プロ野球カードとサイン -8ページ目

プロ野球カードとサイン

プロ野球カードとサインでは、BBM・カルビー・タカラといった、NPBを取り扱うトレーディングカードを中心に選手の経歴を紹介。

アメンバー限定記事は主に球場でサインを貰う(インパーソン)際に更新しています。

80年代〜90年代のOB選手を中心です。

来季からコーチ復帰を果たす、この方



中日 石井 昭男 さんです!


2018年から、17季ぶりに現場復帰を果たす石井コーチ。


そんな、石井さんは、1972年 東海大相模高校2年次に、夏の甲子園へ出場。


高校卒業後は、東海大学へ入学し、首都大学リーグで在学中に5回優勝を飾ります。


1976年、1977年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、四番打者を任されます。


1977年ドラフト3位で、中日ドラゴンズへ入団。


入団1年目には20試合に出場し、プロ初安打も記録。


入団3年目の1980年には、88試合に出場し、7本塁打を放つなど、順調に経験を積んでいきました。


また、1985年には、谷沢選手、大島選手、ケン・モッカ選手が怪我で戦線離脱する中、4番バッターとして、打率3割を記録しました。



怪我の影響もあってか、中々レギュラーに定着せず、代打の切り札が石井さんの活躍舞台。


打撃センスは抜群でした。 ゲーリー・レーシッチの前にいた、応援歌が元祖「狙い打ち」の方。


東海大学の後輩で後に巨人軍へ入団する、原 辰徳 選手が、


「あの石井さんがレギュラーになれないのに、僕がプロで通用するはずがない。」


と語っています。



1987年 現役を引退。 その後、翌年からコーチとして、中日ドラゴンズに残ります。


鍛えた選手として、長年活躍した選手は、



中日(1984年~1995年)→ロッテ(1996年~1997年) 仁村 徹 さんです。


入団2年目から打者転向。そこから長きに渡りドラゴンズの中軸打者として活躍。


伸び盛りのドンピシャのタイミングで、練習にみっちり付き合ったのが、石井コーチでした。


仁村さんは、「僕のバッティングは、みんな石井さんに教わった」 と語っています。


その後、現場を離れ、スカウト業として活躍。


そして!2018年から満を持して、2001年以来の現場復帰です!!


2017年秋季キャンプ初日は、東海大甲府高校出身の高橋 周平選手などを中心に、若手打撃指導。



初日の感想が、


「僕らが見て、入れた選手たちばかり。でも外から見ていると、入ったときよりよくなっている感覚があまりない。個性がなくなっている。本人のとらえ方の問題」


と語っています。


スカウトと、入団後の指導の一元化がいよいよ進みそうです。


石井コーチに期待!!

長くコーチとして活躍するこのお方



日本ハム中日 早川 和夫 さんです!


ながーく、ドラゴンズのコーチとしてチームを支えるコーチの早川さん。


そんな早川さんは、栃木商業高校時代は甲子園出場はなく、大学は国士舘大学へ進学。


その後、社会人チームの三菱重工横浜へ入社し、他チームの補強選手として都市対抗野球へ出場しました。


1984年ドラフト3位で、日本ハムファイターズに指名され、入団。


即戦力として期待され、入団1年目には24試合に出場。安打も5本を記録しました。


1987年にも64試合に出場し、翌1988年も開幕スタメンメンバーに起用されるものの、打撃が振るわず・・・。



五十嵐信一選手にポジションを奪われ、44試合に留まります。


そして、1軍の出場機会が遠のき・・・



1990年 田中幸雄 投手と共に、藤王康晴 選手・小松崎善久 選手との2対2のトレードで、中日ドラゴンズへ移籍しました。


移籍初年度は、スタメンで3試合に出場。それ以降は代打業に。


出場機会は限られ・・・



1993年に現役を引退します。


引退後は、解説者を勤めたのちに、1997年から2000年まで、ドラゴンズのコーチとしてチーム復帰。


そして、監督が落合博満 氏になった際、ノックの腕を磨き、巧みなノックで守り勝つ野球へと貢献しました。



落合監督から、


8年間で監督の考えを理解し、1番成長したコーチは、早川。


と言われるほどの、努力家コーチです!

チームを渡り歩く、背の高いコーチといえば、



西武広島ダイエー 高山 郁夫 さんです!


身長が188cmで、足が長いスラッとした体型。


今年まで中日ドラゴンズの2軍コーチを務められていらっしゃいました。


そんな、高山さんは、秋田商業高校の出身。


高校3年次の春の選抜高校野球大会準決勝にて、帝京高校の伊東 昭光(のちヤクルト)と投げあい、0対2で惜敗。


その後、怪我もあり、日本ハムファイターズから1位指名があったもものの、プロへは行かず、親交のあった根本陸夫の薦めで、プリンスホテルへ入社しました。


そこで怪我の治療に時間を費やし、


1984年に西武ライオンズの練習生へ。その年のドラフト会議にて、3位指名され、西武ライオンズへ入団します。


プロ入り1年目には、8月vs南海戦で、プロ初勝利。


1989年には、ローテーションの谷間を埋める活躍で、5勝を挙げるものの、


近鉄バファローズとのダブルヘッダー第二戦の先発登板で、4失点のノックアウト。


その失点には、ラルフ・ラブライアントの4打席連続ホームランも。


チームの5連覇を止めてしまうキッカケとなってしまいました。


そこから、登板数が減り、1991年

高木 宣宏投手との交換トレードで、広島東洋カープへ移籍。


スリークウォーターから、サイドスローに転向するものの、1軍での活躍をすることが中々できず戦力外通告に・・・


1995年

ダイエーホークスへ移籍しました。


1年目には、先発1回、16試合に登板したものの、2年目には8試合の出場に留まり、現役引退。



引退後は、東京にて会社勤めをしていたものの、


2005年 西武時代からの同僚 石毛宏典氏の誘いがあり、愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。


チームに所属していた、西山 道隆投手をソフトバンクホークス指名まで導きました。


2006年からは、福岡ソフトバンクホークスの投手コーチに就任。


コーチングの姿は、「チームのお父さん」


味方チームの投手が死球を与えた場合は、誰よりも誤り、


好投をすれば、投手の頭を撫でる


交代の際には、選手の肩を抱く姿など良いコーチオーラが溢れていました。


2014年からはオリックスバファローズの投手コーチに。


現在もチームに所属している、ディクソン投手からは、


「日米を通して、僕が指導を受けたなかで、彼は最も素晴らしいコーチのひとりです。」


と尊敬されていました。


2016年は、中日ドラゴンズの2軍コーチに。そして、2017年オフ、退団が発表されました。


今後はどこのチームにいくのでしょうか。


高山コーチの今後の動向に注目です。