝を取り除いて、沐浴中のディアーナをもっとよく見ようとするようなものである(ギリシャ神話のエピソードの一つ)。さらにまた、認識は一つの狩猟である。ベーコンは認識を「パンの狩猟」と名付けている。科学者は狩人である。科学者は純白の裸体の不意を襲い、これを自己のまなざしで凌辱する。それゆえ、これらの比喩は、我々がアクタエオン・コンプレックスとでも呼ぶであろうところの何ものかを示してくれる。さらに狩猟というこの観念を導きの糸とすることによって、我々は我有化のもう一つの象徴、おそらくそれよりもいっそう原初的な象徴を発見するであろう。原初的だというのも、我々は食うために狩りをするからである。動物の内にある好奇心は、常に、性欲的もしくは食欲的である。認識するとは、眼で食べることである(註:幼児にとって、認識するとは実際に食べることである。幼児は自分の見るものを口に入れて〈味わおう〉とする)。事実、我々はここで指摘することができるが、感官による認識に関しては、芸術作品に関して顕示された過程とは逆の過程が認められる。芸術作品の場合には、我々は作品と精神との間に凝固した流出関係があるのを認めた。精神はたえず作品を生み出すが、それにもかかわらず作品は独立自存し、精神の流出に関していわば無関心である。この関係は認識行為の場合にもそのまま存在するが、認識行為の場合には、この関係はその逆の関係を排除しない。認識するときには、意識はその対象を自己の方に引き寄せ、それを自己に合体させる。認識は同化作用である。フランス語で書かれた認識論の書物には、食物摂取的な比喩(吸収、消化、同化)が、至るところに出てくる。つまり、そこには対象から主観に移っていく一つの分解運動がある。認識されるものは私へと変化し、私の思考となる。けれどもこの分解運動は、認識されるものが依然として同じ場所にとどまっているという事実によって凝固させられる。認識されるものは吸収され、食べられたのだとも言えるし、手をつけられずに残っているとも言える。完全に吸収されながら、しかもそっくりそのまま、外に、小石のように消化されないで残っている。「駝鳥の胃の中の小石」「鯨の胃の中のヨナ(旧約聖書のエピソードの一つ)」など、《消化されない消化物》の象徴たるこの素朴な想像の内に、重要な意味のあることがわかるだろう。この象徴は、非破壊的な同化欲望を表している。欲求がその対象を破壊することは、ヘーゲルが指摘したように、不幸なことである。この弁証法的必然性とは反対に、対自がある対象を欲望するとき、この対象は、完全に私によって同化させられ、〈私〉でありながら、しかも、それ自身の〈即自的〉構造を保つことによって、私へと分解されないようなものであるだろう。なぜなら、まさに私が欲求するところのものは、〈この〉対象であるからであり、もし私がそれを食べるならば、私はもはやこの対象を持たないし、私はもはや私にしか出会わないからである。また、「同化作用」と、依然として元のままの「同化させられるもの」との、この不可能な綜合は、その最も深い根原において、性欲の根本的な傾向と結びついている。事実、肉体的《所有》という言葉において我々が与えるイメージは、たえず所有されるがたえず新たな一つの身体の、いらだたしくもうっとりさせるようなイメージであり、所有はこの身体の上に何ら痕跡を残さない。《なめらか》とか《みずみずしい》という性質が象徴しているところのものは、まさにそのことである。肉体は、それを捕らえようとする愛撫のもとから逃げるように去っていき、水が石を投げられても後からすぐ自己を形成しなおすように、愛撫されながらも自己を形成しなおす。しかもそれと同時に、我々がすでに見たように、愛する側の欲望は、まさに、相手の個性をそのまま保ちながら、相手を自己に合体させることである。言い換えれば、「他者が他者であることをやめることなしに、私である」ようになることである。我々が科学的探求において経験するのは、まさにそのことである。かくして性欲的な根と食欲的な根は一つに結び合って、認識欲求を生じさせる。認識とは浸透であると同時に、表面的な愛撫である。それゆえ、認識欲求は、たとえそれがいかに無私無欲なものに見えるにせよ、やはり一つの我有化的関係である。「認識する」は「持つ」が取りうる形式の一つである。

 

 

