III-存在を顕示するものとしての性質について

 

ここでは、ただ単に、事物に関する一つの精神分析を試みることが問題である。ある存在者が対自に対して顕示されるとき、「存在する」ということ以外のいかなる属性も持たないような裸の実在として現れるのではなく、その存在者は常に、色、匂い、触感といった、複数の属性の混合体として現れる。こういったからと言って、まずはじめに「存在」という器があって、次に、様々な性質を付帯する属性が付着していくなどというのではない。それは典型的な実体論的錯覚である。むしろ、対自の自由が、具体的な状況における具体的な選択として自己の全体を表すのと同様に、各々の存在者はその具体的な属性の混合体というありかたにおいて、自己全体を対自に提示する。レモンの黄色は、レモンを構成する一つの性質ではない。レモンの黄色は〈レモンである〉。それにしても、存在者の〈性質〉というものは、どこから由来するのだろうか?それは即自に由来するものではあり得ないだろう。もし即自に由来するのであれば、私はこの性質を対象的なしかたで他者に提示することが可能であるが、実際、私は、私が見ている赤の〈赤さ〉や、このレモンの〈酸っぱさ〉を対象的に提示することができない。要するに、それを〈伝える〉ことができない。一見伝えられたように見えても、それは言葉や何らかの量的指標を通じて、他者の内に、他者自身によって創造された私の感覚の模倣であり、両者を比較するいかなる客観的基準も存在しない。それだけでなく、我々はしばしば物質的な性質を比喩として用いる。だが、比喩が比喩として成立するためには、比喩に用いられたものと比喩によって表現するものとの何らかの存在論的な類似がなければならない。しかもそれらは個人個人でばらばらなのではなく、〈間主観的〉という苦渋の用語を案出しなければならないほどの一般性、普遍性を持っている。例えば、「雪が融ける」という現象について、我々は「融ける」という言葉が指示する意味作用の広がりを見ることができる。「お金が融けてなくなる」「私は泳いでいる。私は水に融け込む」「ある観念は《雪だるま》を形成するが、他の観念は融けてしまう」。我々は本書の第二部以来、性質そのものの内において、企てと事実性との不可分を強調した。事実、我々はこう書いた。「性質がそこに存するためには、もともと存在ではあらぬ一つの無にとって、存在がそこに存在するのでなければならない。…性質とは、そこに存するということの範囲内で自己を開示する、その存在全体である」それゆえ、我々は性質の意味作用を即自存在のせいにするわけにはいかない。というのも、諸性質が存在するためには、すでに、この《そこに存する》がなければならないからであり、言い換えれば、対自の無化的な仲介がなければならないからである。だが、以上の考察から出発して容易に理解されることであるが、性質の意味作用は、今度は、《そこに存する》の裏付けとしての何ものかを指し示す。というのも、まさに我々は、絶対的に即自的にあるがままの存在へ向かって、《そこに存する》を超出するために、性質を拠りどころにするからである。そういう意味において、性質をとらえる時には、その度ごとに、そこに、我々の条件から脱出するための、《そこに存する》という無の覆いを突き破るための、そしてまったく即自にまで侵入するための、そして、その侵入を通して、「即自=対自」という根原的な企てを実現するための、形而上学的な一つの努力がある。だが、明らかに、我々は「全体的にそこに、我々の前にありながら、しかも、全体的に脱れ出る一つの存在」の象徴としてしか、性質をとらえることができない。言い換えれば、我々は即自存在の象徴として顕示された存在を、即自存在に作用させることしかできない。このことはまさに、《そこに存する》の一つの新たな構造が構成される、ということを意味する。この構造は意味指示的な層であるが、一つの根本的な企ての絶対的な統一の内に顕示される層である。それこそは我々が、存在のあらゆる直観的顕示の形而上学的含有度 la teneur métaphysique と呼ぶであろうところのものである。しかもそれこそ我々が精神分析によって到達し、開示されなければならないところのものである。黄色いもの、赤いもの、つるつるしたもの、ざらざらしたものの形而上学的含有度は何であるか?また、これらの基本的な問いの後に立てられるであろうが、レモン、水、油、等々の、形而上学的係数 la coefficient métaphysique は何であるか?「ある人がオレンジを好み、ピーマンを嫌うのは、なぜか?」などといったことの理由を、精神分析がいっそう理解しようと思うならば、以上のような諸問題を、精神分析はみずから解決しなければならない。

