内村鑑三の日本人観から見た都知事選 | 方丈随想録

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日本のキリスト教史を語るうえで欠かせない人物として内村鑑三がいる。彼は創設間もない札幌農学校で学んだことから、クラーク博士の影響を受け、プロテスタンティズムに接近した。農学校の同窓生は、卒業とともにキリスト教から縁を切るのだが、鑑三はキリスト教徒になってしまった。その理由には、武士道精神とプロテスタンティズムにある種の同質性があったからである。

それは兎も角として、鑑三の『代表的日本人』が取り上げた人物は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人である。西郷は維新の志士、鷹山は大名、尊徳は農村経営実践者、藤樹は儒学者にして教育家、日蓮は法華宗の創始者である。近代人でありキリスト教の立場にこだわれば、政治家とか封建大名、封建道徳とみなされる儒教、そして異教たる仏教の宗派創始者を忌避しても当然と思うのだが、鑑三は「代表的日本人」の観点から排除しなかった。その理由は、取り上げた人物はいづれも「日本人として優れている」という観点から高く評価できたからである。鑑三の信仰は「二つのJ」すなわちイエス(Jesus)と日本(Japan)を限りなく愛することを軸にしていた。彼の「日本を愛する」心が実感させる作品が、『代表的日本人』という著作なのだと思う。

鑑三が取り上げた西郷、鷹山、尊徳、藤樹、日蓮は紛れもなく最上質の日本人であり、このような人物を歴史に有する日本という国は素晴らしい国だと誇らしく感じる。そんな日本が、現在では首相に増税メガネこと岸田文雄を担ぎ、都知事選では有力候補者として小池百合子と蓮舫が注目されているのはまさしく「歴史の退歩」だろう。小池は「学歴詐称」、蓮舫は「二重国籍」という傷を持ち、その傷が化膿しきって、二人とも化粧と高級ブランドの衣服の下は腐りきった汚物様なものである。蓮舫は出自からしても名前からしても日本人ではないから措くとして、小池百合子の醜態は歴史的汚点だろう。大阪府知事を勤めた「横山ノック」と好一対の人物だ。

小池百合子は最大の問題点は「嘘つき」だということで、これは公職選挙法がどうのこうのという問題よりも大きいのだ。というのは、知事の職権として教育長や教育委員を任命し、高校以下の私立学校の監督に当たるのだ。特に都立高校では、入学式や卒業式の祝辞は知事あるいは知事が任命した教育委員会から発せられる。このことは何を意味するかというと、知事あるいは一般的に地方自治体の首長は道徳的に優れた人であるということを前提にしている。学校や家庭では、子どもを誠実な人間に育てようとするのが普通だ。誠実な人間が良き日本人だ、というのが暗黙の価値観なのだ。誠実であれば時代の制度や宗教・宗派の違いを乗り越えることが可能なのだ。普通の日本人の価値観はこうしたもので、内村鑑三の日本人観もそれと同じものなのだ。

したがって、「学歴」で「嘘つき」の小池百合子は自治体のトップに立ってはならないのだ。その理由は、「嘘つき」は誠実な心を欠いた人間であり、日本人としては最低だからだ。子どもの前に絶対立ってもらいたくない人間の一人なのだ。キリスト教では悪魔のことを「アンチ=クライスト」と呼ぶが、それを捩れば、小池百合子は「アンチ日本人」ということになり。蓮舫と同じく「日本人性」が疑わる人物だ、ということです。