「我有化」についての感想、特にその性差の観点から

 
ここではより具体的な例を考えながら、人間存在の根本的な企てである存在欲求が、「持つ」、「為す」、「ある」という三つのカテゴリーに分類されることを見てきた。ところでサルトルが提示した二つの欲求の例について、まったく別の観点から考察することができるように思われる。すなわち、〈創作欲求〉は、対象存在に向かっての自己の精神の流出と、その自己自身への取り戻しという点において、他者への基本的態度の内の〈愛〉に比することができ、〈認識欲求〉の内には様々な契機が見られたが、その主要な契機は他者への基本的態度の内の〈性的欲望〉であるというふうに考えられる。あるいはこの二つは、女性的原理と男性的原理として比較することができるようにも思われる。その場合、認識欲求についての記述に現れた様々な比喩(処女、凌辱、狩り、愛撫等々)は、より重要な象徴性を伴って解釈されるだろう。「見る」という行為が持つ超越的な意義については、他者論についての感想(読後感想3)ですでに触れた通りである。それだけでなく、あらゆる欲望をその特性に応じて分類すると、そこには一つの直線的傾向が現れるように思われる。マズローの〈欲求段階説〉では低次の欲求から順に、(食う、飲むなどの)生理的欲求、(会話、承認などの)社会的欲求、自己実現の欲求と区別される。サルトルが創作欲求や認識欲求を基本的カテゴリーの欲求「持つ」に包摂させ、また認識欲求についてはその中でもより原始的な欲求「食う」に包摂させたように、この欲求段階の形式を存在欲求のうちに当てはめると、それらは低次から高次へ向かって、対象(即自存在)を自己の超越のもとに呑み込む欲求(男性的原理)から、対象(「超越された-超越」すなわち他人)を自己の超越のもとに呑み込む欲求(女性的原理)へと変化する傾向があるように思われる(なお、理想的な最高段階としての自己実現の欲求はここでは除かれる)。
 
 
ところでなぜ、男性的原理と女性的原理は、それぞれにおいてそのような傾向を持つのかということを考えてみると、それは、生物学的な役割の差異に起因していると思われる。周知のように、多くの動物において、雌は「選ぶ性」であり、雄は「選ばれる性」である。このことが認識論的領域においてどのような影響を与えるかといえば、雌は選り好みをしないかぎり確実に子孫を残すことができるわけだから、存在意義をア・プリオリに与えられているわけである。すなわち、雌は部分的に本質を持っており、部分的に自分自身の存在根拠であることができる。一方で雄は雌をめぐる雄同士の競争に勝ち、さらに雌に選ばれることによってはじめて子孫を残すことができる。それゆえ雄は、雄に生まれただけでは存在意義を与えられておらず、自分の存在意義を一から作り出さなければならない。この事情を考慮すると、女性は即自からの転落と対自の絶対者からの転落との、二重の存在脱落であるのに対し、男性はそれに加えて性的関係という対他-存在の次元においても転落しており、三重の存在脱落である。そういうわけで、自己の存在意義を求めてあるべきありかたに苦悩する男性を見て、「男は悲しい生き物である」などと評して、哀れみとも蔑みとも言えぬ冷ややかなまなざしを向ける女性もいれば、苦笑いを浮かべながら何か心に思い当たることでもあるような顔つきをする男性もいるわけである。だが、物事には裏面があるものである。どういうわけか現代では、女性を煽てるような発言に対しては真面目に反論してはならない風潮があるようだが、反論するも何も、少しでも洞察を働かせれば、この発言が示す真理の裏側を見通すことができるだろう。旧約聖書において「救済が近いために、最も打ち棄てられている」のはユダヤ人であったが、この場合は男性である。男性にとっては即自存在からのより深い転落のために、奪われた自己の取り戻しが女性よりさらに喫緊の課題であり、より深刻な存在欲求を持つことになる。女性的な精神がしばしば繊細さ、なめらかさ、可塑性を示す一方で、男性的な精神はしばしば単純さ、極端さ、奥深さを示す。また女性的な精神が社会的欲求を契機とした欲求であるのに対して、男性的な精神は生理的欲求を契機とした欲求であるが、これは自己実現からの存在脱落の深さを表すものであろう。要するに、女性はより多くのものを持って生まれてくるのであり、言い換えれば、男性はより多くの「無」を持って生まれてくるのである。男性のより大きな存在欠如は、より強力で深刻な精神活動の基盤となる。キルケゴールは『死に至る病』で、絶望のどん底まで落ち込むことによって、絶対者による救済を見いだした。そこでは絶望して自己自身であろうと欲しない絶望(弱さの絶望)を女性的な絶望と呼び、絶望して自己自身であろうと欲する絶望(強情さの絶望)を男性的な絶望と呼んだが、後者の方がより深刻な絶望である分だけ、絶対者による救済が近いことを述べている。それゆえ、男性のより大きな存在欠如は、より高い飛躍への原動力としてとらえることができる。一方で女性の存在探求は、たちまち先天的な本質、自然によって予め与えられた存在意義という不透明な霧によって覆われる。それゆえ女性は思索的な探究よりも、この自然によって与えられた先天的直観によって自己のあるべきありかたを捉える。思索の力はこの直観を前にしてはほとんど無いに等しい。古代ギリシャの巫女、古代日本のシャーマンなどのように、歴史的に見てもしばしば女性は神との交信の担い手という役割を果たしてきたが、一部の研究者によって「女性の知恵」と言い表されたところの知識の根源は、そこにある。あるいは俗にいう「女の勘」などというのも、全く根拠のない世俗的な偏見というわけではない。その判断の正しさは、後に全てが明らかになって他人にも認められるのであるが、その判断はまったくの先天的直観に基づくため、あの時なぜその判断をしたのかということは当の女性自身にも分からないことなのである。
 
