今回は、精神的に不安定な少女ナオミが主人公の日記体小説『ナオミ』の第4章です。

 第1章と、前回の第3章はコチラ↓

 

 

二千二十三年四月三十日

 

 今日は久しぶりに図書館に行った。懐かしかったわ。夏目漱石の『坊ちゃん』と、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を借りたの。

 

 それからね、私には最近、不安なことがあるの。両親がメグとジョージを本気で中学受験させようとしてるのよ(たぶん、中学受験しなかった私が落ちこぼれのごみくずだから。お兄ちゃんも結構ひどい成績だし)。二年前から、両親は二人の中学受験を考えてたじゃん。私は何度も反対して、一時期すっかり両親との関係が悪くなったの(だってね、お父さんが私に「ナオミは中学受験、どう思う?」って何度か聞いたのよ。それで、そのたびに「自分の時間がなくなっちゃうかもしれないから、私は反対」って答えたの。お父さんは「あっそう」って言うだけで、私の意見なんてまるで無視。しまいには「もうナオミは口を出すな」だってさ。なにそれ、自分からどう思うかって聞いてきたくせに。じゃあ最初っから聞くなよ)。

 

 二人は、一日に八時間も十時間も勉強する小学生になるのかしら。めちゃくちゃすごいことだとは思うけど、もしそうなって体調を崩したりしたらどうしよう? あーあ、もう。すぐ嫌なことばっかり考えちゃう。

 

 メグとジョージのことでも悩みがあるけど、自分のことでも悩みがある。私の吃音症はいつか治るのかってこと。

 

 私は、中学三年生までは吃音症じゃなかった。

 

 学校や塾で話してるみんなを見てるとき、流暢に話せてた中学生の頃を、最近よく思い出す。私は本当の意味で「おしゃべり」で、色んな人と話してた。学年の明るい人たち––––いわゆる、「陽キャラ」––––とも、結構仲が良かった。仕草とか発言がギャルみたいな男の子、バレー部の男の子、バスケ部で一番可愛い女の子、学年のマドンナ、天然で面白い女の子、いつも廊下を走ってた男子たち、色んな男子とセックスしてた女の子…もっともっといるけど、とにかく色んな人たちと話してた。今じゃ信じられないけど。

 

 もし吃音症にならなかったら、高校でも絶対たくさん友達ができてた。もちろん上辺(うわべ)だけの友だちは本当の友だちじゃないし、アンナがいるから幸せだと思ってるけど、さ。

 

 でも、さすがに時々、虚しくなる。あんなに話せてたのに。あんなに色んな人と仲良くできてたのに。もし吃音症にならなかったら、絶対もっと話せてるのに。

 

 もっと虚しいのは、あの高校を受験した理由。私は吃音症になったからあの高校に行くことにした。

 

 私ね、新しい環境に行けば、気持ちも新たになって、吃音が治ると思ったの。中学生のときは病んでて(今もそうかもしれないけど、もっとひどかった)、自分の不安がこれ以上膨らまないために、どうやったら宇宙を潰せるかって、本気で考えてた。

 

 それから、周りの人に馬鹿にされるのが、もう耐えられなかった(だけどね、今考えると、あれは馬鹿にしてたんじゃないの。一部の人は本気で私を気味悪がってたけど、ほとんどの人は(たぶん)私を人間として好きでいてくれたんだ。それなのに、なんだかいつもずれていることを笑われたりすることだとか、そういう愛情やコミュニケーションの一環を、全部、悪意だと捉えてきちゃったの)。

 

 私が通ってた中学校のほとんどの人は、アンナも含めて他の近い高校を受験した。だけど私は遠い高校を受験した。どこか遠いところに行けば、宇宙を潰す計画を練ることだったり、周りに馬鹿にされることだったり、そういうことが一切合切、環境を変えればなくなると思った。なくなると信じてたのに。

 

 そんな無駄な信頼は、今考えると本当に愚かだった(何も信じるべきじゃなかった)。高校に行って、吃音はますますひどくなった。最初は、ナ行から始まる単語が滑らかに言えないだけだった。それが高校に入って、時間が経って、知らない人たちとの会話のハードルがどんどん高くなるにつれて、言えない単語がどんどん増えていった。マ行が言えなくなって、ア行も言えなくなった。そうやって話せる語がぐんぐんぐんぐん減っていって…で、ついに五十音ビンゴ。完全にしゃべれなくなっちゃった。まるで呪いがかかったみたいに。

