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プロ野球カードとサイン

プロ野球カードとサインでは、BBM・カルビー・タカラといった、NPBを取り扱うトレーディングカードを中心に選手の経歴を紹介。

アメンバー限定記事は主に球場でサインを貰う(インパーソン)際に更新しています。

80年代〜90年代のOB選手を中心です。

チームカラーの伝統芸 「 努力・根性 」 を象徴する選手といえば・・・



広島 正田 耕三 さんです!


現役時代は、カープ一筋 正田さんのプロ入りは、1984年ドラフト2位。


和歌山商業高校から、社会人チーム新日鉄広畑へ。1983年の都市対抗野球では本塁打を放つなど、活躍をします。


そして、1984年はロサンゼルスオリンピック日本代表としてセカンドを守りました。


プロ1年目を終えた、1985年オフ


投手が投げるスピードについていけず、古葉 竹識 監督の勧めから、スイッチヒッターに挑戦します。


これが、正田さんを「努力の鬼」に変えさせたキッカケでした。


寝ても覚めてもとにかく、練習。


睡眠と食事以外は、とにかくバットを持ち、打撃コーチだった内田 順三 氏共に、二人三脚で練習に励みました。


その結果、1986年には、90試合出場 打率.288を記録。リーグ優勝に貢献!



リーグ優勝を記念した旅行でも、バットを2本持参し、練習をするほど。


1987年には、努力の甲斐が実り、セカンドのレギュラーを奪取。


そこから12年間、広島カープを代表とする選手として、1軍の試合に出場し続けます。


正田さんが使うバットは、特徴的なバット。


内田コーチの指示で、1200グラムのすりこぎ型のバットを使い、最短距離でバットをボールにぶつけるスイングを身に付けました。


BBM1993年のカードも、ちょうどミートポイントへ目線を合わせている写真。最短距離を意識しているシーンです。


首位打者2回(1987年、1988年)


盗塁王1回(1989年)


ベストナイン二塁手部門2回(1988年、1989年)


ゴールデングラブ賞5回(1987、1988、1989、1990、1991年)


と、バリバリのレギュラープレイヤーとして輝かしい成績を残し続けました。



1997年も117試合に出場したものの、


翌年1998年は、「若手に出番を譲りたい。」と自ら申し出をし、コーチ兼任に。


そして、シーズン途中8月に、引退を発表しました。


同年には、1,500安打を達成、9月にはサヨナラヒットを放つなど、最後まできっちり仕事をされる選手でした。



引退後は、広島、近鉄、阪神、オリックスなどでコーチをし、


現在は、韓国プロ野球チーム 起亜タイガーズにて1軍打撃コーチをされています。2017年には、韓国シリーズ制覇に貢献しました。



現役晩年も、とにかく練習の虫


ホームゲームでは早出特打ち、ビジターゲームでも午前中から打撃練習をしていました。


その姿をみて、成長されたのが、緒方 孝市(カープ監督)や金本 知憲(タイガース監督)です。


正田さんが取り組んだ姿は、確実に後継者へ伝承されていっています。

 

勝ち星泥棒 」と言われた時期もあった、この選手



ヤクルト 伊東昭光 さんです!


高校は、帝京高校。1980年2年次 春の選抜野球大会では、高知商業高校に負け、準優勝に。


その後、社会人野球 本田技研に進み、1985年の日本選手権で初優勝に貢献しました。


そして、その年 ヤクルトスワローズからドラフト1位で指名され、入団します。


1年目からチームの先発ローテーションに入り、2年目は14勝。


3年目の1988年には、怪我をした高野 光投手に代わり、暫定クローザーを任せられました。実は、これが異色に結果を生みます。


それは、


オール救援で、最多勝を獲得 」です。


この年、リーグ優勝した中日ドラゴンズの小野 和幸投手と共に、18勝で獲得をしちゃいました。


救援のため、登板イニング数を稼ぐことはできないため、規定投球回数未到達。


このタイトルを、クローザーポジションで獲得するのは、同リーグ史上初めてでした。


そして、この時期いわれていたのが、「勝ち星泥棒 」でしたw


実際のところ、当時のヤクルトの先発陣がしっかりしていなかったっという部分もあるとは思います。



翌年は、自宅での転倒事故や、前年の登板過多もあり、あまり結果を残せず


1990年は、3試合1先発未勝利に。尻つぼみに結果が残せなくなってしまいました。


1992年に、復活!!


リーグ優勝を飾った試合には、胴上げ投手を経験されました。カムバック賞を獲得します。



1993年も、チームトップの13勝。リーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献をしました。


しかし、試合中に引退をせざる得なくなった怪我が・・・。


1996年東京ドームvsジャイアンツ戦 


吉村 禎章選手のライナー性の打球を、利き腕の右手でブロック。


直後は、一塁へ送球したものの、その後の検査で骨折。


骨折の影響で、握力が低下。その怪我が影響で、1998年に引退を決意されました。



その後は、ヤクルト一筋で、コーチ・編成業務。


現在は、編成グループチーフとして活躍されています。


 

江川キラー」といえば・・・



中日 豊田 誠佑 さんです!