 
女性的な精神について言えば、それは基本的に、会話欲求、承認欲求、恋愛欲求等々、他者の存在を前提とした社会的欲求を基盤とした欲求ということになる。我々は事実、その典型的な例を女性的な政治運動に見ることができる。彼らが社会的地位の高い職種に女性が就くことを求めるのは、その職種に就くことによって女性がやりたいことをやるためでもないし、賃金格差なるものの是正でもないし、ましてや平等でもない。その真の意味は、まさに女性がその地位に就くこと〈だけ〉にあり、承認や賞賛を得るためだけにある。要するにその究極目的は、他者たちから「認められること」である。それがすべてであり、その他考えだされた種々雑多な理屈はすべて後付けであるから、その政治的圧力や道徳的威力を無視すれば考慮にも値しないものである。実際、賃金格差については、統計学的に考慮しなければならない所得のロングテール、男女が結婚において求めるものの違い、男女のライフスタイルの違い、労働格差、労働時間格差などは都合よく無視するわけであるし、平等についても寿命格差、自殺率の格差、犯罪率の格差、あるいは女性の比率が高い職種等々(特に我が国では、助産師の性別規定すらある)、女性にとって有利と思われるものについては是正しようともしないどころか、場合によってはそれを、男性がより「劣った生き物である」ことの証明として利用するくらいである。寿命の格差は生きる権利だけでなく、年金受給格差にも直結する。バブル世代の「勝ち逃げ」を非難する若者たちは、同様の構造が世代間だけでなく、男女間にもあることにも気が付かないのだろうか。犯罪率の格差は、合法的であるがゆえにより深刻な、人権制限の格差に直結するのだから、性差の社会的因子を研究するのは極めて重要である。
 
「平等」に関してもう一つ例を挙げれば、教育について、彼らはジェンダー論的な観点から男女共学を推進するが(正確に言えば、男子校の廃止を目論むが)、そのことについて、特に考慮しなければならない一つの事実を意図的に無視しているように思われる。つまりそれは、男女の成熟速度の違いである。おそらく性機能に関する生物学的差異(女性には閉経という「年齢制限」がある)のため、一般に女性は男性と比較して早熟である。それは言葉を話し始める時期の違い、思春期の始まる時期の違い、11歳頃に見られる平均身長の「逆転期」の存在、身体的成長の終了する時期の違いなどから、経験的に明らかであるだろう。ところで学校教育において、学習は基本的に積み重ねの形式を取るのだから、最終的な到達能力が同じ場合、早熟である方が晩成であるよりも有利である。要するに、落ちこぼれはより落ちこぼれる傾向があるのである。同じような問題は、早生まれの子どもの場合にもある。4月2日に生まれる子は1日に生まれる子よりも、小学校入学時点で人生を1/6だけ長く生きているのだが、これがどれほどの影響を与えるかは経験が教えるところである。例えばプロ野球選手の誕生月のデータを参照すると、1〜3月生まれが少なく、4〜6月生まれが多い傾向があるが、もちろん早生まれの子が先天的な要因、あるいは後天的な環境によって運動能力が劣っているとは考えられないため、これは誕生日による格差というまったく人為的な要因を反映したものであろう。さて、これと同様の問題が、男女においても存在するのは明らかである。一説には男女の成熟速度の違いは、平均すると同じ性別の場合の2年に匹敵するという。ジェンダー論者は馬鹿の一つ覚えみたいに多様性を連呼するが、もし本当に多様性を尊重する気があるならば、男女共学を「推進」する理由はどこにもないはずである。教育の問題についての彼らの欺瞞は他にも山ほどあるのだが、とりあえずここでは、彼らが男女の成熟速度の違いを意図的に無視、あるいは軽視しているという事実を指摘しておこう。もし男女が逆だったならば、これは現代の様々な問題と同様に問題視されるに違いない。つまり、問題視されないということが、一つの問題である。それらの欺瞞の根源はもちろん、「認められたい」という女性の社会的欲求にある。共学が別学よりも「平等」であるというのは、ただのまやかしである。だがそれがまやかしとして機能するが故に、平等の名の下に自己に有利な条件を密輸入させ、より多くの女性が、彼らのいう「平等な」条件において認められるのである。だがこれらのことは、教育が落ちこぼれを作らないことに重点が置かれている場合は、そのかぎりではない。そのような場合は、女性は相対的に男性よりも多く〈浮きこぼれる〉ことになるが、これは退屈な授業によって利用可能な時間が奪われるという事実を除いては、有利にも不利にもならない。もし識者のいうように、日本の教育が諸外国と比較して「落ちこぼれを作らないこと」に重点を置いているのであれば、日本の格差は諸外国よりはましということになるだろう。都合よく拵えたデータと恣意的な基準、はりぼてな理屈によって構成された彼らの主張は、その嘘や欺瞞、悪意に満ちた内容よりも、その主張に至らしめた根本的な欲求の方に着目すべきである。我々は、彼らの《言ったこと》を馬鹿正直に鵜呑みにするのではなく、彼らの《言おうとしていること》をとらえなければならないのである。
 
