蘇州邦人母子襲撃事件について思う | 方丈随想録

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蘇州で日本人の親子が中国人に切り付けられたという。この事件が中国に滞在している日本人に衝撃を与えている。

太平洋戦争で日本人は数々の悲劇に逢着した。戦場で散った将兵や軍属のみならず、空襲で亡くなった人もいれば現地の住民による襲撃で殺された人も多い。中国大陸では旧満州にいた人の運命は過酷だった。シベリアに抑留された人、ソ連軍の攻撃や中国人や朝鮮人の暴動で殺された民間人も少なくない。戦史としての太平洋戦争ではなく、日本人の民族的悲劇として戦争を記録した書籍のあるのだが、現在では人目に触れることはなくなった。例えば『大東亜戦争秘録』のような本なのだが。

日本が中国が敵国となった場合、中国在留の日本人が無権利状態に置かれた場合、日本人に降りかかる悲劇がどんなものだったか、少しは知っていた方がいい。満州から命からがら帰還した日本人は、記憶と悲しみを胸の中に封印しつつも、悲劇の実相を言葉少なげにでも伝えてくれている。例えば俳優の宝田明がそうだ。

日本が降伏したと分かると、満州の日本人は怒涛のごとき中国人の暴動に吞み込まれた。中国人が書いたものを挙げれば、張戎という女性が書いた『ワイルドスワン』の中に、暴徒が日本人巡査の家に押し入り、妻と嬰児を殺したという記述がある。そうした暴行の事例が数えきれないほど満州で繰り広げられたのだ。勿論、中国人の日本帝国主義に対する憎悪は当然ということもあるが、一種の「ホロコースト」状態が出現したというのは、やはり日本人として受容しにくい。

では、戦後約80年を経た現在の中国人の日本人に対する思いはどうなんだろうか。80年前の日本人に対する憎悪は、中国政府の意図的な教育によって温存されかつ増幅されてきた可能性がある。

前に一度書いたと思うのだが、約30年前上海に行った。上海の有名な博物館を訪ねたが、生憎開館時間には早すぎ、周辺を散歩して時間調整をした。再度博物館の入り口に向かったが、その時は中国人の団体客が列を作って並んでいた。近づいていくと、その団体客が小生の方を向いて盛んに怒鳴りだし、腕を上げて拳まで振り上げている人もいた。どうやら小生を日本人だと認識して怒鳴っているらしいと判断できた。時間差を設けて入場しようと博物館の周囲の道を歩いていたら、様子を見ていたらしい館員が塀のドアを開けて出てきて、そのドアから館内に入れてくれた。館内を見学したり買い物をしたりしていたら玄関にバスが到着し、日本人小学生が大勢入館してきた。小生が経験した不快な反日的中国人の行動などありえないという明るさを伴って。以上が小生の体験なのだが、色んなことに気づかされる。

(1)博物館という国威高揚の場所に来て反日感情が集団で発露したこと。当然、反日教育の存在を窺わせる。

(2)博物館の館員などの職員は反日感情を封印し、理性的な態度を保持できているということ。

(3)中国在留の日本人、特に子どもは専用のバスで移動して中国の生の社会と接触する機会がなく、「井の中の蛙」のような中国理解しかないこと。

 

小生が上海に行ったのは江沢民が主席になる以前のことだった。江沢民によって反日教育が更に徹底されていることに留意したい。その後、中国は覇権主義に傾斜しつつあり、対日関係では尖閣諸島問題でいつでも炎上しやすくなっている。中国に滞在している日本人は人食いサメがうようよしている海域で、手漕ぎのビニールボートに乗っているようなものとか、あるいは、硫黄ガス臭い休火山の火口の中で楽しく余暇を過ごしているようなものだと思う。ある日突然、サメの大群が暴れたり、あるいは火山が爆発する可能性が高い。敗戦時に満州に取り残された日本人は、結局「自己責任」で自己の運命を引き受けた。当時の日本政府は何もしてくれなかったし、現在の日本政府も恐らく何もしてくれないだろう。政府を船長とみなすと、政府は船と乗客のどちらかを救うべきかという究極の状況では、個々の乗客の生命までは責任を負えないのだ。