1974年 日大三高時代、春の選抜高校野球大会にて、2回戦まで突破。


高校卒業後は、六大学リーグの明治大学へ進学し、3回のリーグ優勝を経験します。


そして、同時期に活躍した、六大学の名投手といえば・・・



法政大学 江川 卓 投手です。


豊田さんは、大学時代に江川投手と相性が良く、「江川キラー」と称されます。


そして、1977年に首位打者を獲得。1978年には、全日本大学野球選手権にて、日本一になりました。



その年、ドラフト外で、中日ドラゴンズへ入団。



入団一年目から、63試合にスタメン出場。そして、入団2年目には、114試合に出場し、打率.292と好成績を残しました。


1982年には、あの試合が・・・


9月28日ナゴヤ球場でのvsジャイアンツ戦。


この年、ドラゴンズとジャイアンツは1,2位を争う、攻防戦。


9回裏2-6のビハインド、全盛期の江川 卓投手は完投ペース。


そこをまず、カーブを狙ってレフト前ヒットを放ったのが、豊田さんでした。


そこから、3番 ケン・モッカ選手も、カーブを逆らわずに打ち、ライト前。


4番 谷沢選手も、カーブを打ち、レフト前!


そこからどんどん続き、この回は同点に。その後、チームのサヨナラ勝ちのキッカケを作った活躍のシーンでした。



この年、活躍のシーンはあるものの、故障がちになり、レギュラーを平野 謙選手に奪われます。


1983年からは、右の代打、守備要員としての活躍道になりました。



1988年には、登録名を「誠佑」から「成佑」に変更。この年も、右の代打・守備要員で88試合に出場します。


東京ドームでレフトを守った際、フェンス直撃の打球を、直接取ったようにみせかけ、原 辰徳選手に走塁放棄をさせた守備プレーなど、場面によってキッチリ仕事をする、いぶし銀な選手でした。


そして、リーグ優勝を手土産に、現役を引退。この年から、コーチに就任。


その後、スカウトなどを務め、2008年から2014シーズン終了後まで、ナゴヤ球場に隣接する選手寮「昇竜館」の館長を務めました。


ながーく、ドラゴンズの裏方に従事されました。


今も、男気あふれるさわやかな豊田さん。


野球指導で力を発揮してほしいです!!

年に2度の機会、このイベント!

トレカフェスタ!東京2017winter した。


今回は福袋を買うこともなかったので、開門30分前くらいに到着。


今回のサイン会ゲストは、この二人でした!

まずは、
巨人 篠塚 和典 さんです!

自身のカードの話や守備の話など盛りだくさんでしたが、特に印象に残った話を。

1984年 はじめて首位打者を獲った年、「誰かのためだからこそ、頑張れた。」

指名時の監督 長嶋 茂雄さんを、裏切らない成績を必ず残すこと。

「長嶋さんへの恩返し」が原動力になっていたそうです。

そして、もう一度、首位打者を獲得した、1987年は

チーム、仲間を考えながらプレー。他人を考えながら、流れでもう一度、首位打者を獲れたそうです。

また、バッティングに関しては、

打席の殆どが、打撃フォームを崩されて打つもの。

綺麗なスイングばかりを練習するのではなく、崩された状態からミートさせる練習が特に大事。

とおっしゃっていました。 深い。
 
そして、サイン会

背番号が「37」→「6」に変わった、1979年のタカラプロ野球カードへオファー。サインは「利夫」ヴァージョン。

カードを見せたリアクションは、

「おい、おい、おい」

でしたw 恥ずかしかったみたいで。

 
もう一方は、
ロッテ 黒木 知宏 さんです!

趣味は釣り!

 ダイエー→阪神で活躍した、城島 健司さんには、

「あいつは漁師」

でしたw

なぜ、愛称が「ジョニー」なのかというと、

新王子製紙春日井 時代に角刈りにした時、歌手の山本 譲二さんに似ていると、チームメイトから揶揄。

そこで一人が、

「ジョージ」と呼び始め、

さらに

ジョージというより、ジョニーじゃない??

と変化をした結果だそうです。 

ジョニーのほうが似合ってますw

黒木さんの現役時代で、一番印象に残ったのが、1998年7月7日「七夕の悲劇」。

16連敗中の9回2アウト、オリックスのプリアム選手に打たれた同点ホームランで、崩れ落ちた姿です。

黒木さんが話していたのが、「抑え」と「先発」の違い。

先発投手だった黒木さんは、中4日に、筋道を立てて準備を進めていました。

シーズン途中で「抑え」を任された立場。

一日ごとに切り替えて準備することがどうしても苦手だったんだとか。

この年に、最多勝利投手に輝きます。

サインは、やはりこのカード

七夕の悲劇」の一シーンです。

カードをみた反応は、

「そうそう!! (話をしていた内容) これね!!」

「はっちゃく!(横に立ってる福浦選手のあだ名)」

「鈴木さん!(バッテリーコーチ)」

でした。ノリがいいw

悔しい思い出にサインをして頂けることが、こちらとしてもうれしいです。

年末の楽しいイベントでした。次回は、
場所が池袋です!

何回目か振りですね!