 
また、あるコンテンツの発展の経過を見る場合、その象徴的な歴史は次のようなものである。ある社会的に価値の無い活動は、ほとんど男性たちによって担われていた。多くの人々は彼らを蔑んで卑劣な満足感を得る以外には何もしなかったのだが、周囲の目や社会的地位をものともせず、その活動に自身の存在意義を見いだし、その直向きな努力の成果によって遂にその活動の意義が社会的に認められるや否や、女性たちは自分たちもやりたかったのに「排除」されたのだと声を上げるわけである。今では尊敬されるべき職業の一つであっても、昔は変わり者の無益な趣味と思われていたものが多いものである。「男はロマンチスト、女は現実主義者」と言うが、現実主義的な精神は〈大まじめな精神〉esprit de sérieux である。現実主義的な精神は自己の本来のありかたを忘却しようとし、自己の「対他-存在」という対象的なありかたの内に、すなわち「見られる」というありかたの内に、自己を埋没させる。言い換えれば、この精神は「対他-存在」の内に自己の自由を忘却しようとし、自己を客観的な法則に従う一つの〈事物〉ならしめようとする精神である。この精神は徹底して功利的であり、あらゆる物事をまったく現実的な観点から処理し、金銭や地位などの現実的な作用力に執着し、ロマンを軽蔑し、またその定義からして、自己の自由のあからさまな発露である「本気で遊ぶ」という行為ができず、無益な活動に価値を見いだすことができない。この精神にとっては、功利的な動機が全く見いだされないような、精神の自由のあからさまな発露は意味不明であり、「馬鹿」の振る舞いである。一方でこの精神は、人間の社会的役割の観点から見れば、自分の「対他-存在」の一つとして職業的存在に執着する精神であるから、現代人に最も求められている精神でもある。政治家は政治家たらなければならないのであり、店員は店員たらなければならないのである。現代人は幼少期からの教育、義務教育を経て、さらには一般的社会的な価値観に触れて、自己の自由の忘却の技術には長けるようになったが、それでも時には男性は「少年の心」を思い出すのであり、一部の女性もまた同様である。だが一般的に言えば、女性は、先天的に与えらた存在意義およびそこから派生する社会的欲求によって、男性より現実主義的な思考を習慣としているように思われる。事実、ジェンダー論者が言うような「平等」が実現されなければならないとすれば、今現在において、もっぱら男性が行なっているような社会的な価値の無い活動に対する平等化運動が行われなければならないはずだが、実際は行われていない。将来もしこれらの活動の意義が評価されたとき、彼らは何というだろうか。彼らは二重の意味で〈大まじめな精神〉である。すなわち、行為の無償性を理由に価値がないと決めつける点において、また価値のない活動については平等化運動を行わない点において、である。ところで、「自分たちは排除された」という主張についてだが、これは実際のところ、自分たちのやっていることを他者に投影しているに過ぎないのであるが、これらの欺瞞については、女性特有の異性に対する特徴的な性的態度の要因の一つである〈嫌悪欲求〉の観点からも記述することができるだろう。この欲求は思春期の女性や月経期間における諸症状の一つとして主に現れるのであるが、この感情の生物学的意義を説明することができるように、その起源はより深い心理に根ざしているように思われる。この欲求はあからさまな形ではなくても、様々な事例において、コンテンツの生成要因になっている。例えば、「女性限定」という広告が広告たりえるのは、それが女性の異性に対する〈嫌悪欲求〉の観点からでなければ十分に説明することができないだろう。そこには何か、女性を惹きつける積極的な価値があるのであり、それは単に「異性のいない空間が欲しい」という安全欲求からではない。また、ただ「特別扱いされたい」という承認欲求からだけでもない。異性の有害性を排除したいという欲求による説明は、確かに理にかなっているが、だがまさにそのために、この広告が広告として成立する理由を説明することができない。まず第一に、有害性はそれだけでは嫌悪の感情を催させることはできない。我々が有害なものに嫌悪を催すことができるのは、この有害なものの単なる対象的性質と、ある種の道徳的性質を、同一の存在論的カテゴリーに含むことによってである。我々が病人を退けたいと思うのは、病人が病人であるからではなく、病人が〈穢れている〉と感じるからである。もちろんそこには、生物学的な合理的機能があるのであるが、我々はその合理性をまず認識して、その後に隔離したいという欲求を催すのではないため(これは反省的企ての威力を認める点でも不合理である)、それは病人を隔離したいという欲求を説明する理由にはならない。要するにこの場合、問題なのは有害性そのものではなくて、我々が軽蔑的な意味で「おっさん」という言葉で呼び表しているところの、ある種の道徳的性質が問題なのである。第二の理由は、第一の理由とも関わってきるが、つまりこの場合、女性が嫌悪するのは異性の有害性ではなく、異性の存在そのものだからである。異性は、自身を構成する属性の一つとして有害性を持つものとして、現れるのではない。そういう分析的な把握ではなく、むしろ異性はこの場合、有害性そのものとして現れるのである、いわゆる「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、「坊主」が「袈裟」を着ているという分析的な把握が習慣的なものとなって、「坊主=袈裟」という把握に至ったものだが、この場合はそうではない。まず、女性は「異性」を嫌悪するのであり、後の分析的把握によって「異性」が自身を構成する属性の一つとして、「有害性」を持つものとして現れるに過ぎない。要するにこの場合も、判断の基準は理性的なものではなく、女性の直観である。

