来季からコーチ復帰を果たす、この方
中日 石井 昭男 さんです!
2018年から、17季ぶりに現場復帰を果たす石井コーチ。
そんな、石井さんは、1972年 東海大相模高校2年次に、夏の甲子園へ出場。
高校卒業後は、東海大学へ入学し、首都大学リーグで在学中に5回優勝を飾ります。
1976年、1977年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、四番打者を任されます。
1977年ドラフト3位で、中日ドラゴンズへ入団。
入団1年目には20試合に出場し、プロ初安打も記録。
入団3年目の1980年には、88試合に出場し、7本塁打を放つなど、順調に経験を積んでいきました。
また、1985年には、谷沢選手、大島選手、ケン・モッカ選手が怪我で戦線離脱する中、4番バッターとして、打率3割を記録しました。
怪我の影響もあってか、中々レギュラーに定着せず、代打の切り札が石井さんの活躍舞台。
打撃センスは抜群でした。 ゲーリー・レーシッチの前にいた、応援歌が元祖「狙い打ち」の方。
東海大学の後輩で後に巨人軍へ入団する、原 辰徳 選手が、
「あの石井さんがレギュラーになれないのに、僕がプロで通用するはずがない。」
と語っています。
1987年 現役を引退。 その後、翌年からコーチとして、中日ドラゴンズに残ります。
鍛えた選手として、長年活躍した選手は、
中日(1984年~1995年)→ロッテ(1996年~1997年) 仁村 徹 さんです。
入団2年目から打者転向。そこから長きに渡りドラゴンズの中軸打者として活躍。
伸び盛りのドンピシャのタイミングで、練習にみっちり付き合ったのが、石井コーチでした。
仁村さんは、「僕のバッティングは、みんな石井さんに教わった」 と語っています。
その後、現場を離れ、スカウト業として活躍。
そして!2018年から満を持して、2001年以来の現場復帰です!!
2017年秋季キャンプ初日は、東海大甲府高校出身の高橋 周平選手などを中心に、若手打撃指導。
初日の感想が、
「僕らが見て、入れた選手たちばかり。でも外から見ていると、入ったときよりよくなっている感覚があまりない。個性がなくなっている。本人のとらえ方の問題」
と語っています。
スカウトと、入団後の指導の一元化がいよいよ進みそうです。
石井コーチに期待!!
長くコーチとして活躍するこのお方
日本ハム→中日 早川 和夫 さんです!
ながーく、ドラゴンズのコーチとしてチームを支えるコーチの早川さん。
そんな早川さんは、栃木商業高校時代は甲子園出場はなく、大学は国士舘大学へ進学。
その後、社会人チームの三菱重工横浜へ入社し、他チームの補強選手として都市対抗野球へ出場しました。
1984年ドラフト3位で、日本ハムファイターズに指名され、入団。
即戦力として期待され、入団1年目には24試合に出場。安打も5本を記録しました。
1987年にも64試合に出場し、翌1988年も開幕スタメンメンバーに起用されるものの、打撃が振るわず・・・。
五十嵐信一選手にポジションを奪われ、44試合に留まります。
そして、1軍の出場機会が遠のき・・・
1990年 田中幸雄 投手と共に、藤王康晴 選手・小松崎善久 選手との2対2のトレードで、中日ドラゴンズへ移籍しました。
移籍初年度は、スタメンで3試合に出場。それ以降は代打業に。
出場機会は限られ・・・
1993年に現役を引退します。
引退後は、解説者を勤めたのちに、1997年から2000年まで、ドラゴンズのコーチとしてチーム復帰。
そして、監督が落合博満 氏になった際、ノックの腕を磨き、巧みなノックで守り勝つ野球へと貢献しました。
落合監督から、
「8年間で監督の考えを理解し、1番成長したコーチは、早川。」
と言われるほどの、努力家コーチです!
チームを渡り歩く、背の高いコーチといえば、
西武→広島→ダイエー 高山 郁夫 さんです!
身長が188cmで、足が長いスラッとした体型。
今年まで中日ドラゴンズの2軍コーチを務められていらっしゃいました。
そんな、高山さんは、秋田商業高校の出身。
高校3年次の春の選抜高校野球大会準決勝にて、帝京高校の伊東 昭光(のちヤクルト)と投げあい、0対2で惜敗。
その後、怪我もあり、日本ハムファイターズから1位指名があったもものの、プロへは行かず、親交のあった根本陸夫の薦めで、プリンスホテルへ入社しました。
そこで怪我の治療に時間を費やし、
1984年に西武ライオンズの練習生へ。その年のドラフト会議にて、3位指名され、西武ライオンズへ入団します。
プロ入り1年目には、8月vs南海戦で、プロ初勝利。
1989年には、ローテーションの谷間を埋める活躍で、5勝を挙げるものの、
近鉄バファローズとのダブルヘッダー第二戦の先発登板で、4失点のノックアウト。
その失点には、ラルフ・ラブライアントの4打席連続ホームランも。
チームの5連覇を止めてしまうキッカケとなってしまいました。
高木 宣宏投手との交換トレードで、広島東洋カープへ移籍。
スリークウォーターから、サイドスローに転向するものの、1軍での活躍をすることが中々できず戦力外通告に・・・
ダイエーホークスへ移籍しました。
1年目には、先発1回、16試合に登板したものの、2年目には8試合の出場に留まり、現役引退。
引退後は、東京にて会社勤めをしていたものの、
2005年 西武時代からの同僚 石毛宏典氏の誘いがあり、愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。
チームに所属していた、西山 道隆投手をソフトバンクホークス指名まで導きました。
2006年からは、福岡ソフトバンクホークスの投手コーチに就任。
コーチングの姿は、「チームのお父さん」
味方チームの投手が死球を与えた場合は、誰よりも誤り、
好投をすれば、投手の頭を撫でる
交代の際には、選手の肩を抱く姿など良いコーチオーラが溢れていました。
2014年からはオリックスバファローズの投手コーチに。
現在もチームに所属している、ディクソン投手からは、
「日米を通して、僕が指導を受けたなかで、彼は最も素晴らしいコーチのひとりです。」
と尊敬されていました。
2016年は、中日ドラゴンズの2軍コーチに。そして、2017年オフ、退団が発表されました。
今後はどこのチームにいくのでしょうか。
高山コーチの今後の動向に注目です。