 

 

事物の性質は即自存在に由来するものではあり得ない。だが一方で、例えば、我々は事物を照らし事物を彩るために、事物の〈うえに〉、我々の気分的な性向を《投影する》のだと思い込むところに存する誤謬もある。事実、まず第一に、一つの感情は決して内的な性向というようなものではなく、むしろ自分の何であるかを自分の対象によって自分に知らせる対象化的、超越的な一つの関係である。けれども、それだけではない。「一つの風景は一つの心境である」というような言葉によって代表されるような〈投影〉による説明は、論点先取の虚偽である。例えば我々が、「ねばねばしたもの」と名づけるこの特殊な性質を例にして考えてみよう。この性質は単に一つの物質的な属性だけを表すのではなくて、いろいろな人間的、道徳的な意味合いを含むものであるが、これらの意味合いは、容易に存在関係に還元されうる。ある微笑はねばねばしている。ある思想、ある感情はねばねばしている、等々。普通の考えによれば、まず一方で私は、私にとって不快で許しがたいある種の行為や道徳的態度を経験し、他方で、私はねばねばしたものの感覚的直観を持っている。私は後から、それらの感情と物質的なねばつきとの間に、一つの結びつきをうち立てる。そうなるとねばねばしたものは、それらの感情や人間的態度の分類全般の象徴として作用するであろう。こうして私は諸存在の抽象的な形式の一つとして「ねばねばしたもの」というカテゴリーを構築するであろう。だが、このような説明をどうして承認することができるだろうか?ある種の感情と物質的なねばつきとの間には、いかなる共通点も存在しない。かたや、ある種の価値やある種の結果に関して非難されるべき、全く広がりを持たない特殊な性向としてしか自己をあらわにせず、もう一方はある種の物質的性質としてしか自己を与えないのであるから、そのかぎりにおいて、このねばねばしたものがある種の心的単位たちの象徴的代表として、かりそめにも選ばれるなどということは到底考えられない。要するに、「ねばつき」と個人のべたべたした「いやらしさ」との間に、一つの象徴的関係を意識的にはっきりとうち立てるためには、我々はすでにねばつきの内にいやらしさを、またいやらしさの内にねばつきを、把握しているのでなければならないであろう。したがって、投影による説明は何ごとをも説明してくれない。というのもそれは、説明しなければならないところのものを、前提としているからである。さらに投影による説明は、この原理的な異論の他にも、経験から引き出される別の重大な異論に出会うことになるだろう。事実、投影による説明の意味するところよれば、投影する主観は経験と分析によって、「ねばねばしたもの」と自ら名づけるところの諸態度の、構造や諸結果についてのある種の認識に到達したことになっている。こういう考え方でいくと、事実、ねばつきへの依拠は、人間的ないやらしさについての我々の経験を、決して一つの認識として豊富にさせてくれるものではない。また他方で、物質的な性質としての「ねばつき」は我々にとって、実際には有害なものとして現れることができるにしても(というのもねばねばした物質は、手や衣服にくっつくからであり、それらを汚すからである)、〈嫌悪をもよおさせるもの〉として現れることはできないであろう。事実、我々はねばつきというこの物理的性質と、ある種の道徳的性質を混淆することによって出なければ、ねばつきが吹き込む嫌悪を説明することができないであろう。したがって、ねばつきの象徴的価値を学習するための修行のごときものが、そこあるのでなければならない。だが我々の経験が教えるところでは、ごく幼い子どもたちでさえも、ねばねばしたものの現前で、あたかもこのものが心的なものによってすでに汚染されているかのように反撥を示す。また我々の観察が教えるところでは、子どもたちは話をすることができるようになるや否や、《柔らかい》とか《低い》などという語が感情の記述に適用された場合の価値を〈理解する〉。以上のことからして、我々はねばねばしたものの持つ心的象徴としての価値を、単なる物理的性質としてのねばつきから引き出すこともできないし、また反対に、特殊な心的態度についてのある認識から出発して、物理的性質としてのねばつきに、この意味作用を投影することもできない。諸対象の物質性が、原理上、依然として意味指示を持たないにもかかわらず、それらの諸対象に対する我々の嫌悪、憎悪、共感、魅惑などによって表現されるこの計り知れぬ普遍的な象徴体系を、我々はいかにして考えなければならないだろうか?

