高野長英と桐島聡の違い | 方丈随想録

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東アジア反日武装戦線のメンバーであった桐島聡が、先月末癌で亡くなった。ほぼ50年に及ぶ逃走の果ての野垂れ死であり、テロリストにも革命家にも数えられない醜態を晒しただけの生涯だった。薄っぺらの知識と信念しかなかったのに、多くの人を殺し、あるいは傷つけたわけで、本人の「後悔している」という言葉は恐らく本当だろう。

「若気の至り」というか、生半可な情報と知識で世の中を見下し、過激な反社会的行動に走る。秋葉原や京アニにおける大量殺人と桐島の行動は同質のように思える。自分を高く買いかぶる「自己中心主義」が反社会的行動に現れたのだ。

長期間の逃亡生活という点に関して、小生はふと江戸時代の蘭学者である高野長英を思い出した。高野長英は「蛮社の獄」で牢獄に送られたが、牢獄では医学の知識で同室の受刑者を治癒したことから牢名主になり、やがて牢屋番に火事を起こさせて脱獄に成功した。脱獄したとはいえ、全国に指名手配され、江戸で医者を開業していたところを踏み込まれ、その際死亡した。

江戸時代ですら、脱獄して生計を立てることは不可能だった。ではなぜ死を賭してまで脱獄しようと長英は考えたのか。彼の脱獄する理由は崇高だった。長英は蘭学を学び、オランダ語の辞書が頭脳にすっかり収まっている程の博覧強記の人物だった。語学の面では天才だったし、医学を始めとする西欧の近代科学の知識まで持ち合わせていた。長英はそこにとどまらず、世界における近代化の進捗、西欧世界の優越化を蘭学の学習から見抜いたのだ。鎖国と封建制度にまどろんでいるようでは日本が遅れる。長英本人も蘭学を究めたいという向学心の塊だった。したがって、いつの日になるか分からない釈放を待つよりも脱獄すべきだ、と決めたわけだ。高野長英の気概というもは実に「あっぱれ」ではないか。日本の将来と学問の発展のために自分を犠牲にした生涯だったのだ。一脱獄囚だとみなしてはならない。

それに対して桐島聡はどうだったか。大学への受験勉強をいくらかした程度だろう。学部在学中にテロ事件に関与しているから、大学時代に学んだことは乏しいだろう。それで学問も世の中のことも分かったつもりになっている。実力がゼロに近いことは、逃走中の仕事が土建業の「手伝い」だけだったらしいことで分かる。長英の場合、逃走中に一時期、四国の宇和島藩に招聘されたいたし、江戸では医者を開業していたのだ。長英と桐島は実に「月とスッポン」の関係だろう。

前のブログでも書いたが、桐島聡もある意味では被害者だと思う。単純でお人よしの子どもに妙なイデオロギーを吹き込んだ人物がどこかにいるのだ。小生の見立てでは神辺中学校と尾道北高校の当時の教員だろうと思う。その教員は無事定年を迎えて退職金を受け取り、平穏な年金生活を全うしたことだろう。しかし、教え子の桐島はロビンソン=クルーソーに劣らぬ窮乏生活の果てに病死したわけだ。本当の「悪」は桐島を使嗾した連中ではなかろうか。