II -「為す」と「持つ」- 所有(2)


ところで、一般に「完全に無動機的なもの」として提示されるある型の活動がある。すなわち〈遊戯活動〉と、それに関係のある諸傾向が問題である。我々はスポーツの内に我有化的な傾向を発見することができるだろうか?一見すると、遊戯は〈大まじめな精神〉esprit de sérieux と違って、最も所有的ならざる態度であるように思われる。遊戯は現実的なものから、その現実性を除き去る。我々は現実的なありようから出発するとき、また我々を現実的なものとして考えるとき、大まじめな精神が生じる。大まじめな精神は現実に対するその愚直なまでの真剣さによって、自分の自由の意識を自己自身の奥底に埋葬してしまっている。この精神にとってはすべてが帰結であり、決して始め(原理)は存在しない。「現実的に考える」とは、客観的な法則や世界のありように即して、対象も自己自身のことも考えることである。

 

遊戯は、事実、主観性を解放する。遊戯は人間がその最初の起原であるような一つの活動、人間が自分自身をそれの原理として立てるような一つの活動、立てられた原理に応じてのみ帰結を持ちうるような一つの活動である。ある人間が自己を自由なものとしてとらえるや否や、そしてまた自己の自由を行使しようと欲するや否や、その時点でその人間は遊戯的である。だが、遊戯における行為は、行為者の深い企てとその意味を代表するわけではない。むしろ反対に、遊戯における行為の役目は、行為者の存在そのものたる絶対的な自由をその人自身に対してあらわにすること、現前させることである。この特殊な型の企ては、自由を根拠とし目標としているものであり、特殊な研究に値する。事実、この企てはそれが根本的に異なる一つの存在類型を目指している点で、他のすべての企てと根本的に相違している。だがそれにしても、遊戯欲求はやはり、根本的に存在欲求である。それゆえ、《ある》《為す》《持つ》という三つのカテゴリーは、ここでも他の場合と同様に、二つに還元される。