 

この問題を解決するために、一旦、根原的な企てに立ち戻ろう。根原的な企ては我有化的な企てである。したがって根原的な企ては、ねばねばしたものに強いてその存在を顕示させる。存在への対自の出現は、我有化的な出現であるから、知覚されているねばねばしたものは、《所有されるべきねばねばしたもの》である。私は、このねばねばしたものが理想的に私自身であるかぎりにおいて、私はねばねばしたものの存在根拠であろうとする。それゆえ、そもそもの初めから、ねばねばしたものは根拠づけられるべき一つの可能的な私自身として、現れる。要するに、初めからねばねばしたものは〈心的にさせられている〉。この心的な意味作用は、ねばねばしたものが即自存在に対して持つ象徴的な価値と、一つのものでしかない。ねばねばしたものにそれらの意味作用を与えるこの我有化的なしかたは、それが自由の企てであるにせよ、一つの本格的なア・プリオリと見なされうる。なぜならこの我有化的なしかたは、ねばねばしたものの存在のしかたに、すなわち状況に依存するものではなく、ねばねばしたものの単に「そこに-ある」にのみ依存するからである。けれども、ねばねばしたものが現れ、そのねばつきを繰り広げるのは、まさにこの我有化的な企ての内においてである。それゆえこのねばつきは、我有化の求めに対する一つの答えであり、すでに〈自己贈与〉である。だが、このねばねばしたものが与える答えは、問いに対して完全に密着しているが故に不透明であり、解読不能である。それでもこの意味作用は、ねばねばしたものが現に世界をあらわにするところのものであるかぎりにおいて、即自存在を我々に引き渡し、また、我有化がねばねばしたものを根拠づける一つの行為ともいうべき何ものかを粗描するかぎりにおいて、我々自身の粗描を我々に引き渡す。それは、当の即自存在が完全に取り戻された場合に実現される、我々の理想的な「即自-対自」としてのありかたである。それでは、ねばねばしたものによって象徴される理想的な「ありかた」とは、いかなるものであろうか?私はまず、それが等質性であり、流動性の模倣であるのを見る。すなわち、それは永遠性であるとともに、無際限な時間性である。けれどもねばねばしたものは、本質的に曖昧なものとして、自己を顕示する。というのも、ねばねばしたものにあっては、流動性は緩慢に存在するからである。それは、液体に対する固体の勝利の兆しを表すものであり、単なる固体の無差別な即自が、液体性を凝固させようとする一つの傾向、すなわちかかる無差別的な即自が、この即自を根拠づけるはずの対自を、吸収しようとする傾向を表すものである。それは水の苦悶である。それは生成の途上にある一つの現象として自己を与えるものであり、ねばねばしたものが表すこの凝固した不安定は、所有の意気込みを挫く。なるほど、水はいっそう逃亡的である。けれども、水が逃亡的であるかぎりにおいて、我々は水の逃亡そのものの内に、水を所有することができる。たらい一杯の水に垂らされた一滴の水は、直ちにたらいの水に同化する。ねばねばしたものは鈍重な逃亡であり、それが逃亡であるかぎりで自己を否定するために、この逃亡そのものは所有され得ない。この逃亡は、ほとんどすでに、固体的な一つの恒常性である。《二つの状態の間の実体》というこの曖昧な性格を立証する何よりの証拠は、ねばねばしたものが自己自身と融け合う時の遅さである。水の一滴は水面に触れるや否や、直ちに同化して水面となる。我々はこの働きを、水面がまるで水滴を口で吸い込むような有様としてとらえるのではない。むしろ個別的な存在が自分の出てきた元の大いなる全体におのずから解消される時の、一つの精霊化、一つの非個別化としてとらえるのである。水面の象徴はこの汎神論的な図式の構成において、重要な役割を果たしているように思われる。水の流動性は対自のたえざる逃亡の象徴であり、それ自身その存在を保ったまま二度と同じ姿を取り戻さない有様は生命の象徴である。意識の持続的な性格を最初に指摘した心理学者たちは、しばしば意識を一つの河になぞらえたくらいである。だが、それ自体と融合するこのねばねばしたものの内には存在の全体へと消滅することを欲しない個別者の拒否ともいうべき、一つの明らかな抵抗が存在すると同時に、その究極の結果に至らしめられる一つの柔らかさが存在する。なぜなら、〈柔らかなもの〉とは、途中で停止している一つの消滅に他ならないからである。