時があいてしまいましたが、タカラプロ野球ゲームの記事
タカラプロ野球カードゲーム デザイン(1978年~1984年)編
タカラプロ野球カードゲーム デザイン(1984年~1988年)編
今回は、1989年~1993年までをご紹介。
●平成元年(1989年)版
平成初年のデザインは、1987年版に戻りました。このデザインは1995年まで継続されます。
また、この年には、ロッテからも野球カードが発行されます(1990年まで)
カード背景は、1987年、1988年に引き続いて、謎のスタジアムw
カードモデルは、オリックスブレーブスの門田博光さん。
1988年に身売りを決めた阪急は、オリックスへ。それと同時に、南海もダイエーへ譲渡されます。
その結果、子供のため単身赴任を避けたかった門田選手は、引き続き西宮球場に拠点を置いた、オリックスブレーブスへ移籍しました。
BBM(ベースボールマガジン社)がカードを発行し始めるのは、1991年。そして、オリックスが西宮に拠点を置き、ブレーブスと名乗ったのは1990年のため、「オリックスブレーブス」のカードが発行されているのは、カルビー、ロッテ、タカラプロ野球カードがメイン。
そして、門田さんは、1990年まで在籍し、翌年からダイエーへ移籍するため、数少ない「オリックスブレーブス時代の門田選手カード」なのです。
●平成2年(1990年)版
1990年にデビューした選手といえば、ソウルオリンピックで日本代表として、銀メダルに貢献した、近鉄 野茂英雄投手。この年、カルビーは野茂選手をカード化せず。「90年の野茂ルーキーカード」は、タカラのみの収録に。
1990年は、背景が真っ青に。これは、全球団真っ青デザインでした。
そして、この年日本球界最後の在籍となった方、巨人 ウォーレン・クロマティさんです。
ジャイアンツ至上最強助っ人と呼ばれてもいるクロマティ選手は、1984年からジャイアンツに在籍。
オールスターゲームに出場はするものの、打撃は低迷。この年限りで退団し、翌年はロイヤルズへ。
BBMでの現役カードはなく、カルビーとタカラのみ発行です。
また、こんなカードも・・・。
ダイエー 有田修三 選手 なんか変・・・。
実は、有田さんのこの写真は、「 顔 」だけを別で貼り付けしています。
前年まで巨人に所属し、1990年からダイエー。写真が間に合わなかった関係かと思います。
このように、「顔だけ合成(このほかに、1980年の阪神:デーブ・ヒルトン)」や、「全部イラスト(1987年の中日:落合)」みたいなイレギュラーカードが幾つかあります。これを探すのもタカラの楽しみ方ですね!
●平成3年(1991年)版
セ・リーグでは、5年ぶり6度目の広島カープが優勝。この年限りで、阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されます。
そして、シーズン途中にベースボールマガジン社からBBM社からベースボールカードが発売スタート。
そして、タカラカードは1991年から、
バストアップの正面写真ではなく、プレー中の写真が導入されます。
しかし、写真管理は球団によってまちまちのため、中には前年同様のブルーバックでのバストアップ写真のカードもありました。
モデルカードは、近鉄 赤堀元之投手。赤堀投手は、1991年までは背番号「40」で、翌年から「19」に変更されます。
赤堀さんのBBMカード化は、1992年からなので、背番号「40」時代は、タカラのみとなりました。
●平成4年(1992年)版
ヤクルトスワローズは、野村克也監督率いる、14年ぶり2度目のセリーグ優勝。90年代の強いヤクルトへ導いていきます。
モデルカードは、2018年ヤクルトスワローズの監督へ復帰する、日本ハム 小川淳司 さん。
ヤクルトの控え選手だった小川選手は、現役最終年の1992年 日本ハムファイターズでプレーしました。
「日本ハムの小川淳司」をカード化しているのは、タカラのみです。
●平成5年(1993年)版
サッカー「Jリーグ」が開幕し、この年の流行語大賞がJリーグになるほどの、サッカーブームに。
前年から発売開始していた、カルビー「Jリーグチップス」もサッカー人気と共に、順調な売れ行きになりました。
その結果ではありますが、プロ野球は縮小傾向に。タカラにとっては、テレビゲームに続いて、Jリーグも天敵に。。。
モデルカードは、現在チームの編成部長を務める中日 松永 幸男さん。
松永さんは、1990年にドラゴンズへ入団。1992年に19試合登板し、1993年にタカラプロ野球カードへランクインしました。
松永さんのBBMカード化は、1996年。そのため、1993年のタカラがルーキーカードですね。
このサインは、インパーソンで頂いたのですが、
「このカードは見たことない。珍しい。」
と話をされていました。
今では、1選手・OBカード化につき、選手に何百枚か渡るようになっていますが、タカラはカードゲームなので、選手へメーカーから直接渡すことはなかったようです。
門田選手のような現役時代成績を残された選手の晩年カードや、現役時代の成績はなくても、球界で仕事をされている元選手の貴重なカードが発行されているシリーズがタカラプロ野球カードゲームですね。
次回は、1994年から、発行終了年となる1998年までご紹介します。
なかなか勝てなかった阪神暗黙時代のエースといえば・・・
阪神→近鉄 湯舟 敏郎 さんです!
登録名は、「ゆふね」さんですが、本名は、「ゆぶね」
大阪にある興國高校時代は、クリーンアップでレフトを守り、
今年、最優秀救援投手を受賞:桑原 謙太郎投手(阪神)も後に在籍する、奈良産業大学の硬式野球部1期生として、入学。
2年春には1部リーグへ昇格し、秋にはリーグ優勝、そして5連覇へ貢献するピッチングを披露します。
大学卒業後は、社会人チーム 本田技研鈴鹿へ入社。
2年目には、エースとして、都市対抗野球ベスト8まで導きます。
そして、1990年。小池 秀郎(ロッテを拒否)の外れ1位で、阪神タイガースへ入団します。
入団直後の1年目のオープン戦のピッチングをみた、中村 勝広 監督から
「大大大戦力」
と、大きいが3つも付くほどべた褒めされw 1年目は、5勝11敗。
2年目の1992年には、6月14日vs広島カープ戦にて、ノーヒットノーランを達成します。
そして、3年目の1993年には、タイガースのエースとして、12勝6敗。1994年には開幕投手を務めました。
しかし!とにかくこの頃の阪神は貧打。
自身は規定投球回をクリアし、防御率3..05の好成績を残しながらも5勝7敗に・・・。
その後も、自身の不調とチームの不調も重なり、結果が残せない日々に・・・。
1995年は33試合に登板し13敗、1996年は29試合登板14敗と、
「 2年連続で、最多敗戦投手 」
不名誉な記録を打ちたててしまいます。(ちなみに、96年は右のエース 藪投手とWで・・・ )
そして、1998年4月
本塁へのカバーへ入った際に、軸足の左足を骨折。この怪我がきっかけで、中々結果を残すことができなくなってしまいます。
2000年オフに、
山崎 一玄投手、北川 博敏選手と共に酒井 弘樹投手、面出 哲志投手・平下 晃司選手との3対3の交換トレードで、大阪近鉄バファローズに移籍をしました。
一時は、開幕投手として予想をされるものの、またしても故障。
チームはリーグ優勝を果たすものの、日本シリーズの登板はなく、この年限りで現役を引退しました。
引退後は、阪神タイガースのコーチに
そして、現在は、解説や評論で活躍されています。
「 あの時のタイガースじゃなければ・・・。」と、思う投手ではありましたが、
引退後のお仕事(関西地区での解説・評論)をみると、経験を活かされている方であると思います。
これからもご活躍に期待!!