歴史の動因とは何か!? | 方丈随想録

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私たちが歴史を学ぶ場合、例えば日本の歴史であれば、主旋律は政治史であり、副旋律として社会史、経済史、文化史というものが加わる。ヨーロッパの歴史学はカトリック教会を中心に発展したので、歴史とは救済史、すなわち宗教史であった。それが啓蒙期を経て歴史学の世俗化が進み、歴史学は政治史となった。「近代歴史学」はドイツのレオポルト=フォン=ランケによって確立されるが、「近代歴史学」とは正に政治史だった。

カトリックの救済史は、当然のことだが、神が歴史の進行を司っていると考えた。「近代歴史学」ともなると、神を歴史の原動力とみなすことはできない。ランケは「歴史の原動力は何か」という問いを封じ、歴史学は歴史における「傾向」を洞察あるいは発見すれば事足りる、と考えたようだ。ランケらしいプロテスタンティズム的な「禁欲」によって、特定の「原動力」を措定しないようにしたのだ。しかし、「近代歴史学」は価値の相対主義に陥り、いわゆる"historism"の問題を引き起こすことになる。

ランケとほぼ同時代の同じプロイセン王国にヘーゲルという哲学者がいた。ヘーゲルは観念論哲学の立場から歴史を考察した。ヘーゲルの歴史考察は「歴史哲学」と称されるものだが、救済史のような特徴を持ち通つつも、「神」を「自然」に置き換えつつ、「自然」の発展の過程として人類の歴史を「世界史」に昇華するものとみなしている。大雑把に言うと、神の本質は自由である。神は自己疎外の様態として自然になる。自然は法則に支配され自由は存在しない。しかし、人間世界では時代の進行とともに自由が実現されていき、神の本質である自由が社会的に実現されるのだ。オリエント世界では自由を享受できたのは王一人であったが、ギリシア・ローマ世界ではポリスの市民が自由を享受できた。ゲルマン世界ではすべての人が自由を享受するのだ、と。

ヘーゲルを継承したマルクスは、歴史の原動力を「自然と人間の協同」すなわち「労働」を媒介にした経済的生産力に置いた。マルクスの唯物史観といい、そこに神の居場所はないように思えるのだが、しかし、神を巧妙に隠した「救済史」なのだ。共産主義によって生産力が無限に増大し、「共同富裕」が実現するユートピアができるらしいのだが、これは「信仰」の領域だろう。

ソ連や東欧の社会主義は失敗した。北朝鮮も今では飢餓状態だ。中国も北朝鮮の跡を追うことになるだろう。では、日本はどうだろうか。現在の日本もある意味危機にある。というのは、現在の中国は世界秩序を根底から覆そうとしている。手段は問わないようだ。中国の主敵はアメリカだが、日本にも勝負を挑んできている。それは、中国共産党と日本の左翼政党の戦線統一を行って親中政権を樹立することだ。この統一戦線の中心にいるのが蓮舫だ。蓮舫を都知事にしてはいけないが、一方の小池にしても保守勢力に腐敗を広げる元凶の一つなので始末が悪い人物である。都民に賢明な判断を願うしかないが、私的には石丸で良しとすべきと思う。