柔らかなものは、その半-流動的な抵抗によって、何よりもよく、我々自身の破壊的な能力とその限界をまざまざと見させてくれる。水のとらえがたさそのものの内には、水に金属的な密かな意味を与えるような一つの非常な堅さがある。要するに水は金属と同様、圧縮され得ない。ねばねばしたものは圧縮されうる。それゆえねばねばしたものは、我々が所有することができる一つの存在という印象を与える。それは二重の意味でそういう印象を与える。まずその粘着性は、ねばねばしたものの逃亡を妨げる。それゆえ私はそれを手で掴むことができ、したがってまた不断の創作によって一つの個別的な対象を作り出すことができる。けれどもそれと同時に、私の手の中でぐちゃぐちゃになるこの実体の柔らかさは、私がたえず、これを破壊しているという印象を与える。そこにはまさに「創作-破壊」の姿がある。ねばねばしたものは〈従順〉である。しかし、私がそれを所有していると思っているまさにその瞬間に、奇妙な転換が生じて、ねばねばしたものの方が、逆に私を所有する。ねばねばしたものの本質的な性格が現れるのは、そこにおいてである。その柔らかさは、吸盤の働きをする。私の手の内にあるものがもし固体であるならば、私はいつでも好きな時にそれを手放すことができる。固体が持つこの対象の惰性は、私の全能を象徴してくれる。私はこの対象を根拠づけるが、この対象は私を根拠づけはしない。即自をそれ自体の内に集約させるのは対自であり、自らを危うくすることなしに即自をそれがあるところのものたらしめ、自ら依然として同化的創作的な能力のままにとどまっているのは、対自である。即自を吸収するのは、対自である。言い換えれば、所有は《即自-対自》という綜合的な存在のなかにおける対自の優位を肯定する。けれどもねばねばしたものは、この関係を逆転させる。対自は突如として、危機に巻き込まれる。私はねばねばしたものを手放そうとするが、それは私にねばつき、私を吸い込もうとする。ねばねばしたもののありかたは、安心していい固体の惰性でもなく、あくまでも私から逃げ去る水の動態のごとき流動性でもない。そのありかたは、吸い込みという柔らかくねちっこい、女性的な一つの働きである。ねばねばしたものは私の指の下で曖昧に生きる。その姿は深淵の底が私を惹きつけるときのように、私をそれ自体の内に惹きつける。そこには、ねばねばしたものの触覚的な魅惑ともいうべきものがある。私はもはや、ねばねばしたものの私に対する我有化の過程を、自由に停止させることができない。この過程は持続する。ある意味において、このことは所有されるもののこの上なき従順さであるとも言えるし、我々がもうたくさんだと思っても構わずついてくる犬の従順さに似ている。けれども別の意味においては、この従順さのかげに、所有されるものが所有するものを我有化しようとする陰険な企みが潜んでいる。ここにおいて我々は、突然あらわになる象徴を見る。つまりそこにあるのは、毒のある所有である。そこには即自が対自を吸収するかもしれないという可能性、言い換えれば、対自がうち立てる《即自-対自》というありかたに反して、ある一つの存在が構成され、即自はその偶然性のなかに、その無差別的な外面性のなかに、その無根拠な現実存在のなかに、対自をひきずりこむかもしれないという可能性が潜んでいる。私は突然、ねばねばしたものの罠をとらえる。それは私を引き止め、私を巻き込む流動性である。私はこのねばねばしたものの上を〈滑る〉ことができない。そのすべての吸盤が私を引きとどめ、蛭のようにまとわりつく。それにしても、滑走は、固体における場合のように、単に否定されるのではなく、それは程度が下落するのである。ねばねばしたものは一見、滑走に同意するかのように見える。ねばねばしたものは私に滑走を促す。なぜなら静止状態にあるねばねばしたものの広がりは、極めて濃厚な液体の広がりと、さして異なることがないからである。だが、それは一つのまやかしである。滑走は滑る実体によって〈吸われ〉、しかも私の上に痕跡を残す。それは悪夢の中に出てくるどす黒い液体のようなもので、そのすべての特性が一種の生命を帯びていて、私に対して反抗するかのように見える。ねばねばしたものは即自の復讐である。それは別の次元では「甘ったるい」という性質によって象徴される女性的な復讐である。味の甘さとしての甘ったるいもの、ー飲み込んだ後でも口の中にいつまでも残っていて、なかなか消えない甘さーは、ねばねばしたものの本質を完全に表現する。