《為す》はまったく他動的であり、一つの欲求は根本的には、存在欲求、もしくは所有欲求でしかあり得ない。ところで他方、遊戯があらゆる我有化的傾向から解き放たれていることは稀である。ここでは良い成績をあげたいとか、賞状をとりたいとか、端正な肉体を手に入れたいといった、自己自身の「対他-存在」を対象的に手に入れようとする欲求に属する付属的な欲求は除外しておこう。それらの欲求は常に介入するとはかぎらないし、また根本的でもない。けれども、スポーツという行為そのものの内には、一つの我有化的成分がある。事実、スポーツは、世界の環境を行為の維持要素にまで、自由に変化させることである。したがってスポーツは芸術と同様、創作的である。かりにここで、雪に覆われたアルプス高原があるとしよう。まず第一、それを見るとは、すでにそれを所有することである。この雪原は、それ自体において、すでに見られることによって、存在そのものの象徴としてとらえられる。この雪原は単なる外面性、徹底的な空間性を、その雄大な存在によって顕している。その無差別、その単調さ、その純白さは、実体の絶対的な裸をあらわにする。それと同時に、その堅固な不動性は、即自の恒常性と対象的な抵抗性を顕しており、即自の不透明性と不浸透性を顕している。それにしても、この最初の直観的な享受は、私を満足させることができないであろう。この単なる即自、デカルトの言う「広がり」の絶対的叡智的な充実にも比すべきこの即自は、「非-私」の単なる出現として、私を恍惚とさせる。そのとき私が欲するのは、まさにこの即自が、まったくそれ自身の内にとどまりながら、私に対して私の流出関係にあることである。それは、すでに子供たちが作る雪だるまや雪つぶての意味するところのものである。その目標は《この雪で何かを作ること》であり、言い換えれば、素材が形相のためにのみ存在するように見えるほど、それほど深く素材に密着している一つの形相を、この雪に押しつけることである。スキーの意味は、ただ単に急速な移動ができるとか、技術的な巧妙さを獲得することにあるのではない。それはまた、ただ単に私のスピードやコースの困難さを意のままに変えて遊ぶことではない。スキーの意味は、この雪原を〈所有する〉ことを私に許してくれるという点にもある。スキーによって、この雪原は私のコースそのもののなかで、滑走されるべきスロープとして私に現れるという事実からして、この雪原は私の世界内的な企ての内に組み込まれる。この雪原は滑走においては背景としてしか現れないが、まさに私がこの雪原を周辺的なもの、暗々裡に含まれているものとして保つがゆえに、この雪原は私に順応し、私はこの雪原を手馴れたものとして、これを私のコースの終点に向かって超出する。それはあたかも、室内装飾家が壁掛けを壁に打ち付けるというその目的に向かって、自分の使用する金槌を超出するようなものである。いかなる我有化といえども、この用具的な我有化ほど完全なものはない。私は用具を、私の意のままに自由自在に扱う事によって、この用具を世界内的な私の企ての構成たらしめ、そこに完全な私の流出関係を見とることによって、この用具を私の手として、私の足として、〈私のもの〉たらしめる。私は、私が自分に与える自由なスピードによって、その雪原に形を与えるところの者である。雪の軽さ、融けて水になることの消失、圧縮による固体化は、すべて私が雪原を超出する企ての内に、私の痕跡として、私の流出としてとらえられる。ところで、私が雪に対して持つ、「滑走」という一つの特殊な我有化関係に関しては、依然として表面的であるという人もあろう。だが、それは正しくない。確かに私は、ただ雪原の表面を軽くかすめるだけであり、この軽い接触はそれだけとして十分研究に値するものであるが、それにもかかわらず、私は一つの深い綜合を実現する。私は、雪の層が私を支えるためにその最も深いところに至るまで、それ自身で自己を組織するのを実感する。滑走は〈隔たりを持つ行動〉action à distance である。私はこの素材を征服するために、その中に落ち込んだりはまり込んだりする必要はない。滑るとは、根を下ろすことの反対である。根はすでに、それを養う土に半ば同化させられている。根は土の生ける凝結である。根はもはや、自己を土たらしめることによってしか、土を利用することができない。言い換えれば、ある意味で、根は自分の利用しようとする存在に服従することによってしか、土を利用することができない。それとは反対に、滑走は、深い素材的な統一を実現しながらも、表面より奥に入り込むことがない。滑走は服従してもらうために強調したり、声を荒らげたりすることを必要としない、恐るべき主人のごとくである。権力のおどろくべき似姿がそこにある。それゆえ、理想的な滑りとは、滑走した後に何の痕跡も残さないような滑りである。滑走はまさに、対象の外面性を完全に保ったまま対自の世界内的な企てに呑み込むかぎりで、理想的な我有化を象徴する行為である。スポーツ的な行動によってここに実現される「私」と「非-私」とのこの綜合は、観想的認識や芸術作品の場合と同様、雪に対するスキーヤーの権利の確認によって表現される。私は何遍もそこを通過し、私のスピードによって何遍もこの凝結力、支持力を雪原の内に生ぜしめた。この雪原は私の庭である。この雪原は〈私のものである〉il est à moi.

 

スポーツ的な我有化の様相に、また別の様相、すなわち克服された困難を付け加えなければならないだろう。この様相は一般によく理解されており、ここで今更強調するまでもないように思われる。私がこの雪の斜面を滑り降りる前には、私はこの斜面をよじ登らなければならなかった。しかもこの登攀は、雪の別の面、すなわち抵抗を私に提示した。私は私の疲労によって、この抵抗を感じた。私は瞬間ごとに、私の勝利の進行を測ることができた。この場合、雪は「他人」と同じものになる。《征服する》《克服する》《支配する》など一般に用いられる表現が十分に示しているように、私と雪の間に、主人と奴隷の関係をうち立てることが問題である。我々は登攀、水泳、障碍物競走、等々の内に、この我有化の様相を再び見いだす。我々が旗を立てた山頂は、我々が〈我がものとなした〉山頂である。それゆえ、スポーツ的な活動(特に野外スポーツ)の一つの主要な様相は、ア・プリオリには征服することも利用することもできないように見えるそれらの水や土や空気の塊を、征服することである。いずれの場合にも問題なのは、元素をそれだけとして所有することではなく、この元素によって表現される即自的な存在類型を所有することである。我々が雪という形質のもとに所有したいと思っているのは、実体の同質性である。土や岩の形質のもとに所有したいと思っているのは、即自の不浸透性と恒常性である。芸術、科学、遊戯は、全体的にせよ部分的にせよ、我有化活動であり、しかも、それらがそれぞれの具体的な追求対象のかなたにおいて手に入れようとしているものは、存在そのものであり、即自の絶対的な存在である。