 

 中三の最後の方、私は担任の男の先生に、上手く話せないことを相談した(あれは––––そう、放課後だった)。先生は私の相談に「そっか。」とだけ返事して、ポケットから教室の鍵を取り出した。そして、「これは何?」って聞いたの。私は「鍵」って言おうとしたんだけど、どもって「か」の途中ぐらいで止まっちゃった。何回も「鍵」って言いかけるんだけど、何回も失敗しちゃって、とうとう私は泣きだした。先生は、優しく「鍵ね」って言って、すぐに「頭では分かってるんでしょ?」って聞いた。私はうなずいた。

 

「じゃあ大丈夫だよ」先生は、元気づけるような、包み込むような、最高の声で言った。「もう高校の受験も終わったんでしょ?」

 

「は、は、はい。こ、こ、高校の受験は、め、め、面接、ありませんでしたし。」

 

 先生は、「そっかあ」って言って、目を真っ赤にした私を見た。それから先生はすぐに吹き出して、「大丈夫だよ、ナオミ! 泣くなよォ!」って大きな声で言った。その明るくてカラッとした言い方に、私も思わず笑っちゃった。笑うとまた涙が出てきたけど、さっきと違って、あったかい涙だった。

 

 その先生、人が泣いてるときに笑うのよね。それなのに、人を傷つける笑い方じゃない。人をどん底から引っ張り上げてくれる、爽やかな笑い方なの。きっと、先生がすっごくいい人で、私たち生徒のことを心から愛してくれてるから、そういうすてきな笑い方ができるんだと思う。そうじゃなかったら、もっとイラッとする笑い方になるはずだもの。

 

 吃音の話に戻るけど––––一時期は、アンナとも普通に話せなかった。言えない単語を避けて話すから、文法も文章もめちゃくちゃになっちゃって、自分でももう支離滅裂だって分かってるのに、口の動きと勢いは止まらないの(たぶん『裸のランチ』みたいなことを、ひたすら口走ってたんだと思う)。私がしゃべり終わったときの、アンナの一言が忘れられない––––「ごめん、何を伝えたいのか分かんない」って。

 

 あ、やだ、泣けてきた––––大丈夫、大丈夫。あなたを濡らしたりしないから、日記帳。ちょっと、あっちで泣いてくるね。

 

 

 

 

 

二千二十三年六月九日

 

 今日は、『受話器でPROMISE』っていう詩を書いた。

 

 

もしもし 聞こえますか?

助けて 血が止まらないんです

 

今日も母が激しく泣きました

今日も父がため息をつきました

それは私がいつものように

血を舐め始めたからです

 

少し外に出れば爽やかな夏です

だけど家の中には 私の血がいっぱいです

みんなは優しいけれど

さすがにそろそろ見捨てられそうです

 

どうしたら血を止められますか?

教えてください

助けてください

ここに来てください

 

次の年の夏になったら

十三番地に来てください

お墓の中で待っています

必ず来てください

 

 

もしもし まだ聞こえてますか?

助けて 血が止まらないんです

 

今度は私の血ではありません

今度は嫌いな奴の血なのです

私ははじめてシャツを脱いで

血をちゃんと水で落としました

 

少し外に出れば懐かしい夏です

だけど家の中には 奴の血がいっぱいです

みんな辛抱強いけど

さすがにそろそろ追い出されそうです

 

どうしたら血を隠せますか?

教えてください

助けてください

ここに来てください

 

百年後の夏になったら

十三番地に来てください

一緒に花を添えましょう

必ず来てください

 

 

もしもし まだ聞こえてますか?

どうして無視をするんですか?

返事をしてください

どうしてもしないつもりですか?

 

 

おい

 

 

それなら今から嘘をつきましょうか?

私はあなたが嫌いです

顔も見たくないほどに

あなたを見ると反吐が出る

 

近寄るな ああ近寄るな

And so Sally can wait

She knows it's too late

As we're walking on by

 

 

…それでもあなたが

 優しくしてくれるのは何故ですか…?