 

ねばねばしたものの内への溶解は、それだけで、すでに恐るべきものである。というのもこの溶解は、紙がインクを吸収するように、即自が対自を吸収するからである。それは単に事物へ吸収されるからという意味ではない。もし私が完全な液体化を、私自身の水への変化を思い浮かべることができたとしても、私はそのことにひどく悩まされはしないであろう。水は意識の象徴であるからである。その運動、その流動性、その連帯的ならざる連帯性、その不断の逃亡、等々、それは意識の有様を連想させる存在である。だが、ねばねばしたものはある忌まわしい姿を呈示する。意識にとって〈ねばねばしたもの〉になるとは、それだけですでに忌まわしいことである。それは柔らかな粘着であり、しかもそれらのすべての部分の吸盤によって、各々の部分との陰険な連帯性、共犯性であり、自己を個別化するための各々の部分の柔らかでとりとめもない努力にもかかわらず、結果においては、再び落下して、平たくなり、個別性を失い、いたるところで実体に吸いこまれてしまうからである。それゆえ、一つの意識が〈ねばねばしたもの〉になるということは、自己の諸観念の粘着によって、この意識の有様が変形させられるということである。我々は意識のこのような有様の観念を持っている。我々の意識は未来へ向かって自己投企するが、自分がそこに到達するであろうことを意識するまさその瞬間に、知らず知らず、ひそかに、自分が過去の吸引によって引きとどめられているのを感じるだろう。しかも意識は、自分が脱れ出ようとする過去に徐々に融解していくのを感じるであろう。対自のたえざる逃亡という時間的な歴史のうちで、過去の重みはますます大きくなり、我々の逃亡はますます鈍重になり、ついに我々は過去に呑み込まれる。意識は自己の企てが無数の寄生虫によって侵蝕され、ついには意識が自ら完全に自己を失うまでにいたる場に、居合わせなければならないであろう。この忌まわしい出来事について、最も良い比喩を与えてくれるのは、影響妄想(憑依妄想)に見られる《誰かが私の思想を盗む》という恐れである。「誰かが私の頭の中を監視している」「誰かが私の考えていることを盗み取って、私の未来を先回りして妨害している」「誰かが私の頭の中に入り込み、私を乗っ取ろうとしている」。これらの強迫観念は、存在論的な次元における、事実性の即自の前における対自の逃亡でなくして何であろうか?ねばねばしたものについての恐怖は、時間はねばねばしたものになりはしないかという恐怖であり、事実性がたえず知らぬ間に進行して、自己自身に対して事実性を現れさせるはずの対自を、吸い込みはしないかという恐怖である。それは死についての恐れでもなく、単なる即自についての恐れでもなく、無についての恐れでもない。それはある特殊な型の存在についての恐れ、すなわち「即自=対自」が現実に存在しないのと同様に、現実に存在しない存在、単にねばねばしたものによって象徴されるにすぎないような、ある存在についての恐れである。それは根拠づけられない即自が、対自に対して優先権を持っているような一つの理想的な存在であり、我々はかかる存在を、一つの〈反価値〉と名付けるであろう。

 