 

かくして、欲求は根原的には〈存在欲求〉であり、欲求は自由な存在の欠如として特徴づけられる。けれどもまた、欲求は、世界のただなかにおけるある具体的な存在者との関係であり、この存在者は、即自の類型に属するものとして考えられる。要するに、欲求されるこの即自に対する対自の関係が、我有化である。それゆえ、そこには欲求についての二重の規定がある。一方において欲求は「即自-対自であるようなある一つの存在、それの現実存在が理想的であるようなある一つの存在」であろうとする存在欲求として、規定される。他方において欲求は、「欲求が我有化しようと企てる一つの偶然的具体的な即自」との関係として規定される。この二つの規定は両立しうるだろうか?あるいは同じものを表すだろうか?実存的精神分析は、この二つの規定の関係をあらかじめ限定し、さらに統一したうえでなければ、自己の原理についての確証を持つことができないだろう。さしあたり試みられなければならないのは、それである。〈我がものにする〉s' approprier とは、どういうことであるか?言い換えれば、一般にある対象を所有するとは、どういうことであるか?先に我々は「為す」というカテゴリーが還元可能であることを見たが、このカテゴリーは、時には「持つ」を、時には「ある」を予見させてくれた。それでは、「持つ」というカテゴリーも同様であるだろうか?

 

多くの場合、ある対象を所有するとは、それを〈使う〉ことができるということである。所有に関する様々な法的関係は問題にならない。むしろこれらの法的関係の根拠となるのが、対自と具体的な即自との間にうち立てられた自発的な関係である。だがそれは、まったく超越的な関係である。幽霊は、家や家具が《所有されて-いる》être-possédé(訳註:文字通りには、憑かれている-存在)ということの、具体的な物質化以外の何ものでもない。対象とその所有者との関係を指し示す次のような表現そのものが、十分に我有化の深い浸透を物語っている。「所有されるとは…のものであることである」être possédé, c'est être à …言い換えれば、所有される対象が侵されるのは、その存在においてである。所有のきずなは、存在の内的なきずなである。愛する故人のいろいろな記念品は、その人についての思い出を永続させてくれるように思われる。所有されるものと所有するものとの、この存在論的、内的なきずなは(烙印という慣習は、しばしばこのきずなを具体化しようとした試みであるが)、実在論的な理論によっては説明され得ないであろう。実在論は「主観と対象とをそれぞれ、それ自身によるそれだけとしての存在を持つ、二つの独立した実体と見なす学説」と規定されるが、もしこの規定が正しければ、我々は我有化をも、その一つの形態である認識をも、理解することができないであろう。両者はいずれも、主観と対象をかりそめに結びつける外的な関係にとどまるだろう。けれども、我々が先ほど見たように、実体的な存在は認識される対象に帰せられなければならない。つまり、それ自体として存在しているのは、所有されている対象である。してみると、〈非独立性〉を置かなければならないのは、所有する主観の側にである。またここまで見てきたように、所有が超越的な意味において、主観にとって内的な関係として現れるのは、主観の存在論的なありかたである対自の存在不足に由来する。すなわち〈持つ〉欲求は結局、ある対象に対して一種の〈存在関係〉にありたいという欲求、すなわち存在欲求に還元される。

 