身近な例を挙げれば、例えば漫画やアニメ、映画といった娯楽コンテンツにおいて、それが男性向けに制作されたのと女性向けに制作されたのとでは大きな非対称性がある。つまり、一般的に特定の性別向けに作られたコンテンツは、その性別の登場人物の割合が多いのだが、女性向けの場合にはそれが特に顕著である。この傾向はしばしば、女性向けコンテンツの一大要素である「恋愛」によって覆い隠されているのだが、少しでも注意深く分析すればこの傾向を見て取ることができるだろう。例えば女児向けのアニメでは主要な登場人物がほとんど女性キャラであり、OPやEDも女性が歌う場合が多いのに対して、男児や少年向けのアニメでは複数の女性キャラが登場し、OPやEDも女性が歌う場合が珍しくない。以前、少年漫画の男性漫画家と少女漫画の女性漫画家の格差について不満を述べていた記事があったが、そもそも男と女というだけで機械的に対称性を仮定するのが的外れであり、そういう場合には俗に言うように「別の生き物」であると考えた方がよい。結局のところ、待遇に格差があるのは売れないからであり、他責思考に陥る前に、一般的に少年漫画に比べて少女漫画がどれほど排他的で魅力が乏しいものとして映るかを考えてみるべきである。少年漫画は今や、中年が読んでても女性が読んでてもおかしくはない。それに対して少女漫画はどうだろうか?異性のいわゆる「大きなお友達」に対する反応は、両者の非対称性を象徴する。少年漫画はその少年漫画としてのアイデンティティを保ちながらも、世代やジェンダーの枠を超えた大きなコンテンツとなっている。例えば『名探偵コナン』や『鬼滅の刃』は、明らかにそのようなファン層を意識したキャラクターが登場している。一方で少女漫画においては、異性の「大きなお友達」に対して排他的な傾向がある。彼らにとって少女漫画は女性が主体性を持った作品であるのだから、そこに男性が入ってくることは女性の主体性を奪うものと考えられるわけである。そのような精神上の余裕のなさが、女性向け漫画の脱恋愛化、政治化、および批評を拒むような傲慢さとして表出するのである。いつだったか、『プリキュア』に男の子が出てきて、時代の先をいくアニメ扱いされたことがあったが、よく考えてみるべきであろう。むしろ男の子が出てきたくらいで話題になること自体がおかしいのであり、時代の先をいくどころか周回遅れでは無いだろうか?なお、女性Vtuberグループのファンや腐女子などはどうなのかという反論がありそうだが、それはアイドル論の文脈で別に扱われるべき事例であるように思われる。「世界観に相応しいかどうかに観点があるので、男性を排除しているわけではない」などという擁護は何の擁護にもなっていない。それは結局、「無意識に排除したい欲求があるので、排除することに問題はない」と言っているにすぎない。実を言うと、そもそもそこに問題はないのである。だが、単なる比率と付け焼き刃の理屈をもって、世の中のあらゆる事象にいちゃもんをつけ始めたのはジェンダー論者たちなのであるから、火をつけるなら差別せずに徹底的にやれというだけの話である。それにしても、比率だけしか見ないようなこの種の皮相的な研究は、いかにもジェンダー学が好みそうなものなのだが、「萌え絵」やギャルの描かれ方には干渉してもこのことにまったく関心が向けられないのは、彼らがよほど馬鹿だからなのか、さもなくば、初めから女性に不利な結論が出そうな研究はしないと決めてかかってるからだろう。
 