かくして、ねばねばしたものを我有化しようとする企てにおいて、ねばつきは突然、一つの反価値の象徴、決して実現されないが脅迫的なある型の存在の象徴として、顕示される。このことは先行するいかなる経験からも由来せず、むしろただ即自と対自とについての存在論以前的な了解のみによって由来するところのものである。これがまさに、ねばねばしたものの〈意味〉である。一方からいえば、それは一つの経験である。というのもねばつきは一つの直観的な発見であるからである。他方からいえば、それは、空想ではなくて現実にねばねばという性質が存在するという、存在のある種の冒険による発案ともいうべきものである。そこからして対自にとって、ある種の新たな危険、我々が避けなければならないような脅迫的な一つのありかた、対自がいたるところで再開するであろうような一つの具体的で存在論的なカテゴリーが現れてくる。かくして、ねばねばしたものとの私の最初の接触以来、私は、心的なものと心的ならざるものとの区別のかなたにおいて、すべての存在者の存在意味をある種のカテゴリーで解釈するのに有効な、一つの存在論的図式によって、豊かにさせられる。このカテゴリーは、種々のねばねばしたものについての経験以前に、一つの空虚な枠として潜在的な存在を持っている。私はねばねばしたものに面しての私の根原的な企てによって、世界のなかにこのカテゴリーを投企したのである。このカテゴリーは世界の対象的な一つの構造であると同時に、一つの反価値である。その時以来、握手であるにせよ、微笑であるにせよ、思想であるにせよ、ある対象が私に対してそのような存在関係をあらわにするたびごとに、この対象は定義上、ねばねばしたものとしてとらえられるだろう。

 