 

奴を思いっきり刺したのに

学校の階段に「死ね」と書いたのに

犬を叩き殺したのに

あなたを殺そうとしたのに

 

優しくしてくれるのは何故ですか?

 

 

…ええ 本当は分かっています…

それじゃあ約束どおり

今日の夜の十一時半

私の家に来てください

 

 

 

 

 

二千二十三年六月二十七日

 

 私は一般入試を受けないことにした。総合型一本で大学を目指す。


 私はどうしても頭と成績が悪くて、普通の勉強じゃ絶対に大学に行けない。だから必死で九月から十一月に総合型で受けて、それでどの大学も落ちたら、また別の生き方を考える。第一志望は、お姉ちゃんと同じ漣(さざなみ)大学の人文学部の日本文化学科にした。偏差値七十の国立で、私が一般で受けても絶対通らないようなところ。


 ほんとは偏差値六十の私立が良かったんだけど、お父さんに「目指すなら上を目指そう」って言われて、すっごく燃えたからハードルを上げた。「目指すなら上」って、めちゃくちゃロックじゃない?


 受験も人生も、どんな形であれ燃えるように過ごしたい。燃え尽きて燃え尽きて、灰になって死にたいと思う。


 それからね、六月二十四日から二十五日の土・日にかけて、新幹線でお父さんと二人、住んでる東京都から岩手県に行ってきたの。


 といっても、遊びに行ったわけじゃないわ。受験のため。


 総合型選抜のために大切なことは、小論文と自分の研究テーマ。研究テーマっていうのは、自分が継続して行ってきたこと。それをレポートにまとめて、自己推薦書として大学に提出するの。


 私は研究テーマを「宮沢賢治はなぜ童話内で独特なオノマトペを多用したのか」にした。だから賢治の故郷の岩手県に行って、現地の人たちに賢治のことについて聞き込み調査をしたの。観光センターのおばさん、お土産屋のお姉さん、車屋のお姉さん、民宿のおばさんやおじさん、レストランのお姉さん、学芸員のおじいさん…とにかく色んな人に賢治のことを質問して、宮沢賢治記念館で賢治に関する資料を大量に印刷して、東京に帰ってきた。みんなすごく親切だったし、賢治の人生を前より身近に感じることができて、それから岩手の文化や方言に触れることができて、すごく有意義な旅になった。


 あと、お父さんがたくさんたくさん手助けをしてくれた。ほら、私、吃音症でしょ。だから上手く声が出なくて、質問できずに黙っちゃうことが何回もあったんだけど、そんなときは、お父さんが私の言葉を継いで話してくれたの。


 お父さんがいなきゃ、何もできなかった。私は、お父さんに心からお礼を言った。なんだか、久しぶりにお父さんにありがとうって言った気がしたわ。

 

 

 

 

 

二千二十三年七月九日

 

 最悪だ。最悪の気分。

 

 今日の夜、はじめてアンナの家に行ってきた。今日はアンナの両親が出かけてるから、家に来てもいいよとアンナが言ってくれたのだ。アンナには二人の兄がいて、快(読み方は「カイ」で、二十二歳)と吐夢(読み方は「トム」で、二十歳)という。私は、そのトムのことが好きだ。アンナとは幼なじみだから、トムに会うことも何度かあった。そして、そのたびにどきどきしてきた。トムの笑った顔は最高なのだ。

 

 アンナの家に着くと、カイがドアを開けてくれた。

 

「いらっしゃい。アンナはトムの部屋にいるよ」

 

「ありがとう」

 

「じゃあ俺は、自分の部屋にいるね。大学の課題があるんだ」

 

「うん、じゃあね」

 

 カイの姿が消えると、私は深呼吸をしてトムの部屋に入った。そしたら、アンナとトムが楽しそうに話してた。

 

「いらっしゃい、ナオミ」「おう、ナオミ」

 

 二人とも、にこやかにあいさつしてくれた(トムは、ちょっとお酒が入ってるみたいだった)。私も笑って「おじゃまします」って言ったら、アンナが自分の座ってるベッドの横をぽんぽんとたたいて、「ここ、座りなよ」って言ってくれた。