この関係を規定するにあたっては、先の芸術、科学、スポーツの場合におけるそれぞれの行為についての考察が大いに役立つであろう。各々の場合における我有化は、対象が私自身の主観的な流出として現れると同時に、また、私に対して無関心な外面性の関係にあるものとして私に現れるという事実によって特徴づけられた。それゆえ「私のもの」は、「私」の絶対的な内面性と、「非-私」の絶対的な外面性との間における一つの媒介的な存在関係として現れた。これは「非-私の私への移行」と「私の非-私への移行」という存在論的統一であるが、この関係はいっそう詳しく記述されなければならない。所有するとは「私へと持つこと」avoir à moi である。言い換えれば、私が対象の存在の本来の目的であるということである。私は所有される対象の存在理由である。「私はこの万年筆を所有している」とは、「この万年筆は、私のために存在する。この万年筆は、私のために作られた」という意味である。さらに根原的には、私の所有したいと思う対象を私のために作るのは、私である。分業はこの原初的な関係を褪色させるが、それを消失させはしない。「贅沢」はこの最初の関係の低下したものである。「贅沢」の原始的な形態において私が所有するのは、私が私のために、私に属する人々(奴隷、しもべなど)に作らせた対象である。「贅沢」は所有の次に、もともと我有化を構成する創作関係を最もよく明らかにしてくれる。分業が極度に発達した社会においてはこの関係は覆い隠されているが、消滅したわけではない。金銭は私の力を表している。金銭はそれ自身、一つの所有であるよりも、むしろ、所有するための一つの手段である。そういうわけで、守銭奴という極めて特殊な場合を除いては、金銭は、その購買可能性の前に消失する。それは対象を、具体的な事物を開示するためのものであり、一つの他動的な存在をしか持たない。けれども〈私にとっては〉、金銭は創作的な力として現れる。つまり、ある対象を買うとは、この対象を創作するのに匹敵する一つの象徴的な行為である。金銭は対象に対する私の魔術的なきずなを表しており、対象に対する主観の〈技術的な〉結びつきを消滅させ、欲求をして、おとぎ話のお願いのように、直ちに作用するものたらしめる。それゆえ我有化のきずなは、対自と世界の諸対象の全体的集合との間に、金銭によってうち立てられる。かくして、不断の低下を通して、創作のきずなが主観と対象との間に維持される。持つとは、まず、〈創作すること〉である。所有のきずなの原初的な形態は、創作という行為の内にある。所有される対象は、私によって〈私の環境〉という全体的な形態のうちに挿入される。それは私の世界内的な企ての内における一つの要素として、私の生活を構成する。私の生活の全体は、それが私の企てを対象的に表しているかぎりで、私である。もし私の所有しているそれらの対象が、私の生活の内から引き離されるならば、それらは死ぬことになる。それは私の腕が私から引き離されるならば、腕は死ぬのと同様である。

 

けれども創作は、対自が常に未来へ向かって自己投企するのと等しく、常に生み出し続けることによってしか存在し得ない一つの消失的概念である。対自はそれであるかぎり、所有という関係の内に見いだした「即自-対自」のかりそめの存在論的統一を超出せざるを得ない。事実、この存在論的統一において、私は私自身の存在の根拠としての私を見いだすのであるが、そのためには、この所有という関係はあまりにも不十分である。私の欲求が実現し、ある対象を所有するや否や、私の企ては対象を超出し、対象は新たな企ての内のほんの僅かな一契機を構成するにすぎなくなる。もはやこの対象は、私の存在根拠としての私の即自存在ではなくなる。自転車を所有するとは、まず、それを眺めることができるということであり、ついでそれに触れることができるということであり、ついでそれに乗って街道に出かけるということであり、ついでそれに乗って遠出することであり、さらにいっそう長く完全な利用、例えばフランス横断の旅行をすることであったり…。要するに、自転車を私の所属とするには一枚の紙幣で事足りるが、この所有を真に実現するためには、無限の時間が必要になる。言い換えれば、所有は、常に死が未完に終わらせるところの一つの企てである。所有は、対象の所有だけで満足することはできない。所有はその対象を通して、常に新たな世界内的な企てを指し示す。かくして対自が究極的に所有したいと欲するところのものは〈世界全体〉であり、世界-対自という自己性の回路のうちの、一方の契機のすべてである。そうして初めて「即自=対自」という対自の理想的なありかたが実現される。このことは、各々が個人の経験に照らし合わせればわかることだろう。例えば私は恋人といるとき、恋人を通して世界全体と関係する。恋人は私の世界の全てである。恋愛によって「世界が薔薇色になり」、失恋によって「世界が灰色になる」という表現は、この事実を端的に表す。だが直ちに、私はそれでは満足できなくなる。恋人ともっと一緒にいたい、デートしたい、あるいは結婚したい、等々。こうして私は理想的〈だった〉ところの世界を常に超出し、あるべき世界と今ある世界との間に、常に空隙を作り出す。