それゆえ、幼児がねばねばしたものについて為しうる最初の経験は、心理的にも道徳的にも幼児を豊かにする。我々が比喩的に《ねばねばしたもの》と名付けるところの「べたつくいやらしさ」の類を発見するためには、幼児は何も成人になるまで待つ必要はない。「べたつくいやらしさ」は幼児のすぐそばに、蜂蜜や鳥黐のねばつきとして存在している。我々がねばねばしたものについて言いうることは、幼児を取り巻くすべての諸対象についても当てはまる。それらの対象の素材についての単なる顕示は、幼児の視野を存在の極限にまで広げ、それと同時に、幼児に対して、すべての人間的事実の存在を解読するための一揃いの鍵を授ける。そう言ったからとて、幼児が初めから、人間の《醜さ》や《性格》や、《美しさ》などを〈認識している〉というのではない。ただ幼児は、すべての〈存在意味〉を所有している、というだけのことである。そもそも《無垢の》幼児なるものは、存在しない。我々はフロイト学派とともに、幼児を取り巻く若干の素材や形態が性欲との間に保っている無数の関係を、すすんで承認するであろう。けれども我々はそのことによって、すでに構成されている一つの性的本能が、それらの素材や形態に性的な意味作用を担わせたのだというふうには考えず、むしろそれらの素材や形態は、ただそれだけのものとしてとらえられるものだと考える。それらは幼児に対して、対自のありかたや、その存在関係をあらわにするのであって、このことが後に、幼児の性欲をはっきり仕上げていくように思われる。ただ一つだけ例を引くならば、多くの精神分析学者は、あらゆる種類の穴(砂山の中の穴、土の中の穴、洞窟、窪み)が、幼児の上に及ぼす魅力に驚いたのである。そして彼らは、この魅力を説明するために幼児の性欲の肛門的な性格を以てしたり、出生以前のショックを以てしたり、また時には、本来の性行為についての予感を以てしたりした。だが我々は、それらの説明のいずれをも容認できないであろう。出生のトラウマによる説明は甚だしく空想的である。穴を女性の性的器官と同一視する説明は、幼児が持つことのできないある経験、もしくは我々が理由づけることのできないある予感を、幼児の内に前提としている。幼児の肛門的な性欲については、我々はそれを否定しようとは思わないが、しかしこの肛門的な性欲が知覚の場において幼児の出会う穴を照らし、この穴に象徴を担わせるためには、幼児は自分の肛門を穴としてとらえているのでなければならず、またそればかりでなく、穴や空洞の本質についての把握が、肛門について幼児の持つ感覚と対応しているのでなければならないだろう。けれどもそれは幼児に対してあまりに高度な反省的思考を要求するものであり、不可能である。それにしても、〈穴〉はそれ自体において、一つの「ありかた」の象徴であり、実存的精神分析はこの「ありかた」を明らかにするのでなければならない。それについてここで詳述するわけにはいかないが、すぐに分かることは、穴はもともと、私自身の肉体を以て《埋められるべき》一つの無として現れるということである。幼児は自分の指、あるいは腕全体を、穴の中へ入れてみないではいられない。我々はそこに、人間存在の最も根本的な傾向の一つ、すなわち〈満たそうとする〉傾向をとらえることができる。我々はこの傾向を青年の内においても、成人の内においてもとらえるであろう。我々の人生のかなりの部分は、いろいろな穴を塞ぎ、いろいろな空虚を満たし、象徴的に充実を実現し確立するために、過ごされる。幼児は自分の最初の経験から出発して、自分自身に穴が空いていることを認知する。幼児が指を口の中へ入れるとき、幼児は自分の顔の穴を塞ごうとしているのである。また、幼児が指を吸うのは、まさに指を〈溶かす〉ためであり、指が変じて、自分の口の穴を塞いでくれるような、べたべたした捏粉になることを期待しているのである。確かにこの傾向は、食べるという行為にとって基礎として役立つ諸段階のなかでも、最も根本的な傾向の一つである。食物は口を塞いでくれるであろうところの《詰めもの》である。食べるとは、まず第一に、自分の口を塞ぐことである。その点から出発してのみ、我々は性欲の問題へ移っていくことができる。女の性器の猥褻さは、すべて口が開いたものの猥褻さである。それは、他の場合にすべての穴がそうであるように、一つの「存在-呼び求め」である。それ自身において女は、侵入と溶解とによって自分の存在充実へと変化させてくれるはずの、外からやってくる一つの肉体を呼び求める。また逆に、女は自己の条件を一つの呼び求めとして感じる。それこそはアドラーの説くコンプレックスの真の起原である。なるほど、女の性器は口である。しかも、ペニスをむさぼり食う、貪欲な口である。ーそこからして、去勢という観念が出てくる。つまり、愛の営みは男の去勢である。ーけれどもそれはまず、女の性器が穴であるからである。それゆえここで問題なのは、やがて経験的複合的な人間的態度としての性欲を構成する一つの要素となるであろうところの、性以前的な要因である。この要因はその起原を「性別-存在」から引き出してくるどころか、第三部(読後感想7にあたる)で説明したところの根本的な性欲とは何ら共通点を持たない。だがそれでもやはり、幼児が穴を見るときの経験の内には性的経験一般についての存在論的な予感が含まれている。幼児が穴を塞ぐのは、何か身の回りのものを使ってではなく、自分の肉体を以てしてである。穴はあらゆる性的特殊化より以前に、一つの猥褻な期待であり、一つの「肉体-呼び求め」である。

 

直接的、具体的なこれらの実存的カテゴリーの解明は、実存的精神分析にとって極めて重要である。そこから出発して、我々は人間存在の極めて一般的な企てをとらえることができる。けれども、精神分析学者にとって最も興味があるのは、個人をそれら種々さまざまな存在象徴に結びつける個別的な関係から出発して、独自な個人の自由な企てを決定することである。私はねばねばした接触を好むこともできる、穴を嫌悪することもできる、等々。そう言ったからとて、ねばねばしたもの、穴、等々が、私にとってそれらの持つ一般的な存在論的意味作用を失ったという意味ではない。むしろ反対に、この意味作用の〈ゆえにこそ〉、私はそれらのものに対して、これこれのしかたで、私を決定するという意味である。それゆえ、もろもろの趣味は還元不可能な所与としてとどまってはいない。もし我々がそれらの趣味に対して問いかけることができるならば、それらの趣味は当人の根本的な企てを我々に表してくれる。食の好き嫌いでいえば、我々が我々の根本的な企てに応じて同化させることもでき、嘔き気をもよおして斥けることものできるのは、口の中において、風味、熱、密度、等々によって構造づけられた素材である。食の好き嫌いは、我々がこれらの食物の実存的な意味作用を見抜くことができるならば、決してどうでもいいことがらではない。それらはすべて、存在を我がものにしようとするある種の選択を表している。それらを比較したり分類したりするのは、実存的精神分析の仕事である。各々の人間存在は、自己自身の対自を「即自-対自」に変身させようとする直接的な企てであると同時に、一つの根本的な性質という相のもとに、即自存在の全体としての世界を我がものにしようとする企てである。あらゆる人間存在は、自己自身の存在を根拠づけるために、宗教では神と言われるところの〈自己原因者〉になろうする企てにおいて、あえて自己を失うことを企てる点で一つの受難である。それゆえ人間の受難は、キリストの受難の逆である。人間は神を生まれさせるために、人間としてのかぎりでは自己を失うからである。けれども、神の観念は矛盾している。我々は虚しく自己を失う。人間は一つの無益な受難である 。L 'homme est une passion inutile.