 

 私がお礼を言ってアンナの隣に座ると、アンナは勉強机のイスにだらしなく腰かけてるトムを見て、

 

「今ね、トムの恋人の話してたんだよ」

 

「トムの?」私は一瞬、雷に打たれたみたいだった。

 

「元恋人だって言ってんだろぉ」酔ってるトムは、へらへら笑いながらアンナを見た。「こいつ、いつでも俺の恋愛について、根掘り葉掘り聞きたがるのさ」

 

「ねえってば、トム。あの娘(こ)とどんなことしたの?」

 

「言わねえって。お前こそ、あいつとはどうなんだよ」

 

「言うわけないでしょ」

 

 アンナとトムは盛り上がってたけど、私はなんにも言えなかった。私は勢いよく立ち上がって、

 

「ごめん、私、やっぱ帰らなきゃ。ジョージとジャッキー・チェン観る約束してんだった」

 

 まるで嘘っぱちだったけど、そう言った。

 

「そっか。ジョージ、ジャッキー・チェン好きなんだっけ」

 

「センスいいじゃん」

 

 アンナもトムも、楽しそうに言った。私も必死で笑顔を作って「ねー」と言うと、自然な感じで玄関まで歩いていった。トムが手を振ってくれて、アンナが玄関まで見送ってくれた。「ばいばい」を言い合ってアンナを振り向くと、そこにはまだアンナが立ってて、笑顔で手を振ってくれてた。私は何かがこみ上げてきて、泣きそうになった。眉間に力を入れると、もう一回笑顔を作って「ばいばい!」って言った。あとはもう振り返らずに、一目散に自分の家まで走っていった。

 

 トムに恋人がいたなんて、考えたくない。その人とキスしたのかな。セックスしたのかな。どのぐらい本気だったんだろう。考えたくないのに、何度も何度も考えてしまう。

 

 この感覚は知ってる。なんだろう。なんか上手く言えないけど、とにかく前にもこんな気持ちになったことがある。トムの愛する人がいたという事実は、どうしてこんなに私の胸を苦しくさせるんだろう。

 

 

 

 

 

二千二十三年八月十三日

 

 私はやっぱりトムが好きだ。近頃、改めてそう思う。

 

 今日、またトムとアンナの家に行ってきた。前はトムに元カノがいたのがショックで帰っちゃったけど、考えてみれば、大学生にもなれば彼女なんて普通にいるだろうし、今は誰とも付き合ってないみたいだし、そんなことでトムと過ごす時間を自分から消しちゃうなんてバカバカしいと思ったからだ。

 

 トムはとっても素敵な人。いつもは仏頂面なんだけど、笑った顔はすごく可愛いの。笑顔のトムを見ると、なんか恥ずかしくなって、反射的に目をそらしちゃう。

 

 仏頂面なら、普通に見れるのよ。「ああ、いつものトムね」って。だけど急にあの素敵な笑顔が現れると、正直びっくりする。まあ、一瞬目をそらしたあと、すぐ見るけど。

 

 いつも笑顔なら、こんなにどきどきしないと思うの。ふっと可愛い顔になったり、優しい目になったりするんだから、あの人は…。

 

 それにね、私が好きなのはトムの笑顔だけじゃないのよ。中身も好きなの。あの人は飄々としてて自由人だけど、自分のやるべきことにはプライドを持って全力でこなすの。

 

 あと、自分のことを考えてるときのトムが好き。もちろん周りの人のことも考えてくれてるとは思うけど、それ以上に自分のことを考えてるトムが好き。自分が楽しむためになんでも全力でこなすから、その魂が他人にも伝わる。周りにいる私たちも楽しめる。結果的に、みんな幸せになれる。だから私は、自分のことを全力で考えてるときのトムが大好きなの。

 

 でも、行儀が悪いときのトムも好き。前にこっそりトムのあとをつけてたとき、トムはガムをまちまち噛んで、路上にペッと吐き出した。汚いなあとは思ったけど、キモイなあとは思わなかった。だってホラ、素敵だからさ、あの野郎。

 

 私、しばらくはトムに夢中だと思うわ。でも心配しないで。勉強もちゃんとやってるから。