 
表現とジェンダーに関しては、もう一つ、興味深い事例がある。もともとが女性を指す言葉は男性を指す言葉よりも、意味の広がりにおいて排他的であるように思われるが、これはなぜだろうか?例えば英語の man や代名詞 he(最近ではあまり見られないが性別を特定しない用法があり、今でも慣用句などで見られる)、ラテン語の Romani (文字通りには、ローマの男たち)、日本語では兄弟、弟子、等々。名詞に性がある言語では、性別を特定しない場合は男性形で表すのが基本である。同様に、日本語で単に「兄弟」といった場合は、その構成員の性別の内訳は不明であり、構成員がすべて女性の場合にのみ「姉妹」という表現が使われる。「この野郎」という悪口に含まれる「野郎」はもともと男性を指すのであるが、今では性別を表さない用法もあり、対義語である「女郎」と比べてはるかに使用頻度が高い。「痴漢」はもともと男性を指す言葉であるが、特定の行為までを表すその意味的派生力によって、女性が行う場合でも「痴女」ではなく、「逆痴漢」と言われるほどである。これらの例から示唆されるように、一般的に女性を指す言葉は意味的な拡散力が弱く、逆に言えば排他性が高い。例外はごく少数である(例えば「ギャル」は girl が語源だが、「ギャル男」という用例がある。「やもめ」は配偶者を失った者の意だが、「め」は「女」の意だろう)。一見そのように見えるものも、実際は逆の推移関係である場合が多い(例えば「私」は女性の一人称だが、性別を問わない用法もあり、もともとはこちらである)。このことと関連する現象として、「女神」は現代でも普通に使われる一方で「男神」はほとんど使われないこと(「男神」の場合は単に「神」と表現される)、「女優」は「男優」よりもより広い範囲で使われる単語であること(「男優」という表現が使われるのは、主に映画賞やアダルトビデオの場合である)などがある。これらの現象の理由を簡潔に言ってしまえば、要するに、男と女は対義語ではないからである。先に言ったように、女は男よりも多くのものを持って生まれてくる。女が「女性」という属性を持って生まれてくるように、男は「男性」という属性を持って生まれてくるのではない。つまり、人間の原型が男なのであり、人間の原型に女性という属性が加わったものが女である(これは生物学的な発生過程と対照的であるが、帰するところは同じである)。これを先の言語現象に照らし合わせれば、男性を指す表現は意味欠如を含んでおり、この欠如が満たされるか満たされないかは、まだ表現された時点では定まっていない一方で、女性を指す表現はすでに意味が充足されており、その表現によって示される対象が定まっている。そのため二つの言語表現の意味的拡散力の相違が生じるのである。それゆえ、男と女という言語表現は存在論上、適切ではない。胎児の性別判定が、凸性器の有無によって〈男〉か〈男でない〉かが判断されるように、存在論的には〈女〉か〈女でない〉かが存在するのみである。それは言語にかぎらず、図形や絵など、あらゆる表現に関して各々が経験を反省してみれば分かることであろう。例えば、意識が向けられる対象の背景を構成する不特定多数の人物、人間の原型としてしか描かれない灰色のモブは、何を意味するのかを考えてみればよい。また、女性を主体にした活動が行われるのと同じようなしかたで、男性を主体にした活動が行われることがないのも、これが理由である。男性という属性は、女性という属性がそれ自体の価値を積極的に持っているようなしかたで、価値を持っているわけではない。それゆえ「男性限定」という言葉は、あえてわざわざ言及しなくてもよいような、そういった余計な響きが感じられるわけである。同様に、ミステリーなどの叙述トリックで、女を男に誤認させるよりも、男を女に誤認させるパターンの方がはるかに少ないのも、これが理由である。前者では読者に与えられる対象は人間の原型であり、読者は思索によって女性という属性に辿り着き、これに付加しなければならない。一方で後者では、読者に与えられる対象は人間の原型と女性という属性であり、読者が真実に辿り着くためには、すでに与えられた対象の内の一方を取り除けばよいだけであり、これは容易である。言語表現上の対称性から、存在論的対称性を自明なものとしてひき出してしまうのも、やはり実体論的錯覚の一つである。もちろん、これら様々な現象が一つの原因によって説明されるわけではない。言語的な例ならば、他にも言語の成立における純粋な歴史的背景、音韻的法則、その言葉が使われる状況(言語学的位相)なども考慮しなければならないだろう。だがそれらの要因を考慮しても説明できない現象については、諸対象の象徴的意味や男女の存在論的相違の研究といった精神分析的方法によって探究される意義があるように思われる。
 