 

 

性質、および性質の象徴的な意味の記述についての感想

 

性質についての問題は存在論上の主要なテーマである。サルトルはこの問題をうまく処理したように思われるが、ただ一つ気になった点を挙げておく。サルトルは、ある存在がその具体的なありかたにおいて自己を開示する時の性質の構成を、存在の意味指示的な層として、それぞれの性質の固有なありかたを形而上学的含有度 la teneur métaphysique と呼び、その強さの程度を形而上学的係数 la coefficient métaphysique と呼んでいた。サルトルの量的な概念への関心は、本書の他の箇所でもたびたび見受けられる。だが問題は、サルトルがこのような量的な概念を実在的なものとして捉えていたかどうか、あるいは単なる方法論上の便宜的な概念としてみなしていたかどうかである。もし前者であるとするならば、我々はサルトルの記述を容認することができないであろう。読後感想4で述べたように、知覚は本来、純粋に質的なものであり、その理由は知覚の超越的本性に由来するものであるから、性質も同様に、本来は純粋に質的なものであるとみなされなければならないからである。それにしても本書にたびたび出てくるサルトルの科学的、あるいは量的なものへの執着は、マルクスが自分の理論を「科学的社会主義」と評したのに似ているように思われる。わざわざ「科学的」という枕詞を付けるのは、まさに科学的ではないからである。それは「私が思うに、私の理論が最も正しいのである」と断言して憚らない傲慢さの指標である。そういう意味で、サルトルには自己の理論について、その存在論的形而上学的な内容にもかかわらず、大衆的な支持を獲得するために、願わくば当時すでに最も大衆的な支持を得ていた学問である「科学」のお墨付きを得たいという思惑があったのではないだろうか。そんなふうに思われる。

 

なお、「穴」の象徴的意味の箇所で、サルトルは穴という観念が示す欠如的な性格を、女性器の構造的特徴と対応させて、女性は自己の根源的な存在条件として「存在-呼び求め」を感じると記述している。従来の精神分析学では、男児は〈去勢〉への恐れによって《エディプス・コンプレックス》を形成するが、女児は生まれつき〈去勢〉されているため、男児とはまったく別のしかたでコンプレックスを形成するという。要するに女児は、男児が男性器を持っているのと同様のしかたで自分が女性器を持っていると考えるのではなく、自分の性器を男性器の欠如として考えるのだと主張する。サルトルのいう対自の存在欠如と、従来の精神分析学でいうところの〈去勢〉概念との関係については明言されていないが、前後の記述から推察すると、サルトルは〈去勢〉を対自の存在欠如の一部と考えているとしても問題ないように思われる。だが読後感想16で述べたように、対自の存在欠如に関してはむしろ男女の関係を逆にした方が、本書の内容をより経験に即した説得力のあるものにするのみならず、他の様々な分野との関連においても、分野横断的で整合性の取れた説明ができるように思われる。事実、サルトルはねばねばしたものの持つ意味作用を「女性的」と表現した。これは女性的な欲求が、単なる即自としてのかぎりでの即自を我がものにしようとする欲求ではなく、自らの即自存在(肉体)を罠として、対自を我がものにしようとする欲求、すなわち《愛》に象徴されるような欲求であることを示しているのではないだろうか。男性的な欲求が単なる即自としての即自を我がものにしようとする欲求であることについては、すでに認識欲求、スポーツ活動における所有欲求の例(読後感想16、17)で見た通りである。