キリスト教への疑問点 | 方丈随想録

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近くコンビニに行ったところ、駐車場に一台のワゴンが停めてあった。そのワゴンの車体に「神イエスを信ぜよ」と書かれていた。

キリスト教におけるイエスの位置付けはキリスト教の核心部分である。古来から論争が絶えなかった。

イエスは神ヤハウェを信じていた。神はヤハウェだけだから、イエスが信じていた宗教(ユダヤ教)は一神教である。ところが「神=イエス」となると、一方にヤハウェがいて同時に神たるイエスがいるとなると、キリスト教は一神教ではなくなる。二神教ということは多神教の範疇に入る。それではまずい、ということで、古来から神とイエスの関係を種々議論してきた。イエスの神性と人性をどう理解するかをテーマに宗教会議を開催し、アリウス派やネストリウス派を異端として追放したものだ。正統説は三位一体説ということになっている。

ともあれ、イエスは「神の子」として神ヤハウェと人間との間に位置する仲保者として位置付けられる。イスラム教でのムハンマドの立場も仲保者であるが、ムハンマドはあくまで人間であり、しかし最後のもっとも偉大な「預言者」という位置付けだ。

ここで可笑しいのは、「神の子」であるイエスの名前である「イエス」は誰が命名したのだろう。恐らくヨセフとマリアの夫婦だろう。「神の子イエス」にとって「イエス」という名前は俗名のはずだが。神ヤハウェの「ひとり子」であればヤハウェに命名権があり、ヤハウェが名付けた名前があると思うのだが、そんな名前はどこにも出ていない。

イエスはマリアという女性を母に誕生した。そしてマリアは処女だった、という。そこである聖書学者が、マリアは婚前性交をして妊娠したのでは、と疑った。そのことがバレると石打の刑で殺されるから急遽お人よしのヨセフとの縁組を整えたのでは、という説がある。この説では「聖母マリア」どころの話ではなく「不倫のマリア」になりかねない。長男として生まれたイエスは両親とは異なり「是々非々」の感性が鋭い宗教性向の強い人物だった。それがたたって、結局抹殺された。

イエスは十字架に架かった際に絶望の言葉を口にしたが、神ヤハウェはイエスの運命として十字架刑を与えたのだから「鬼親」と呼ばれてもいいだろう。しかし、イエスは盛んに「神の愛」を説いていたわけだから、どこかおかしくないだろう。イエスを復活させたのだからいいのでは、という問題ではないように思う。神ヤハウェは自分の息子に自身で命名もせず、十字架刑の運命を示唆することもしなかった。父親失格だろう。最近問題になる「子どもを虐待する親」と五十歩百歩である。

それにしても、ヤハウェという名前自体不真面目ではないか。意味は「ありてあるもの」という。イスラム教では神を「アッラー」と呼び、その他の宗教でも神の名はしっかり明示されている。ユダヤ人は「モーセの十戒」を厳守して神の名を唱えることを控えたというわけで、神の名称を忘れたという。そこで19世紀の聖書学者が「エホバ」と呼んだのだろうと結論を出したのだが本当は「ヤハウェ」だったという。実にいい加減な話が多い。