横浜フリューゲルスと横浜FC 其の弐 | ヴェルディの星

横浜フリューゲルスと横浜FC 其の弐

横浜フリューゲルス(フリエ)サポーターの必死の抵抗に関わらず、マリノスとフリューゲルスの合併は強行調印されました。フリエは消滅することになったのです。新クラブ名は「横浜F・マリノス」。とってつけたような「F・」があっても、これをフリエの残影だとは誰も納得できなかったでしょう。新会社名は「横浜マリノス株式会社」。マリノスのフリューゲルス吸収合併なのは明白でした。

 

そこでフリエサポーターは、潰れるフリエに代わる新しいフリエを作ることに動き出します。1998年12月25日にはサポーター有志により新会社「株式会社横浜フリエスポーツクラブ」が設立が設立されます。「フリューゲルス」の名称ほか諸権利はマリノスが保有するため、愛称の「フリエ」を会社名に入れたのです。

 

他サポからも含め集められた「フリューゲルス再建基金」(私も5万円振り込みました)から2500万円の融資を受けます。このことからもこのクラブがフリューゲルスの後継として設立されたことは明白でしょう。とは言えどうやって選手を集めるか?どのリーグ(普通なら神奈川県リーグ)に加盟するのか?まったく五里霧中でした。

 

しかしこの「愛するクラブを奪われたサポーターが自分たちでクラブを再興する」と言う「物語」に外資系の広告代理店が乗っかることになります。サポーターは本当に乗っていいか疑心暗鬼になりながらも、スポンサー集め、選手集め、そしてGM(奥寺康彦)招聘、監督(リトバルスキー)招聘を遂行。いきなり「プロサッカーチーム」と呼べる陣容を作り出したのです。条件は「JFLからの特例参戦」。

 

サポーターの中にはJ2からの参戦を訴える人もいましたが、それは叶わず。しかし「フリューゲルスを潰した」ことに負い目を持つ日本サッカー協会(JFLの管轄はJリーグではない)は「超法規的措置」でいきなりのJFL加盟を承認します。ただし「準会員」として。JFLで4位以内になれば「正会員」に。そして翌年4位以内に入ればJ2昇格。早ければ2年後にJリーグ加盟の道筋ができたのです。

 

こうしてクラブ名は「横浜FC」と決まり、4月25日開幕のJFLに参戦することになります。会社設立登記からわずか4ヶ月のことでした。「フリューゲルス」の名前やマスコット「とび丸」の意匠権はマリノスにあり、勝手に使えません。ただし協会から「将来フリューゲルスの名前を受け継ぐ受け皿が出来た時にはそれを受け継ぐことができるよう配慮する」との言質(=口約束)を受けていました。

 

そのためフリューゲルスを象徴する「F」を入れたクラブ名となったのです。アメリカスポーツのような愛称でなく、日本における「FC」とつけるネーミングの元祖は1998年設立のFC東京でした。横浜FCはそれに乗っかった形のネーミングでした。クラブカラー、クラブショップ(フリエ元町→F元町)などから、このクラブが横浜フリューゲルスのお家再興を求めてスタートしたことは明白だったのです。

 

そして1999年4月25日横浜国際競技場。会社設立、フリューゲルス解散のわずか4ヶ月に横浜FCは歴史的な船出するのです。

 

またまた長くなったので、分けますね。つづく。

其の参