 

一つの対象を〈所有する〉ことがそもそも不可能であることを認知した対自は、一転して、いっそこの対象を破壊してしまいたいという欲望を持つ。破壊するとは、私のうちに吸収することであり、破壊された対象の即自存在に対して、創作の場合と同様に、一つの深い関係を保つことである。私が家に火をつけたとしよう。家を焼く焔は、この家と私自身との融合を、次第に実現していく。この家は消滅することによって、私へと変化する。そこには創作における場合と同様だが、しかし逆の存在関係がある。私は燃える家の根拠である。私はこの家の存在を破壊するがゆえに、この家〈である〉。破壊は、創作よりもいっそう鮮やかに、我有化を実現する。なぜなら、この即自存在は私の存在根拠であるとともに、〈もはや存在しない〉からである。すなわち、この即自存在は「無」の存在である。それゆえ、破壊された対象は一つの意識に似ている。それと同時に、この対象は積極的に私のものである。というのも、「私は私があったところのものであるべきである」という事実が、破壊された対象の消滅を引きとどめているからであり、私は私を再び創作することによって、その対象を再び創作するからである。言い換えれば、私の過去が破壊された対象を「無」というありかたで存在させているのであり、私の未来へ向かっての不断の自己投企によって、私の過去の内に沈むその対象を蘇らせるからである。破壊が単なる所有よりもいっそう鮮やかな我有化を実現することは、我々がある対象を破壊したときに感じるいっそう顕著な征服感によって直観されるだろう。それゆえ、破壊は我有化的な態度の一つであると言われなければならない。さらに、多くの我有化的行為は使用されること、とりわけ、破壊可能であることという一つの構造を持っている。つまり、利用するとは、使いふるすことである。私は自転車を使用することによって、使いふるす。言い換えれば、我有化的な連続的創作は、部分的な破壊という特徴を持っている。この摩耗は、厳密に功利的な理由からすれば困ったことかもしれないが、しかし多くの場合、それはほとんど享受に近い一種の密かな喜びを起こさせる。というのもこの摩耗は、私から来るからである。私は消費する。《消費》というこの表現は、我有化的な破壊を指し示すと同時に、食物摂取的な享受を指し示す。それは、自己に合体させることによって破壊することである。それは《破壊-創作》であり、この創作は、対象に伝える連続的な摩耗によって、対象に深く刻印させられる。〈私のもの〉の摩耗は、私の生活の裏側である。

 

以上の考察によって、通常、還元不可能なものと見られているある種の感情や態度、例えば「気前のよさ」がいかなる意味を持つものであるかを、いっそうよく理解することができる。事実、贈与は一つの原初的な破壊形式である。ポトラッチ(訳註:アメリカ先住民の祭りの一つ。祭主は莫大な量の贈り物を分配する)は、莫大な量の物品の破壊と他者への贈与を伴う。この水準においては、対象物が破壊されるか、贈与されるかはどうでもいいことである。いずれにせよ、私は対象物を消滅させるときと同様、それを与えることによって対象物を破壊する(先述の「私の生活」における私の所有を参照)。私は、その存在において深く対象物を構成していた「私のもの」という性質を、対象物から抹殺する。私はそれを、破壊の場合と同様に、〈不在のもの〉として構成する。過去の対象物の透明で幽霊的な存在を保たせておくのは、ひとり私だけである。それゆえ、「気前のよさ」は、何よりもまず、破壊的な作用である。時としてある人々を襲う贈与熱は、何よりもまず、破壊熱である。それは狂気じみた態度、対象物の破砕を伴う《愛》に当てはまる。破壊された対象物は、即自と無という両義的な意味を、対自にとって持っているからである。けれども、「気前のよさ」にひそむこの破壊熱は、一つの所有熱以外の何ものでもない。私が放棄するすべてのもの、私が与えるすべてのものを、私はまさにそれを与えることによって、最高のしかたで享受する。贈与は激しくて短い、ほとんど性的な一つの享受である。与えるとは、自分の与える対象物を、所有的に享受することであり、我有化的-破壊的な一つの接触である。けれどもそれと同時に、贈与は与えられる相手を呪縛する。贈与は、相手をして、私がもはや必要としないこの私の片割れを、ふたたび創作し、連続的な創作によって維持するように強制するからである。しかしこのことは他人との関係に関わることだから、今は問題ではない。ここで指摘されるべきことは、「気前のよさ」は還元不可能ではないということである。言い換えれば「与える」とは、破壊を利用して他人を自己に屈従させると同時に、この破壊によって対象を「我がものとすること」である。それゆえ、「気前のよさ」は他者の存在によって構造づけられる一つの感情であり、この感情は、破壊による我有化へ向かう好みを示す。したがって、「気前のよさ」は、我々を即自の方に向かわせるよりも、むしろ即自の無の方へ向かわせる。それゆえ、実存的精神分析がある被験者の「気前のよさ」の証拠に出会うならば、いっそう遠く被験者の根原的な企てを探り、この被験者が創作よりもむしろ破壊によって「我がものとすること」を選んだのは何ゆえであるかを自問しなければならない。