 
ところで、女性が男性と比較してより社会的欲求を抱く傾向があるというのは、日常の些細な文句のうちにも見いだされる。「女は愛されてなんぼ」というのは、男性にとって愛されることは努力の目的なのに対し(先の欲求段階を参照)、女性にとって愛されることは努力の条件であるという意味である。ある学習塾の先生によれば、男児は褒めると努力を怠る傾向があるので少し厳しく接するが、女児は褒めて伸びる傾向があるのでより優しく接する場合が多いのだという。「男性は眼で恋し、女性は耳で恋する」などという俗物的な言い回しも、まったく真理を含んでいないわけではない。視覚や触覚は純粋な対象性の感知であるが、「声を聞く」ことは同じく対象性の感知であるとはいっても、話すことのできる超越的存在を前提とするからである。そういうわけで、一般的に女性はより孤独を感じやすい傾向があるといっても言ってもよいだろう。欲求段階説では低次の欲求が満たされることでより高次の欲求が現れると主張するが、これに従えば、男性は、女性ではア・アプリオリにある程度満たされていた欲求を一から満たすことによってしか、孤独を感じることができないということになる。要するに、男性はもともと孤独な生き物である。
 
もちろんこれは、女性の孤独がより大きな問題であることを意味しない。確かに一般的に言えば、男性はより孤独を感じにくい傾向があるとはいっても、例えば配偶者との離別や社会的疎外などによって、一度は低次の欲求の充足に付随して満たされていた社会的欲求が欠如として現れるならば、その精神的な深みによってはるかに思い詰める結果となり、男性に対して極端で思い切った行動をさせる原動力となるだろう。だが、それでも、女性の孤独が慢性的な問題であるのは事実である。20世紀以降のフェミニズムの台頭は、資本主義的な分業化や核家族化の進行によって女性の〈孤独化〉が進んだことが根源にある。「認められたい」「共感されたい」等々からも分かるように、女性は根源的な企てにおいて、「見られる」ことを欲する。けれども、それは「私を見る-超越」を私が超越するかぎりにおいてであり、言い換えれば他者の超越に手放した自己の対象を、他者の超越ごと自己の超越において取り戻すかぎりにおいてである。だが、他者との関係論において見たように、この取り戻しを可能にするのは《愛》である。〈孤独〉はこの取り戻しを不可能にする。それゆえ女性はただ「見られる」だけとなる。先に見たように、「見られる」ことは一種の凌辱であるから、結局、女性は自己自身の欲求によって凌辱されていることになる。フェミニズムに対して感じる奇妙な倒錯の原因は、ここにある。身近な例で言えば、女性たちはなぜ「見られたくない」はずなのに、わざわざ「見られる」ような格好をするのかという疑問の答えが、これである。これに対して今更、「いや、一つの思想が拡散するのは、その思想の理論的な正しさによってである」などと主張する者はいないであろう。すでに我々が見たように、反省的思考は根源的な企てに何の影響も与えず、むしろ反省的思考が行為の〈動機〉として捉えられるのは、根源的な企てのうちにおいてである。事実、フェミニズムは実存主義、共産主義、構造主義、ポストモダンの思想等々から、利用できる概念は何でも取り入れてきたが、それはこの思想が柔軟さに富んでいるからではなく、そもそも一貫した内容がないからである。一貫した内容がないのは、この思想が初めから自己欺瞞を犯しているからである。先に述べたように、この思想は決して〈平等〉を望んでいたわけではない。この思想にとっては女性たちが認められ、賞賛されることという〈結論〉が先に与えられており、平等はそこに至るための手段でしかない。それゆえ手に入れた平等が望み通りの結論を出せないとなるや否や、また新しい手段を案出しなければならないわけである。実際、平等には色がないのだから、ときには手に入れた平等によって自分たちに不利な結果になることもあるだろう。だがその場合には、今まで主張してきたところの平等を平気で投げ捨てて、〈自由〉だの〈公平〉だのといった別の手段に縋り付くのである。「自立したい」などというのも嘘である。本当のところは、手助けしてもらいながらも、自他ともにそれを手助けと認識しないで、自立した人間として「認めてほしい」ということである。そういうわけで、もし思想の拡散がその思想の理論的な正しさによって決まるのならば、この思想はとうの昔に滅んでいなければならないはずである。
 
