私はガンを発症して13年。
その間11回再発した。
そのため、すっかり入院生活が長くなった。
もう数え切れないほど入院を繰り返してきた。
病室はほとんど相部屋だった。
いわば同室の人はともに病気と闘う
戦友のようなものだ。
入院生活が長い分、息絶えた人も
たくさん見てきた。
同じ病室で、昼夜いつも一緒にいると
情もわいてくるし、友達になる人もできてくる。
そんな人が死が近づいてくると
たまらなくなる。
私は熱くお節介な人間だから
つい彼らに寄り添い、自分なりのエールを
送ってしまう。
手を添えると、うつろな目を少し開け
手を添え返してくれる。
「ガンバレ」と言うと少し力を入れてくれる。
私の方が嬉しくなる。元気をもらえた。

今日もそんな日が訪れた。
彼女は、一年前同室になったことから
意気投合し、友達になった。
歳は10歳も年上だったが、
はっきりした物言いが、気持ちよかった。
聞けば、高校の理科の教師だった。
定年後、再び大学に入り直し
ついには博士号までとった才媛だった。
そんなわけで人脈が広く、知識も豊富で
彼女の話は面白くてしょうがなかった。
病室にいても、暇さえあれば
いつも本を読んでいた。
退院しても、わざわざ会いにも来てくれた。
この2月、再び入院した。
その時の彼女は、痩せこけていた。
本は読まず、ずっと寝たきりだった。
声をかけると、いつも「悔しい」と叫んでいた。
私は「その怒りをパワーにして、生きよ❗」
叫んで返した。
その彼女が、酸素吸入のマスクをして
しゃべらなくなった。
それでも家族の方と一緒に
これまでのことを振り返り
彼女の手を握り、いろんなことを語った。
その時、横にいた姪が酸素が入っていってないと言った。
姪ごさんは、看護師なのでそれが息絶えたことを知っていた。
とても安らかな顔だった。
私は、明日一時帰宅する。
タイミングよく、
彼女は私にお別れをしてくれたのかもしれない。
ご冥福をお祈りします。
テーマからずれて
私の高校生時代の話になってしまった(>_<)
書いているうちに、四人で泣き笑いしたことを
思い出してしまったのだ。
そのノリで、もう一話におつきあいを。

私達は、卒業を目の前にして
なにか思い出を作りたかった。
そこで浮かんだのが、卒業旅行。
四人組のひとりのお父さんが賛同してくれ
ツアー計画まで立ててくれた。

私たち四人は、それなりに個性的だった。
J子は、チアリーダーだった。とにかく目だった。美人で男子にモテた。美人だけど、行動や言動がきっぱりしていて、女子からもあこがれる存在だった。私はそんな彼女が友達であることが自慢でもあった。
Y子は、少々周りの目を気にする優等生タイプで、なぜか同じ教室になった早々、私に近づき
「友達になって」と言ってきた。
K子は、バスケット部に所属するアクティブな体育女子。しかし心持ちは優しく、いつもニコニコして私たち3人のおしゃべりを聞いていた。
そして私。J子ほど目立つわけではないが、自己主張が強く、いつもは静かだが理不尽なことがあると、黙ってはおれない隠れ熱血漢。
そんなそれぞれ個性の違う四人だが、四人かひと括りになると、妙にバランスがとれていた。
 
さて、卒業旅行。
私たちは、京都から大阪、紀伊半島を西回りに
本州の最南端潮岬、伊勢志摩、名古屋、岐阜を回って帰るという5泊6日(前後2日車中泊)の計画を立てた。
どこで聞きづてたのか、指導部からお呼びだしがかかった。
対応したのは、口うるさいことで有名な古参の女先生だった(生徒は裏でSばばあと恐れていた)。
「あんたたち、旅行に行くがだってね。ちゃんと届け出さんと。行くがなら制服着てかれね。後で親に確認すらからね」と釘を押された。
くわばら、くわばら。
田舎娘丸出しの制服なんか着ていけるか❗と内心思っていた。

使う交通手段は、鉄道。
バリバリのSLである。高校生の節約旅行。
当然、鈍行(各駅停車)列車である。
私は母を伴って最寄りの駅で汽車を待った。
夜中である。
汽車は止まった。降りる人もなく、
乗るのは私だけ。
前の駅で乗った3人が手を振っていた。
3人は母にあいさつをし、私は列車に飛び乗った。

少々、疲れたので続きは次回にて。

次回につづく。




つだっちの情報を得て
講座受講の申込書を取り寄せた。
講座は約一週間、毎日連続して
行われるものだった。
受講料、滞在費、交通費など
決して安いものでない。
夫に、講座の内容と費用などについて話し
理解と承諾を仰いだ。
幸い夫は理解を示してくれ、
積極的なエールさえ送ってくれた。

トレガーアプローチは、
欧米を中心に全世界に拠点をもつ
ボディワークである。
講師は、アメリカからやってきた女性だった。
優しい笑みを浮かべるふくよかな人だった。
通訳は、トレガーアプローチのライセンスを持つ英語が堪能な知的な若い女性だった。
受講生は、北は北海道、南は沖縄まで約20名が
参加していた。
カリキュラムは、車座になってなって、生徒の自己紹介から始まり、講座のスケジュールについて説明された。
講座はワークショップ的だったように思う。
講師は「重さ」について話をした。
重さを量る。重さを感じる。
ん?と思ったが
それは、例えば相手の手をとり、
文字通り相手の手の重さを感じることから
始まった。
手に力が入っていると、
重さは感じることができない。
実際の重さより軽く感じる。
寝ている子供を抱くと重く感じるのは
子供は寝入り、脱力しているためだ。
相手を感じるには、
まず力を抜き、
ニュートラルな気持ちになることが
大切だと言う。
なるほど。
ふぅと息を吐き、力を抜くと
手の重さをじっしりと感じた。
新しい発見‼

次は実際のワークである。
講師の前には、ベッドが置かれていた。
つだっちの家にあったのと
同じ足の高いベッドである。
ここでは、ベッドのことを
マッサージテーブルと呼ばれていた。
アロマテラピーでも使われている。
このテーブルは、施術する人が、
楽にワークができるように
高さが調整ができるものだったのだ。
施術する人も楽にワークができる❗
この言葉も新鮮だった。
なぜなら、一般のマッサージは
受ける人は気持ちよくなるけど
施術する人は、腰が痛くなったり
とても疲れると聞いたことがあったからだ。

テープルの上にモデルが横たわり
講師による実技が始まった。
この時のモデルは、受講生であったり
講座をサポートするスタッフだったりした。
スタッフは、ライセンスをもつ施術者や
(プラクティショナーと呼ばれていた)
レベル3までクリアしている研修生が
無償で、協力していた。
ちなみに、つだっちもスタッフとして
参加し、協力していた。

次回につづく。