 

 

所有についての欲求「我有化」の全体的感想

 
一連の記述を簡潔にまとめれば、「《為す》欲求、《持つ》欲求は結局、世界-対自という自己性の回路における、世界を媒介とした《ある》欲求でしかない。よってすべての欲求は根本的に存在欲求である」ということになる。サルトルはこのことを、スキーや自転車といった具体的な例を手掛かりに説明していた。これらの記述内容を一般化して概念化たらしめるのは、読者の仕事というわけである。だが、一見すると少しわかりにくい点もある。例えば、スキーによって雪山の絶対的な即自性を所有する場合、我々が雪山によって所有したいと欲求する即自の存在類型は、その絶対的な同質性である。それゆえ、滑走の理想的なありかたは「跡形も残さないこと」だとされた。要約では省略したが、サルトルはその理想的限界を表すものとしてモーターボード、水上スキーを例示している。「雪の上に我々のスキーの残した跡形を我々が背後に眺めるとき、常に我々を襲う軽い失望、『我々の通った後で、雪が元通りの姿になってくれたら、どんなにいいだろう!』という失望が、由来する。さらに、我々が斜面を滑り降りるとき、我々は何のしるしもとどめていないという錯覚にとらわれる。我々は雪に向かって、雪が密かに水のようであって欲しいと願う…」これはまた、先に認識欲求の場合に記述された性的欲望との類似、すなわち、肉体的《所有》は身体に何の痕跡も残さない愛撫によって象徴される、ということが、野外スポーツの場合も当てはまることを示している。一方で、対象の微小な連続的破壊である摩耗は、それが対象の絶対的な即自性を毀損するものであるにもかかわらず、同じく対自の所有欲求を満たす。ただこの場合は対象の絶対的な即自性を、その一つの顕著な存在類型において所有するのではなく、対象の破壊によって「自己の無」を対象存在の内に刻み込むことによってである。だが、即自の絶対性の所有と破壊的我有化という、この二つの所有欲求は、一見して明確に区別できるわけではないように思われる。例えばスキーの場合なら、私は雪山に残した私の足跡、スキーの痕跡によって、雪山をその絶対的な即自性においてではなく、破壊的我有化の企てにおいて所有したいと思う場合もありうる。それゆえこの区別が問題になる場合がありうるのだが、サルトルはこの場合についてもおそらく、「実存的精神分析はいっそう遠く被験者の根原的な企てを探り、この被験者が創作よりもむしろ破壊によって『我がものとすること』を選んだのは何ゆえであるかを自問しなければならない」として、特に新たな言及はしないだろう。それゆえ、被験者がスキーが趣味だからといって、直ちに即自の絶対的同質性の所有欲求を見いだすのは禁物ということになるが、精神分析の困った点は、それが心理学的傾向を含むことにあり、要するに「何とでも言える」傾向があることである。まして非-科学的な「象徴」という概念を手がかりとするのだから、対象と心理との魔術的な結びつきの可能性は更に際限がなくなる。実存的精神分析はあくまでも、精神分析的方法によって客観的に被験者の根原的な企てを明らかにすると主張するが、この客観的というのがいかにして保証されるのかが、本書では十分に述べられていないように思われる。