 
それにしても、世俗的なものはいつも物事を単純化する。世俗的な判断は短絡さ、単純さ、実体論的錯覚の宝庫である。政治は、特に民主主義においては、世俗的なものの内でも最も世俗的なものである。実際、政治はフェミニズムの台頭を社会的制度の欠陥によるものと捉え、女性たちの要求に応じてその改革を実行した。つまり政治は、制度的な平等と平等意識の相関を素朴に期待していたのである。この判断はあまりに世俗的である。この両者の相関については経験的には否定される一方で、厳密な研究はなされていないが、例えば韓国の若者を対象にした性差意識についての調査を見ると、両者の相関は期待できないように思われる。
 
世の中は世俗的なものに溢れている。ちょっと街中へ出てみれば、そこらじゅうに様々なポスターが見られるが、そこに書かれている美辞麗句のどれもが、世界内対象と諸心理の相関を素朴に前提している。世界のありかたが変われば、それに応じて人間も変わるというわけである。だが技術の発展も、新薬の開発も、利便性の向上も、それ自体は何ものでもないし、それによって我々が「より生きやすくなる」わけでも、「より幸せになれる」わけでもない。「誰もが生きやすい社会を」というのはいかにも政治的なスローガンであるが、そこには二重の欺瞞がある。まず第一に、この言葉の関心は特定の層(主に女性や弱者と言われる人々)に向けられており、その他の集団は背景として存在するにすぎない。「女性や障害者は弱者だから当たり前ではないか」という反論もあろう。なるほど、ではまず、その「当たり前」から疑ってかかるべきではないか?「社会の当たり前を疑う」というのは、彼らが大好きな言葉だったはずである。第二に、生きやすさを決めるのは個人一人ひとりの自由であって、政治家ではないということである。確かに容姿や金銭など、統計的な観点から見れば「生きやすさ」と相関する指標もあるが、それも結局は差し当たりなものであり、そのような蓋然的な評価を以て、「誰もが」という例外を認めない主張をするのはとんだ飛躍である。もし彼らの政策によって「生きやすくない」と主張する国民が現れるなら、彼らは何というだろうか?おそらく手のひらを返して「それは今までの特権を当たり前だと思っていた、君たちの意識の問題である」と主張するだろう。これは全く筋の通らない主張ではあるが、その内容だけを見れば、まさに意識という急所をとらえた点において、彼らは真理を言っているのである。
 
実際、これまでの歴史上、何度「こんなはずではなかった」を経験しているか数えきれないほどなのであるが、それでも対象と諸心理の機械的相関という、この強力な錯覚からは抜け出すことができていない。世の中のあらゆる変化は、それ自体としては、我々の精神に良い影響も悪い影響も及ぼさない。むしろ世の中の変化に意味を与えるのが、我々が世界を超出する際の根源的な存在投企のありようである。とにかく我々は、対象と心理とを機械的に相関づける癖を捨て去らなければならない。例えば「日本は安全で、物質的に豊かで、教育水準も高くて、自然にも恵まれているのに、なぜ日本人は幸福を感じず、自殺が後をたたないのか?」という疑問は、まさに対象と心理との機械的相関を前提とした疑問である。だがここまでの記述から、この疑問文の中にある逆接「のに」は、何の意味も持たないことがわかるだろう。同様に、その物質的豊かさの程度から日本人がアフリカの人々より「恵まれている」と考えるのもナンセンスであり、精神的な困窮を「ぜいたくな悩み」などというのもナンセンスである。それはせいぜい、苦悩している人が自己の悩みを超越させ、相対化させるための方便として役に立つ程度である。だが、このような理屈は世俗的な説得力を持っているがゆえに、巷に溢れている。とにかくどんな時にも、我々はまず、自分たちが《自由》であることを自覚し、世俗的なものに埋もれないようにしなければならない。サルトルの自由論は、世俗的な物の考え方に慣れた人たちからすれば、厳しいものに映るだろう。だが、自己の実存探究に弛みなく取り組む人たちからすれば、それはいかなる環境であろうとも、いかなる状況であろうとも、自分によって為された判断は、自己の絶対的な自由のもとに、自己の全責任のもとにおいて引き受けられなければならないことを保証するものであり、それは自分の判断に基づいて、また自分の判断だけによって自由に生きようとする人々を鼓舞するものである。